「特集」アーカイブ(2001年10月前半)

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10/16 シアトルマリナーズ・イチロー選手個人2冠達成(5)
10/15 シアトルマリナーズ・イチロー選手個人2冠達成(4)

10/14 シアトルマリナーズ・イチロー選手個人2冠達成(3)
10/11 裏口入学最前線
10/10 シアトルマリナーズ・イチロー選手個人2冠達成(2)
10
/9 シアトルマリナーズ・イチロー選手個人2冠達成(1)
10/7 マンガ喫茶の懲りない面々
10/5 2001年パ・リーグ最終戦「オリックス×大阪近鉄」戦観戦レポート
10/4 遺跡捏造40箇所判明に想う事
10/3 教員採用試験ウラ事情(面接試験篇)
10/2 近鉄ローズ選手、年間最多本塁打記録更新なるか?/


10月16日(火)

「今日の特集」シアトルマリナーズ・イチロー選手個人2冠達成(5・最終回)

 (第1回はこちら、第2回はこちら、第3回はこちら、第4回はこちらからどうぞ)

 1994年も葉桜の時期が終わろうとする微妙な季節に差し掛かった頃、にわかにスポーツマスコミがプロ野球、しかもパ・リーグに注目を始めました。その頃はJリーグのバブル人気が健在で、プロ野球が劣勢に立たされている時代でしたので、このことは、当時としては異例と言えました。
 プロ野球パ・リーグが突然に注目を浴びた理由、それは、パ・リーグのある選手が常識を外れた大活躍を見せていたからです。
 その選手は毎試合のようにヒットを積み重ね、打率も3割9分超という前代未聞の高水準をキープ。しかもその活躍は一過性のものではなく、1ヶ月経っても2ヶ月経っても続いたのです。
 そう、その選手こそ、この年“改名”したばかりのイチロー選手その人でした。彼は、低落傾向にあった野球人気を復活させると共に、普段は影の薄いパ・リーグ、そして彼の所属するオリックス・ブルーウェーブを世の中に広く認知させる功労者となったのです。
 この年、イチロー選手は日本記録となる210安打を記録。打率も4割にこそ届きませんでしたが、.385という高水準で、見事に首位打者とMVPを受賞。一躍、プロ野球界No.1打者となりました。
 ……それにしても、環境が変われば人間はここまで変われるのだということを証明するような出来事でありました。何せ、前年までのイチロー選手は、いくら不遇を強いられていたとはいえ、一軍での打率は2割前後。打順も途中出場で8番、9番といったところだったのです。
 ですから、オリックスファンの間での人気も今ひとつで、グリーンスタジアム神戸の外野スタンドは、10代の女の子から「キャ〜! イチローさ〜ん!(注:改名前でも、ファンの間では「イチロー」と呼ばれてました)という、高倉健と武田鉄也が出て来そうなほど黄色い歓声が湧き上がるその横で、硬派な男性ファンが、「ケッ、何が『キャ〜! イチローさ〜ん!』や。騒がれるんは百年早いわい」などと、苦虫を噛み潰す姿が見られて、それはもう殺伐としたものでした。それはまるで、
サザンオールスターズのコンサートで、今は脱退した特定のメンバーに対して、某宗教団体のグループが猛烈なラブコールを浴びせていた、あの光景とよく似ているかも知れません。

 何はともあれ、こうして一気に超一流打者の仲間入りをしたイチロー選手は、翌年以降も大活躍を続けます。その活躍たるや、3割打つのは当たり前で、首位打者を独走していても、打点王との2冠を獲っても、ろくに話題にもならない位です。6年連続首位打者に輝いた頃には、3割5分打ってて、「イチローも落ち目とちゃうか?」と言われる始末で、傍から見てて可哀想になりました。しかも、球団がイチロー選手を特別扱いしたためにチーム内の人間関係もギクシャクし始め、イチロー選手はストレスからか、魔性の女・葉月里緒菜をチョイカキしてしまうなど、やってはいけない事をやらかしたりしてしまいます。まぁ、後の谷選手よりはマシだと思いますけどね

 イチロー選手本人も、そんなことではいけないと思ったのでしょう。彼は、現状打破と更なるステップアップのため、大リーグ進出を真剣に考えるようになりました。
 しかし今も昔も、日本プロ野球選手の大リーグ進出において、最大の障害となるのが所属球団の抵抗です。何せ、日本のプロ野球では、選手が辞表を叩きつけて球団を飛び出しても、球団が「任意引退選手」で公示を出してしまえば、選手は他の球団に移籍することが出来ないシステムになっています。
 そんな球団に対して選手ができる対抗手段はFA(フリーエージェント)権の行使ですが、今の規則だと、「移籍したい時に限って権利が無い」のがもっぱらだったりします。野球選手の全盛期は短いものなので、1年の遅れが致命傷になりかねません。
 事実、イチロー選手も、大リーグ行き希望をほのめかしてから数年間、オリックスを離れるに離れられない状況が続いていました。なにしろイチロー選手はオリックスにとって戦力的にも観客動員的にも大黒柱、ハロープロジェクト内におけるモーニング娘。のような存在だったのですから。
 情勢が変わったのは2000年のシーズンオフでした。この時点でイチロー選手はFA権獲得まで、実質あと1年だったのですが、ここに来てオリックス球団がイチロー選手以上に大リーグ移籍に乗り気になったのです。
 どういうことかというと、選手がFA権を行使して海外の球団へ移籍した場合、それまで所属していたチームに対する移籍金がゼロになってしまうのです(日本国内での移籍の場合には移籍金有り)。ですので、オリックス球団にしてみれば、どうせ大リーグに移籍されるのなら、移籍金を獲得できる内に移籍してもらおうという考えになったというわけです。さすがは所属選手から「ケチックス・ブルーウェーブ」と言われるだけのことはありますよね。
 そして、日米野球協定に基づく“入札”が行われ、イチロー選手はシアトル・マリナーズへ入団が決まりました。後の活躍は連載の第1回で述べた通りです。

 プレーオフが始まってからも絶好調のイチロー選手。早くもシアトル・マリナーズの顔となりつつあります。プレーオフの続きも、そして来年以降も頑張ってほしいですね。
 そういえばイチロー選手、つい最近、練習場でポンカス土井正三の訪問を受けたそうですが、お愛想で一言、二言会話をした後はクラブハウスに引っ込み、土井が帰るまで何時間も中で籠城を決め込んだ、という微笑ましいニュースも入ってきています。さすが妥協の無い男、イチロー選手。駒木ハヤトはこれからも彼を応援していきたいと思います。  (この項終わり)


10月15日(月)

「今日の特集」シアトルマリナーズ・イチロー選手個人2冠達成(4)

 (第1回はこちら、第2回はこちら、第3回はこちら、からどうぞ)

 そんなつもりは無かったのですが、ダラダラと引っ張ってきたこの企画も、いよいよあと2回となりました。
 連載中、危うくマリナーズがプレーオフで敗退しそうになり、非常に間抜けな幕引きになるところでしたが、なんとかリーグ優勝決定戦へ進出してくれたので、本当にホッとしています

 さて、話はようやく“鈴木一朗”選手が“イチロー”選手と呼ばれるところまでやって来ました。時は1994年春となります。

 その前年の秋、逃げるようにオリックスを去った土井正三に替わり、名将・仰木彬氏が監督に就任していました。仰木監督は前任者と同じ轍を踏むことなく、チーム内の人心掌握を見事に成功させて、秋の時点で早くもチーム一丸となって来シーズンへ突入できるだけの下地が完成していました。そう、それはまるでソ連崩壊後の東欧圏にやって来た民主化運動の嵐のようだったのを記憶しています。

 そんな非常に良い雰囲気のまま年が明け、いよいよキャンプシーズンが到来。そして、仰木監督から、当時としてはかなり奇抜なアイディアが実行に移されたのはちょうどその頃でした。
 そのアイディアとは、当時チームで一番の人気を誇っていた佐藤和弘選手の選手登録名を、彼のトレードマークであり愛称でもあった「パンチ」に変更する、ということでした。
 選手登録名とは、分かりやすく言えば、試合の時に電光掲示板に掲載される選手名のことです。で、実はこの登録名、本名でなくても構わないことになっており、かなり以前から発音しにくい外国人選手の名前を、日本人に馴染み易いように変えられていることが行われていました。
 この時の仰木監督のアイディアとは、それを日本人選手の名前でもやってみようということだったわけです。それも最もインパクトの強いやり方で。
 全国区の知名度を誇っていた佐藤“パンチ”和弘選手の話題ですから、当然マスコミがその話題を嗅ぎ付け、記者会見にやって来ます。
 と、その会見の場に、仰木監督と“パンチ”佐藤選手の他、もう1人の若手選手が同席していました。そう、その若手選手こそが鈴木一朗選手、その人だったのです。彼は、“パンチ”選手と共に、“イチロー”に改名することを発表するために会見に参加していたのです。「鈴木という苗字の選手が多いので、少しでも目立たせるために変えるんだ」というのが、その改名の理由でした。
 …こう書くと、まるでイチロー選手が“ついで”だったように思われるかもしれませんが、真相はそうではなかったのです。
 これはパンチ佐藤氏自身がTVで語った後日談なのですが、この時、仰木監督が本当にマスコミに売り込みたかったのはイチロー選手の方だったとの事です。監督就任から間もなくして、既にイチロー選手の才能に気付いていた仰木監督は、どうしてもイチロー選手にスポットライトを当ててあげたかった。しかし、ポンカス土井に干されていたために、彼の知名度は、未だオリックスの熱心なファン以外は知らないと言う程度に留まっていました。ですので、改名をしようとしてもマスコミが全然集まりません。そこで撒き餌代わりに利用されたのがパンチ佐藤氏だったというわけなのです。仰木監督に心酔していたパンチ佐藤氏ですから、このような役回りでも進んでO.K.を出したそうです。その役割を終えた数ヵ月後、佐藤氏は仰木監督から今度は引退勧告を受けてしまうのですから、なんともはや、な話ではありますが(注:佐藤氏はこの引退勧告を、タレント転向のためにはベストのタイミングだったということで、非常に感謝しているそうです。いい人ですねえ、パンチ佐藤氏)

 こうして仰木監督の温情と期待を一身に受けた鈴木一朗改め、イチロー選手。彼はその期待に応え、開幕から1軍レギュラーに定着し、大活躍をすることになります。が、その大活躍の内容については、明日の最終回でお送りしたいと思います。
 (最終回へ続く) 


10月14日(日)

「今日の特集」シアトルマリナーズ・イチロー選手個人2冠達成(3)

 (第1回はこちら、第2回はこちらからどうぞ)

 組織の中で仕事をする人間にとって、「自分と反りの合わない人間が、先輩や上司になったらどうするか?」という悩みは永遠のテーマと言えましょう。駒木も、幸い高校教員を仮の本業にし始めてからは、まだ未経験ですが、それ以前の職場では度々その苦悩を体験する羽目になりました。
 しかしこの問題、結局のところ最終的な決着は「どちらかが異動になるか職場を辞めるか」までつかないものでして、それまでは立場の弱い方が臥薪嘗胆、捲土重来を待つしかないわけなのです。
 そして、今や誰もが認める世界ナンバーワン級のリード・オフ・マンのイチロー選手も、2年もの間、とてつもない不遇の時代を経験しているのです。それはイチローの、いやオリックスという球団そのものにとっても、後にファンの間から「暗黒時代」と称される地獄の日々だったのです。

 オリックス・ブルーウェーブという球団は、前身の阪急ブレーブスの頃から優れた指導者(監督)に恵まれて好成績を残してきた球団でした。
 巨人V9というパ・リーグ不遇の時代に10年間監督を務め、5度のリーグ優勝を成し遂げた西本幸雄。彼はその後近鉄の監督に転じ、就任当時はダメ球団だったチームを初のリーグ優勝に導いています。
 「名選手、名監督にあらず」のまさに逆、一軍半の選手から稀代の名監督となり、通算15年の在任中、3年連続日本一を含むリーグ優勝5回を勝ち取った上田利治
 そして、近鉄で5年、オリックスで8年監督を務め、合計3度のリーグ優勝と1度の日本一にチームを導いただけでなく、日本人大リーガーの輩出という面でも日本プロ野球界に偉大な貢献をした仰木彬。彼は今年、オリックスの監督を勇退しましたが、その退団セレモニーは非常に感動的なものでした。(その模様は、こちらの特集を参照してください)
 …と、このように、偉大な指導者たちが指揮を執るということが阪急・オリックスという球団のアイデンティティなのです。が、それが何を間違ったか……というより、巨人ファンと噂されるオーナーの仕業なのですが、1991年、オリックスに史上最悪の迷監督が就任します。

 その監督とは土井正三。生涯成績が打率.263、本塁打65という平凡なものでありながら、たまたま所属していたチームがV9時代の巨人だったがために、「昭和の名セカンド」などという身分不相応な称号を頂戴したちゃっかり屋さん。しかしてその実態は、晩年レギュラーを干された際には不貞腐れて、酒をあおりつつ深夜放送をダラダラと観る日々。それを傍から見ていた奥さんにハッパをかけられて漸く立ち直ったという、ただのだらしないオッサンであります。
 そんな器の小さい男が、3年契約でオリックスの監督になってしまったから大変です。選手を指導する時には決まって「俺が巨人にいた頃は……」を連発するこの監督、たちまち人望を失います。そしてシーズンが始まる頃には、選手との溝はライオンが子供を突き落としたくなるようなデスバレーに成長していました。
 そんな最悪のチーム状態で臨んだペナントレース。オリックスは、選手たちが監督とオーナーに嫌がらせをしているとしか思えない徐行運転で、下位を疾走ならぬ蛇行。優勝の目がなくなってからようやく、来年の年俸のために選手が働き出してAクラス確保、という惨憺たる結果に終わります。

 そんな最悪の年のシーズンオフ、よりにもよってこんな時にドラフト会議でオリックスに4位で指名を受けたのが鈴木一朗、後のイチロー選手だったのです。これに関して土井のアホは、つい最近になって「あの時、5位指名の予定を4位にしたのは俺だ」とか何とか、いけしゃあしゃあと抜かしていましたが、んなこと自慢するようなもんではありません。
 不幸中の幸いというか、鈴木選手(当時)は高卒、しかもドラフト下位指名のルーキーであったために2軍スタートとなりました。土井のボケの影響の及ばない、治外法権に守られながら、鈴木選手はプロとしての基礎能力を着実に身に付けてゆくことになりました。今となっては、案外この2軍修行時代が後のイチローフィーヴァーの礎となったのかもしれませんね。
 しかし、天性の才能をもった彼ですから、早い時期にスポットライトを浴びることになります。1年目の夏、2軍選手の晴れ舞台・ジュニアオールスターに出場した鈴木選手は、なんと決勝打を放ってMVPに選出されます。大リーグで見せた勝負強さの片鱗が窺える出来事です。夏以降はたまに1軍に出場しながらも、2軍戦で大活躍。この年、3割8分前後の高打率で2軍の首位打者に輝きます
 こうなれば、もう1軍レギュラー定着の機は熟したと言っていいでしょう。プロ生活2年目の春には、1軍に合流した鈴木選手の姿がありました。しかし、忘れてはいけません。1軍にはあの男、そう、
ポンカス監督・土井正三がいたのです。
 彼は、打撃練習する鈴木一朗に向かって、偉そうにこんなことをのたまいました。

 「何だ、その打撃フォームは。何やってんだ、直せ直せ。だいたい俺が巨人にいた頃は(以下略)」

 この頃既に、独自の振り子打法を実用段階に発展させていた鈴木選手だったのですが、その素晴らしさが土井と書いて「ボンクラ」と読むこの監督には理解できなかったわけですね。
 こう言われた鈴木選手、後の大リーガーとなる彼も当時は高卒2年目の新人です。直接監督に言われては直さないわけにはいかないので直します。しかし、リズムが取れなくなったためか、たちまち大スランプに突入してしまいます
 どうしようもないので再び振り子打法に戻すと、それまでの不振が嘘のように、また当たり出すようになります。ここで大抵の人は「ああ、鈴木には振り子打法の方が向いてるんだな」と、気付いたみたいですが、自分の器の小ささにすら気付かない奴に他人の才能が分かるはずがありません。再び飛び出す“改悪命令”。ですが、今度は鈴木選手も拒否します。すると待っていたのは2軍落ち典型的な報復人事でした。

 しかし、まるで「部長・島耕作」に出てくる今野元社長のようなクズですなあ、土井という男は

 ですが、捨てる馬鹿がいれば拾う神もいるわけで、2軍のスタッフは鈴木選手と振り子打法を暖かく迎え入れます。そしてこの年も2軍戦で大ブレイクします
 そしていよいよ、鈴木一朗がイチローとなり、日本中をアッと言わせる時がやってくるのです

 さて、蛇足ながら、土井正三の末路についても書いておきましょう。
 鈴木一朗入団の年、つまり監督2年目の地元最終戦でファンに挨拶した土井は、異例の大ブーイングと「サラバ! 土井正三」と書かれたプラカードの洗礼を受け、秋の風で冷え切った球場を、より一層寒くさせました。その直後、私設応援団若手有志と熱心なファンによる“年度末集会”において、応援団とファン数百人の「くたばれ! くたばれ! 土井正三!!」コールがこだましたことは、コアな古参オリックスファンの語り草となっています。
 翌年、つまり鈴木一朗が干された忌まわしき年、この年も開幕ダッシュに失敗した土井・オリックスは定位置の3位でシーズンを終了。契約の切れた土井はファンの罵声を浴び、選手一同の冷たい視線を浴びながらオリックスを去っていきました。これでようやくオリックス暗黒時代は終焉を迎えたのでした。
 その後の土井正三は、皆さんご存知の通りです。長嶋巨人のブレーンとしてコーチに迎えられた土井でしたが、初年度から無能さを発揮。年を追うごとに地道に降格されてゆき、やがて成績不振のA級戦犯として巨人を追い出されてゆきました

 めでたしめでたし。 

もう少し続きます)


10月11日(木)

「今日の特集」裏口入学最前線

 つい先日、腹立たしいニュースを入手しました。こちらをご覧下さい。
 予備校を経営するかたわら、架空の裏口入学詐欺に精を出していたグループの話です。「1000万円預ければ、大学入学を斡旋しましょう」と、生徒と親にもちかけ、その金を騙し取ったと。まったく腹立たしい話です。
 私は声を大にして言いたい

 たった1000万で大学に裏口入学できると思うな、ドアホ!

 え? 怒りの矛の向け先が違うだろう? 何を言ってるんですか。ハイジャックされた飛行機が何時落ちてくるか分からないこの時期に、そんな瑣末なことを気にしていてどうするんですか!
 いくらこの不景気、デフレの世の中とはいえ、大学、しかも医学系に1000万円ごときで入れるわけがないでしょう。世間知らずにも程があります
 皆さんには、こういう甘ったれた考えを払拭されるよう、今日の「特集」を熟読されるよう、強くお薦めいたします。

 さて、駒木の住む兵庫県は、日本一の「裏口入学王国」であります
 と、言いますのも、我が県が誇る高級住宅が多くあることで知られるA市に、その市の名前を戴いた、とある大学が存在するのですが、この大学に通う大学生全員が裏口入学なのです。
 
これは勝手口しかない家のようなもので、誠に奇奇怪怪な話ではあるのですが、この大学は“ある方面”から絶大なる支持を受け、長年盛況を誇っているのです。
 この大学を“受験”する学生は、ほぼ全員が企業家の子息で、そのまたほぼ全員が絵に描いたような二代目のバカ息子・アーパー娘だったりします。
 ここまでお読みになれば、大抵の方は事情がお分かりだと思います。そう、この大学は、企業家の方々が抱く、「ウチの子が高卒では、世間体が悪い」という思いを食い物にした汲み取った慈悲深い大学なのです。

 この大学の入試風景をご紹介しましょう。
 まず、この大学の入学試験は保護者同伴です。会場に到着すると、受験生本人は形だけのペーパーテストを受けるため、教室へ向かいます。そして、保護者――ほとんどの場合は両親――は校長室へと向かいます。
 校長室に着いた両親は、やや待たされた後、入室を促されます。
 恐縮した面持で両親が入室すると、中ではいかにも高価そうな応接セットの片側に校長が座っていて、にこやかな笑顔をたたえながら、「ま、どうぞどうぞ」などと言って反対側の席に着席を勧めたりします。
 しばらく時候の挨拶や世間話などして、両親の緊張も和らいだその時、校長は相変わらずにこやかな笑みをたたえたまま、
3本指を立てた状態の片手を2人に示します。

 「(寄付金を)これだけ、お願いします」

 それを見て両親は、「ああ、ついに来たか。○○の社長さんの言ってた通りだ」などと思いつつ、目の前に示された指の本数を確かめて、

 「300(万円)ですか」

 と、父親は、会社で誤魔化しきれる使途不明金の額を暗算しながら言うわけです。
 しかし、その言葉を聞いて、不意に校長の表情が曇る。しばし間を置いて「あ〜、コホン」と、わざとらしい咳払いなどを交えつつ、今度は目だけ笑っていない状態、つまりテンションの上がった江頭2:50みたいな顔をして、

 「それだけ(のはした金)で大学にお入りになられるなら、大変結構なお話でございますね」

 などと、慇懃無礼なツッコミをカマすのです。ここで両親は、要求されている金額が3000万円であることを初めて知るわけですね。
 いくら企業家とはいえ、この不景気に3000万円は小さな額ではありません。父親は、それと同額の金を稼ぎ出すためにどれだけの危ない橋を渡って来たのかを思い返しながら
「ウゥ」と腹から搾り出すような呻き声をあげてしまいます。
 横からは「ど〜すんの、オトーチャン」と言いたげな母親の視線が突き刺さります。「分かってるから、ちょっと待て」と眼で訴えながら、ここ数年ですっかり広くなった額一杯に染み出た脂汗を、シルクのハンケチで拭きながら逡巡する父親。
 払えない額ではない。しかし、入学だけでこの額だとすると、あと4年でどれくらい搾り取られると言うのだろう。だが、ウチの息子の頭の出来を考えると、他に入れてくれる大学なんてどこにあるというのか……。
 安っぽいポップミュージックの歌詞のように、頭の中で言葉が渦巻くこと数分、ついに父親はおもむろに口を開き、

 「分かりました……」

 と、3日間にわたる黙秘権行使を中断した殺人犯のような苦渋に満ちた声で返答する。それを見た校長は、今度はそれまでにないような爽やかな笑顔を浮かべ、「ああ、そうですか、ありがとうございます」などといった事務的な謝辞を述べつつ、書類にサラサラと署名・捺印などしたりします。そして、両親は事務室に行くように指示されるのです。
 「3000万円かあ……」などと深い溜息と共に呪詛の言葉を吐き出しながら、両親は事務室へ通じる廊下を歩いてゆきます。たかが数十mの廊下が関西国際空港の滑走路のように長く感じる一瞬です。
 やがて、事務室に到着。そこで軽くドアをノックして「失礼します」と言いながら入出する両親。と、そこへ、

 「おめでとうございます!!」

 スタンディングオベーションでも始めかねない勢いで、事務員が総出で両親を出迎えます。そう、これが未だペーパーテストを受験中のバカ息子の合格が決定した瞬間なわけです。
 キツネにつままれたような顔になった両親は、事務員から1枚の紙を手渡されます。合格証書? いえ、違います。そこには控えめな大きさながらも確かに、

 寄付金納入書

 と、書かれているのです…………

 ……さて、いかがでしたでしょうか。これが裏口入学のよくある風景であります。
 ちなみに、ここで挙げた3000万円という額、これはこの大学ならではのサービス特価でありまして、他の大学の相場に比べて極めてお得な金額となっております。なにしろこの大学、就職部がありません。親が全員企業家ですし、他の企業に入ろうとしても入れるようなタマじゃありませんので、就職部の存在意義が無いわけです。まさに“大卒”という肩書きをつけるためだけの大学というわけです。
 他の大学でも、私大という条件は付きますが、子猫しか入れないような狭さであっても、確かに裏口は存在します。某一流私大の場合、バブルの頃は1点100万円などと言われておりました。

 まぁ、どちらにしろ、今回のこのニュースのように、1000万円を預けるだけで大学には入れる、などと言った美味すぎる話は有り得ないわけです。ですので、もし自分のお子様の行く末を案じる企業家の方がいらっしゃいましたら、是非、お子様が高校を卒業するまでに3000万円をご用意下さいませ。そうすれば、世の中何とかなるものでございますので……。

 ※もし、相場が値上がりしていて「指4本だったぞ!」などと言われても責任は負いかねますので、悪しからずご了承下さいませ。


10月10日(水)
 
「今日の特集」シアトルマリナーズ・イチロー選手個人2冠達成(2)

 (第1回はこちらからどうぞ)

 スポーツに限らず、物事を極めるためには必須条件があります。
 それは、物心つくかどうかの早い時期からの取り組みと、たゆまぬ努力の継続です。世界レヴェルで活躍しているスポーツ選手や芸術家は、ほぼ全員この条件を満たしています。現実の世界には、こせきこうじのマンガに出てくる主人公のような人間はいないわけです。よしんば現実にいたとしても、成功する前に辰巳あたりに撲殺されていると思いますが

 私事で恐縮ですが、駒木が小説家・ライターの道を志したのは、実は8歳の頃だったりします。処女作がゲームブックだったあたり、時代と駒木のヒネクレ具合が分かろうというものですが。その後も創作活動を続け、14歳にしてショートショートを半年で20本以上量産するなど、順調に文学少年の道を歩んでいたのですが、16歳で競馬を覚えた辺りからドロップアウト。そして23の時に歴史の教員を志してからは完全に創作活動を中断してしまいました。それを今になってもう一度やり直そうというのですから、狂気の沙汰ですよね

 そんなグータラな駒木と違い、天下のイチロー選手は、小学校2年の時に父親・宣之さんと「毎日野球の練習をする」と約束して以来、中学を卒業して全寮制の高校へ進学するまで毎日2人で練習を続け、その後も1人で毎日休まずに練習を続けてきました。
 イチロー選手は言います。「人は自分のことを『天才』だと言う。もしそれが『他人にはなかなか出来ないことを実現する人間』を指すならそうなのだろう。しかし、自分は決して生まれつき才能に恵まれている人間なんかではない」と。これはイチロー選手の“今”が日々の猛練習による賜物であるという自信の表れなのでしょう。
 イチロー選手 ―当時の鈴木一朗少年― は、現在のプロ野球選手の中では珍しく、リトルリーグにもシニアリーグにも所属していませんでした。小・中学校時代の野球生活を学校のクラブ活動で全うしたのです。これは実は大きなハンデであり、イチロー選手が如何に卓抜した練習量でそれをフォローしていたか分かろうというものです。
 やがて中学校を卒業した鈴木少年は、野球の名門・愛工大名電高校に入学します。実はこの高校、野球推薦だと、学生時代のニックネームが“バカ”だった巨人の某投手でも入学できるアレな学校です。勉強でも学年で5位という秀才ぶりを発揮していた鈴木少年は進学校への入学も勧められましたが、彼は最終的には野球の道を選択したわけです。思えば、これが彼の人生での大きなターニングポイントだったのですね。
 鈴木少年は同校で厳しい寮生活に入り、そこでもめきめきと頭角を現します。それはもちろん、野球部監督が要求するワイロをお父さんが完納した事と、小・中学生時代からの猛練習で培った技術と精神力のお陰だったわけです。イチロー選手が今でも父親の宣之さんを慕っている理由がここにあるような気がしますね
 ともあれ、鈴木少年は高校時代に2度甲子園に出場しています。2回とも残念ながら初戦敗退に終わりましたが、2度目の出場となった3年生春の選抜大会ではエースピッチャーも務めるなど、大活躍しています。
 3年間の公式戦成績は以下の通りです

打撃成績

220打数・101安打・4本塁打・75打点・63盗塁・打率.459

投手成績

17試合・87+1/3回・自責点11・奪三振73・防御率1.13

 超高校級とは言えないまでも、数字の端々に現在のイチロー選手っぽさが出ていて興味深いものがありますね。特に送りバントを多用する高校野球において、63盗塁というのはかなりの記録ではないかと思われます
 そして、そんな非凡な成績がプロのスカウトの眼に留まったのでしょう。鈴木少年が高校3年の秋に行われたドラフト会議で、オリックスブルーウェーブから4位で指名を受けます。プロ野球選手・鈴木一朗の誕生です。
 いよいよ華々しい活躍が始ま……いや、それはプロ野球選手・鈴木一朗にとって、2年間にも及ぶ暗黒時代の始まりだったのです。  (第3回へ続く)
 


10月9日(火)

「今日の特集」シアトルマリナーズ・イチロー選手個人2冠達成(1)

 アメリカ大リーグの2001年レギュラーシーズンが終了しました

 今年の大リーグでは、日本から新たにイチロー、新庄両選手が参戦したことによって、ほぼ毎日大リーグ中継がTV放送されたこともあり、日本の野球ファンの間での注目度もこれまで以上に高まった年でした。
 そして、そんなファンの注目に選手の皆さんも応えてくれました。
 まず、日本人大リーガーの先駆者とも言える野茂投手が、6年ぶりにリーグ奪三振王のタイトル獲得とそして2度目のノーヒットノーランを達成。高らかに復活の狼煙を上げました。
 昨年リーグ新人王を獲得した佐々木投手も、チームの好成績を支える45セーブ(リーグ2位)を記録し、2年目のジンクスを打ち破りました。
 その他の日本人投手の皆さんは、故障などもあり実力を発揮できませんでしたが、グラウンドでの不振を穴埋めせんばかりに、伊良部投手身体を張ったギャグ場外からお騒がせ。ただ、彼の選手生命を捧げてまでの一発芸は、残念ながら“ややウケ”程度に終わってしまった模様です。残念でなりません。
 一方、今年からメジャーに進出した野手の活躍も目立ちました。
 まず、FA(フリーエージェント)制度を利用して、ニューヨーク・メッツに電撃入団、“日本人初の野手大リーガー”の座を掠め取ってしまった新庄選手
 古巣・阪神タイガースからの高額年俸提示を9桁以上の数字が読めない脳味噌だったのか蹴り、体一つでニューヨークに乗り込んだ新庄選手は、巷の「良くて代走・守備固め要員、下手すりゃシーズン半ばで強制送還」という至極もっともな声を耳にして逆に奮起。オープン戦から結果を残し、トントン拍子にレギュラー枠を獲得しました。途中怪我のため欠場した時期もありましたが、シーズン終盤ではクリーンナップの一員としてメッツの快進撃に貢献。打率などの成績そのものは平凡ながら、記録よりも記憶に残る選手として、ニューヨークのカルト・ヒーローになりました。最近ではその自覚が出てきたのか、全米同時多発テロの際には、「俺もアメリカ人だから戦わなくちゃいけない」と、知能指数の低さアメリカに対する愛国心をアピールしていたのは記憶に新しい所です。
 こんなネタ満載の新庄選手についてもっと語りたいところですが、やはり主役は別にいます。そう、日本で7年連続首位打者(MVP3回、打点王1回、盗塁王1回etc…)の記録を引っさげて、鳴り物入りで大リーグ進出を果たしたイチロー(本名:鈴木一朗)選手です。
 イチロー選手は、日米の野球協定に基づくポスティングシステム(選手入札制度)でシアトル・マリナーズによって1312万5000ドル(約14億円)で“落札”され、同球団に入団しました。さすが任天堂が経営陣に名を連ねる球団だけあって、イチロー獲得合戦にもポケモンパワーが炸裂したようです。
 入団当時からVIP待遇のイチロー選手だけあって、レギュラー枠獲得は当然のことと認識され、話題の焦点は「どこまで活躍できるのか?」に絞られました。評論家筋の予想は概ね「打率2割8分〜3割行くかどうか。タイトルどころか、1シーズン162試合を完走できるかも怪しい」と控えめなものでした。それを聞いた駒木は、「ああ、あのイチローと言えども大リーグではその程度なのか。上には上がいるもんだなあ」と思ったりもしたのですが、その予想は、殺人事件が起こった時に和久峻三がやる犯人像当て級の大外れでした。開幕からまさに縦横無尽の大活躍を見せたイチロー選手は、オールスター戦にもファン投票最多得票で出場、途中8月頃には、浮気がバレて奥さんに許してもらうまでの疲労が溜まったのか、一時期スランプに陥りましたが、すぐに復調。終わってみれば打率、安打数、盗塁でタイトルを獲得特に年間安打数では新人記録を約90年ぶりに更新、歴代でも9位にランクインし、早くも野球殿堂入り級の数字を残しました。結論としては、「大リーグでも、イチローに肉薄する選手はいても超える選手はいない」ということになりました。まだプレーオフが残っていますので、まだ未確定ですが、リーグ新人王は勿論、MVPとのダブル受賞も現実問題となってきたようです
 こんな世界のスーパースターとなったイチロー選手。しかし、彼がここまで上り詰めるまでの道のりは、そうそう平坦なものではなかったのです。 (続く


10月7日(日)

「今日の特集」マンガ喫茶の懲りない面々

 こちらのニュースをご覧下さい。
 24時間営業のネット喫茶(恐らくマンガ喫茶にインターネット閲覧サービスが追加された店だと思われます)に一週間居座っただけではなく、食事の注文を繰り返してメシを喰い散らかすという傍若無人な男が、業を煮やした店員によって逮捕された、というニュースです。まるで「魔太郎が来る!」このエピソード(リンク先は『変ドラ』さんです)を地で行くような事件ですね。
 また、この事件では、実際にその店に勤めている店員が2ch掲示板でこのスレッドを立ち上げてS.O.S信号を発信し、全国のネットサーファーを巻き込んだ話に発展してゆきました。ただし、話題になったのは主に事件が解決してからでしたが
 まぁこの手の話は、ネット喫茶だけではなく、24時間営業の飲食店全てで起こる可能性があります。例えば、かつて大阪にあったとある24時間営業の喫茶店では、「トースト無制限無料サービス」なる企画を立ち上げてしまったために、3人のお客さんが住み着いてしまうという事態が発生したそうです。また、ちょっと話は違いますが、JR京都駅の駅外待合室は、夜間に閉鎖せず24時間開放状態にしてしまったがために、2世帯5名に
住居として利用されてしまったことがありました。駅のトイレをシャワールームと兼ねて使用、ついには公開で夫婦喧嘩までおっぱじめる始末。待合室が改装で閉鎖されるまでの数ヶ月間、この事態は継続したと聞きます。
 とかく、24時間営業システムというのは、便利な反面、住所不定の方々に悪用されてしまう可能性もあるので、経営には注意が必要です。特に、そのとばっちりを受ける現場で働いている店員さんが大変なのです。ダメモトで2ch掲示板を使って相談を持ちかけるという気持ちも理解できるものです。まぁ、間違えて1ch掲示板に書き込みをしなかった所を考えると、まだ多少冷静な気持ちを維持していたのだと思われますが

 実は駒木、一昨年の秋から年末にかけて、3ヶ月間マンガ喫茶のアルバイト店員をしていた時期がありました。ビジネス街寄りと言う立地条件ゆえ、24時間営業ではありませんでしたが、7時間/日ペースで週4日・3ヶ月働いていれば、若干問題の有るバカタレお客様が来店することもありました。駒木の勤めていた店は小規模店なので、通常1人で全ての業務を行わなくてはなりません。そんな状況でそういうお客様がノコノコやって来るいらっしゃると、ささやかな殺意を覚えたこともあったりしたものです
 お客様の問題行動は大きく分けて3つのパターンに分けられます。
 1つ目が“散らかし系”。マンガ喫茶ではドリンクは勿論、スナック菓子や食事も提供しています。元来、これらの飲食物と店備え付けのマンガ単行本や雑誌との相性は最悪でして、コーヒーや出前の定食に付いている味噌汁などがこぼれると、即アウトなのです。だから、本やコーヒーのコップなどを雑然と散らかしている人を見ると気が気じゃないわけです。また、中にはトイレに雑誌を持ち込んだ挙句、ゴミ箱に放り捨てるという剛の者までいたりもしました。
 この“散らかし系”で一番困ったのは、常連のホスト2人組でした。いつも店が開くまでの3時間程度、しかも出前を頼んでくれたりと、ソコソコ大きなお金を落としてくれるお客だったので無下に扱うわけには行きません。しかし、彼らの散らかし具合は半端ではありませんでした。その日発売の週刊誌を大量に確保したくせに「頭文字D」などを読みふけって、週刊誌を読みたいと思っている駒木他のお客様に迷惑をかけたり、灰皿を3つ4つ独占してその上に吸殻だけじゃなくチリ紙やオシボリなどを散乱させまくったりしてました。彼らが退店した後、オシボリやチリ紙を片づけていると、
 「クソッ、好き放題オシボリとチリ紙散らかしやがって。ここはピンサロじゃねえんだ、このボケ!」
 …と、はしたなくも毒づきたくなったものでした。
 2つ目は“お騒がせ系”典型的なパターンは男子高校生の集団です。彼らは5人以上の集団でやって来て、春の花見のように騒いだ挙句、30分から1時間でとっとと出て行きます。しかも客単価が安い上に
「レジ別々で」とか抜かしやがります。マンガ喫茶でバイト経験の有る方ならお分かりでしょうが、マンガ喫茶のレジは操作が複雑なのです。そこに6人、7人が殺到するのを駒木1人で捌かなければいけないのですから大変です。駒木、この手の連中が来るたびにマジギレ寸前になりました。デューク東郷(吉野家系)の言葉を借りれば「小一時間問い詰めたい」のがこの“お騒がせ系”です。
 そして3つ目が、今回のニュースにも出てきた“居座り系”です。
 皆さんあまりお気づきではないようですが、そもそもマンガ喫茶の料金体系というのはかなり割高に設定されています。ちょっと油断して長居すると、読んだ本を古本屋で購入した方が安上がりになるんじゃないか、という位の料金がかかります
 ですので、6日間どころか6時間居座られただけでも、こっちはハラハラしてしまいます。なにせ店員は駒木1人ですから、トラブルになればサシの勝負です。「こんな高い料金納得できねえ。責任者出せ」などと凄まれても、肝心の責任者は車で1時間以上離れた事務所にいたりしますので、こちらとしてはどうしようもないのです。
 幸いなことに、実際にサシの勝負を強いられたことはありませんでしたが、ただ1回だけ、食い逃げならぬ読み逃げを出してしまったという痛恨の出来事がありました。2度目の来店だった人で、「1階にいる知り合いに金を貰いに行って来る」と言ったまま……。1回目の来店の時は、知り合いらしき人が店の前まで財布を届けに来ていたので油断してしまいました。嗚呼、情けなや。

 まあ、そんなこんなでマンガ喫茶というのは結構大変な所であります。駒木の勤めていた小規模店では、暇な時にマンガを読むのは黙認されていたので、『じゃりん子チエ』『大甲子園』などを全巻読了したりでき、有意義な店員ライフを送れたりしたのですが、トラブルだけは参りましたね、やっぱり。
 しかし、そんなことより気になったのは、マンガ喫茶をデートコースとして利用するカップルが多いこと。これって、女性の方はどうなんでしょう? ご意見を掲示板にてお待ちしています。


10月5日(金)

「今日の特集」2001年パ・リーグ最終戦「オリックス×大阪近鉄」戦観戦レポート

 プロ野球業界で良く使われる言葉ですが、優勝チームが決まった後など、チーム順位に関わりの無い試合を「消化試合」と言います。文字通り、定められたスケジュールを消化するためだけの試合で、その緊張度も自ずと弛緩してしまうため、試合内容も観客動員も総じてイマイチになってしまいます。
 グリーンスタジアム神戸で行われたこの日の試合もまた、「消化試合」でした。しかし、ただの「消化試合」でもなかったのです。
 この試合は、ホームチームであるオリックスの仰木彬監督の引退試合であり、また、ビジターの大阪近鉄のローズ選手が日本プロ野球の年間本塁打記録更新に挑む最後の試合という意味合いも持っていました。そのため、ファンの注目度も高くなり、入場ゲート付近には早い時間から長蛇の列。試合開始2時間前に開場されてから時間が経つにつれ、否応無しに会場のボルテージは上がっていったのです。
 試合開始1時間前に球場着の駒木は、外野席ライト側に座席を確保。この日は外野自由席無料開放のため、平日であるにも関わらずいつにも増して人が多いという印象を抱きました。特にライト側は野次馬的な観客が多くて、全般的に“薄い”感じで、普段は結構な割合でいらっしゃる、シラフで薬物中毒のようなテンションを維持している熱心なファンも少ないように感じました。中にはライト側だと言うのに近鉄ファンが紛れ込んでいて、そいつの頭をXジャパンのドラム並に痛打したい気分にさせられたりもしました。
 
試合開始までの間、暇つぶしに綾辻行人さんの『殺人鬼』などを読んでしまい、ただでさえ肌寒い10月の夕暮れ時が、個人的に酷寒の空間へと変貌を遂げたりしましたが、18時15分、定刻通りに試合が始まりました。 

 さて、もう一度確認しておきますが、この試合は「消化試合」です。両チームとも今年の順位は確定しているため、試合中の興味はローズ選手がホームランを打つかどうかの、ほぼ一点に絞られます。
 ローズ選手がホームランを打ち易くするための条件としては、

 ◆大阪近鉄が手っ取り早く先発投手を打ち込む
    ↓
 ◆敗戦処理投手を引っ張り出すと共に、ローズ選手の打席を多く回す

 ……というものなのですが、皮肉なことに試合展開は全く逆の方向に流れてゆきます。オリックスの先発・小倉投手は絶好調で、途中までノーヒットノーランペース。一方の大阪近鉄・岩隈投手は大乱調で1回から3失点と散々でした。
 オリックスの選手にしてみても、仰木監督の引退試合を勝利で飾ってあげたい、という思いがあるので、この辺りは仕方ないと言えば仕方ないのですが……。

 この日、ローズ選手がバッターボックスに立つと、レフト側・大阪近鉄の応援団だけではなく、ライト側のオリックス応援団も声援を送ります。この辺り、大リーグのスタジアムっぽくて、非常に好感の持てる光景でした。
 しかし、10月2日の特集でも取り上げた、ダイエーホークスの卑劣な敬遠行為以来、完全に打撃のリズムを狂わせてしまったローズ選手は、この日も精彩を欠きました。ホームランどころか打球が外野を越えません
 「消化試合」ゆえか、それとも場内の空気を察知したのか、オリックスベンチは完封ペースで投げていた小倉投手を5回で無理矢理引っ込めたりしたのですが、それでも効果がありません。それどころか、大阪近鉄の川口選手が7点差を6点差に詰めるだけの、意味の無いホームランを打ってしまい、「お前、なんでローズやないねん」と、御無体な言い掛かりをつけられてしまうなど、段々シャレにならない雰囲気になっていってしまいました。
 そんなこんなで8回表、ローズ選手の第4打席です。今日の試合展開から考えると、あと2イニングで打者一巡できるとは思えないので、事実上の最終打席となります。ローズ選手が打席に立つや、観客が文字通り総立ち状態になりました。もうどちらの球団のファンだとか、そんな瑣末なことは誰も気にしなくなっていました。手拍子、声援でローズ選手のアシストを試みます。
 その大きな声援に応え、遂に打球が外野まで打ち上げられました。しかし、明らかに高さも飛距離も足りません。声援は落胆の声に変わり、白球はオリックス・葛城選手のグラブに収められました。無念のチャレンジ失敗です。肩を落とし、ベンチへ下がるローズ選手。そんな彼に両チームの応援団からねぎらいの拍手が降り注ぎます。無機質な手拍子とメガホンの叩き付けられる音でしたが、それは確かに「惜しかったな。でも、よく頑張ったよ」という観客一同の心からの声だったのです

 その後は、本当にアッサリと試合が進んでゆき、試合は滞りなく終了しました。
 普段なら、試合が終わった瞬間、球場の外へ出ようとする人の流れが出来るのですが、今日は誰一人帰ろうとしません。仰木監督の監督としての最後の姿を見届けようと、オリックスだけではなく大阪近鉄のファンたちも残っていたのです。何せ、仰木監督はかつて近鉄(当時)をリーグ優勝に導いた時の監督。近鉄ファンからも敬愛の念を持たれているのです。
 セレモニーが始まりました。大阪近鉄の選手も、ベンチ側で全員起立の上、かつての恩人の発する言葉に耳を傾けます。
 挨拶が終わり、オリックスの、そして大阪近鉄の選手らから花束を受け取ります。その後、最後の胴上げです。なんと胴上げまでも大阪近鉄の選手たちが申し出て、仰木監督は、都合2回胴上げされることになったのです。これは前代未聞の光景です。まさに人徳の証と申しましょうか。そんな光景を眺めていると、駒木の後ろに座っていた観客がポツリと
 
「阪神(タイガース)やと、絶対有り得へん光景やな」
 と、呟きました。駒木、その言葉に激しく同意です。ヤクルトファン・現阪神ファンに出向中の駒木は野村監督信奉者なのですが、彼の人徳の無さは嫌と言うほど知り抜いております。そう言えば、ヤクルトが優勝を決めた時に投手コーチであった角みつ男氏は、「野村監督は素晴らしい監督だが、一緒に仕事をするのはしばらく控えたい」と語っておりました。

 ああ、今はそんな話なんて、どうでもいいのです。今は人徳者・仰木彬監督の話をしていたのでした。
 胴上げの後、仰木監督は、オリックスの選手一同と共に、客席に沿うような形でグラウンドを一周してゆきます。始めは三塁側からレフトスタンドへ。するとどうでしょう、大阪近鉄側の観客席から「ありがとう、ありがとう、仰木」の大合唱が聞こえて来るではありませんか。それに負けじとオリックス側の観客も懸命の「仰木」コール。贔屓チームの壁を超え、球場全体が1つになった瞬間でした。前回の監督退団セレモニーで、土井正三監督(当時)が、閑散としたスタンドから野次の集中砲火を浴び、胴上げもないまま客と選手の冷たい視線を避けるようにベンチに引っ込んでいったのと大違いです。やっぱり、人間は去り際にすべてが表われるものなのですね。
 やがて、監督はグラウンドの周回を終え、名残惜しそうにベンチの奥へと姿を消してゆきました。観客1人1人に、若干の寂しさと、それを覆い尽くす大きな幸福感が押し寄せてきました。野球ファン冥利に尽きる一日が、終わりを告げた瞬間でした。

 

 翌日、幸福感の余韻が残るホンワカとした気持ちを引きずりながら、駒木は駅の売店でスポーツ新聞を購入しました。昨日の試合とセレモニーがどう報道されたか知りたくなったのです。
 すると、オリックス×近鉄戦の記事のすぐ下に、ダイエー・王監督のこんなコメントが載っていました。

 「ローズもここまで打ったんだから、大したものだよ。でも、こういう時は(記録を)一気に越えちゃわないといけなかったんだよ」

 余韻台無し。お前が言うな、お前が。
 


10月4日(木)

「今日の特集」遺跡捏造40箇所判明に想う事

 今日は真面目な話題を、ちょっと短めでお送りします。

 見出しを読まれてもピンとこない方は、まずこちらのニュースをお読み下さい。

 かつて“ゴッドハンド”と呼ばれた、旧石器時代遺跡の発掘を専門とする学者・藤村新一氏が、長年かけて発見したはずの遺跡・遺物の大半が、彼自身によって捏造されたものだった、というお話です。
 このニュースは、昨秋に第一報が毎日新聞の“特ダネ・スクープ”で報じられたので、ご存知の方がいらっしゃるかもしれませんね。駒木はこのニュースを、競馬帰りに立ち寄った雀荘で読んだのを大変印象深く覚えています。実はこの時、前任校で講師デビューしたばかりだったので、余計に印象深いんですよね。
 これをご覧になっている皆さんは、高校教員が競馬帰りにフリー雀荘って方が印象深いかも分かりませんが
 それはさておき。
 余りにも遺跡を発見しすぎる藤村氏を怪しく思った関係者の協力の下、毎日新聞が隠しカメラで「前もって石器を埋めている藤村氏」の姿を撮影したことで発覚したこの前代未聞の不祥事、いやしくも歴史に関わる仕事をしている駒木は、大変痛切な思いを抱いたものでした。
 その後も藤村氏が発掘した遺跡の再調査が進み、ことごとくが捏造であることが判明、そして最近になって藤村氏本人が“自白”する形で全国40箇所の捏造が明らかになりました。もう日本の考古学界は無茶苦茶で、通常とは別の意味で歴史が塗り替えられることとなってしまいました

 しかし駒木が不思議に思ってしまうのは、この遺跡捏造そのものよりも、どうしてその遺跡捏造を見破れなかったのか、いや見破ろうともしなかったのか、ということです
 そもそも、原始時代の遺跡や遺物の発見に際しては、厳正な史料批判が行われるのが常なのです。少なくとも日本以外の世界各国では
 中学や高校の歴史教科書でおなじみのネアンデルタール人の化石が発見された時など、それがホンモノのヒトの化石だと認められた時には発見者が死んでいた、という始末です。まぁ、当時は「人類の誕生=アダムとイブ」というような世の中でしたから、議論が紛糾するのは無理も無いのですが、それを言うなら、狭い日本で急に旧石器時代の遺跡がバンバン見つかるのもかなり無理がある話なのです
 ところが日本では、新発見は即、「新事実」として認定され、たとえそれが事実誤認だったとしても、長い間放置されてしまうのです。例えば、「明石原人」が原人じゃなかったということが分かるまで数十年そのまんまだった、とか
 これはどうも、日本の考古学者が持っている、変なコンプレックスが影響しているようです。「日本で旧石器時代の遺跡が見つかっていない=日本は劣っている」という被害妄想的なコンプレックスが。
 
藤村氏はそのコンプレックスを打ち破ってくれる英雄だったわけです。つまり、学者の大半は藤村氏の発見を、信じる以前に信じたかったわけですね
 またそれを歴史のドシロウトであるマスコミが煽りまくりますから、余計に話がややこしくなるのです。(新聞で報道される「歴史の新事実」の99%は未確定の学説、または嘘っぱちです)
 しかし、これは歴史に関わる立場としては閉口するしかありません。願望で歴史を捏造されてはたまったもんじゃないのです

 とにかく、これからはキッチリと資料批判をやってから遺跡・遺物を公認してもらいたい。そんな事を思いつつ、そしてこんな事をここで書くことにどれだけ意味があるのか、ここまで書いて来て非常に疑問に思いながら、それでいて今更引っ込みがつかないまま、今日の特集を終わります。


10月3日(水)

 「今日の特集」教員採用試験ウラ事情(面接試験篇)

 去る10月1日、平成14年度兵庫県教員採用試験の最終合格者発表がありました。
 小学校採用分が、少人数制学級の導入などの影響で正規採用分だけでも280人の“大盤振る舞い”になったのに対し、駒木が受験した高校地歴(世界史)は、志願者151人に対して、合格者僅かに1名となり、競争率151倍という前代未聞の数字となってしまいました。今年、駒木は1次試験の段階(151人→7人)で落選していたため、直接は関係ない話なのですが、非常に将来に不安を覚える結果となりました。これまでもシャレで「教員採用試験受かるよりも、小説の新人賞獲る方が簡単かも知れへんな」などと言っていましたが、その言葉がにわかに現実味を帯びてきたような気がします

 さて、そんなメチャクチャな試験でも受かる人はゼロではないわけで、駒木が勤務している学校でも、採用を勝ち取った常勤講師の人が1人いました。その人は駒木と同じ地歴科の地理で受験、地歴科で最も競争率が低いとはいえ、30人弱の志願者から僅か1つの枠を射止めたのです
 なにしろ県で唯一の採用です。さぞかし全ての面で優れた教員だろうと思われるでしょう。しかし、こう言ってはなんですが、露骨に表情を歪めて言葉を濁したくなるような人が滑り込んでしまっていたりするのです。この日誌を相当昔からご覧になっている方の中には、「ああ、あの人ね」と思い出された人もいらっしゃるかもしれません。そう、こんな事を抜かしやがってたあの人です。
 この時は敢えて書きませんでしたが、その他にも「やっぱり授業内容よりも生徒指導の方が大事ッスよ」とか、駒木的には非常に許せないセリフを吐き出したりしていました。

 どっちも大事に決まっているのです、そんなもん。

 まあ、生徒が通学に使用する自転車の管理係を任されて、心底嬉しそうにしていた人ですから、致し方なし、ではあるのですがね、とほほ…。
 まあ、これだけならば、駒木との価値観の相違であって、この人の人格まで疑う理由は無いのですが、これを書いているつい数時間前、こんなやりとりがありました。

 駒木:「あ、先生、採用試験合格されたそうで。おめでとうございます」
 その人:「はいぃぃィ
(小林よりのりが描く、川田龍平の当てつけるような笑顔みたいな表情でニヤリ)
 駒木:「……!(激しくマジギレ)」

 久しぶりに、ポンカスゲーム屋に勤めていた頃を思い出しました。
 
これから30年以上も教職を務める人間として、どうして「はい、ありがとうございます。先生も頑張ってくださいね」の一言が言えないのでしょうね、いやはや。
 今度麻雀する機会に恵まれたら、時速1万で一昼夜カモったります。これは教員としてではなく、人として下した結論です。

 我が兵庫県の教員採用試験は、「面接による人物審査重視」を謳っています。確かに面接試験には力が入っており、配点も高い。駒木が、去年1次を通って今年落ちたのは、面接の出来・不出来の差が大きかったものと思われます。
 しかし、その面接重視・人物審査重視の採用試験でこんな人が受かってしまうとなると、どうなってんだ、兵庫県! と思われる方もいらっしゃるかもしれません。
 しかし、「人物審査重視」とはいえ、それが「人間として優れている人物」を選ぶとは一言も言ってないわけですね。だから、別におかしな話ではないのです。以前、別の「特集」でも述べましたが、県が求めている人材は、
 「不良に囲まれても機転を利かせて切り抜けられるクソ度胸と腕力の持ち主」
 「365日無休・時間外手当無しでも喜んで働ける、無趣味のワーカホリック」
 「国家掲揚、国家斉唱に反対しない人」

 ……など、だったりしますので、人物は重視しても人間性はちっとも重視してないわけです。まぁ当然、全てが全てそんな人では決してありませんが、採用枠が極端に減ると、こういう人ばかりになっていくことは否めません。

 実際にあった話で、こういう事がありました。これは、駒木が教育実習時代、お世話になった先生のうちの1人、N先生が実際に体験した話です。 

 N先生は、教員としては珍しい他業種からの転職組で、前職は旅行代理店のツアコンをなさっていたそうです。しかし、一念発起して教員採用試験を受験。見事に1次試験を突破されました。
 その年の2次試験は、集団面接でした。矢継ぎ早に質問が繰り出され、丁丁発止の遣り取りが行われるのですが、その中で、
 「学生時代に所属していたクラブは何でしたか?」
 と、いう質問が出ました。
 他の受験者が勇ましく「野球部です」「中・高とサッカーを」「剣道をやっていました」…などと答える中、N先生は正直に「放送部です」と、答えたそうです。
 すると、N先生曰く、
 「他の受験者と反応が違うんだよ。『あ、ハイハイ』みたいな感じで軽くあしらわれてね。こりゃ落ちたな、と思った」
 …事実、この試験でN先生は不合格に終わりました
 「これはイカン」と思ったN先生、なんとさらに一念発起、学生時代の文化部一辺倒の穴埋めをするために少林寺拳法の道場へ通い始めました。
 と、そこへ急遽、欠員分を追加採用するための「敗者復活戦(N先生談)」が行われることになり、1次試験合格者であるN先生もその“復活戦”に臨むことになりました。
 その欠員が出た学校は、その地域でも札付きの問題校。とにかく“ヤンチャ”な生徒が多く、先生方の手を焼かせていたそうです。
 そんな学校の先生を選ぶための面接試験ですから、その内容もなかなか実戦的でした。
 「トイレのドアを開けたら、生徒が煙草を吸っていた。さあ、あなたはどうしますか?」
 そこでN先生、すかさずこんな返答をしました。

 「後ろ回し蹴りで、煙草だけ蹴り落とします!」

 道場に通い始めて数ヶ月、気持ちが大きくなっていたのでしょう。しかし、これでは『空手バカ一代』です。いくら何でもフかし過ぎです! 嗚呼、N先生大ピンチ!

 ところが次の瞬間、N先生は面接官である校長から、信じられない言葉を耳にしたのです。

 「よし! 合格!!」 (←ドラッグしてください)

 駒木、この話を聞いた時、絶対ネタだと思いました。しかし、事実は小説より奇なりだったのですね。

 何はともあれ、N先生は晴れて正式採用。新たに教員としての道を歩みだしました。
 ただ、万事これでメデタシメデタシというわけには行きませんでした。
 何故なら、その赴任先の学校では、N先生の着任前から面接試験の一部始終が教員を経由して生徒に垂れ流されてしまったからです。しかも噂には尾ひれがついていきます。

 「今度、ウチの学校に来るNという先公は拳法の達人らしい」
 「しかもバリバリの有段者らしい
 「喧嘩で負け無し、無敵の猛者らしい」 

 …もう今更、「実は、週1ペースで道場に通って数ヶ月の白帯です」とは言えません。
 哀れ、N先生は“面接対策”ではなく、自分の命を守るために、週3回のペースで道場に通い、猛特訓する羽目に陥ったとの事です。その後、生徒から殺到した対戦要求をかわしつつ、必死の思いで初段を獲得したとの事ですが、それでも“拳法3段”とか“極真空手の茶帯です、押忍!”…という連中から逃げ惑う日々が続いたとのこと。自業自得も行き着くとこまで行くと、愉快な話になりますね

 まあ、こんな感じで教員の採用が決まってしまうのですから、その実態たるや…と考えると、今回の話も納得がいくというものです。

 …………………………。

 とりあえず、今日から駒木はK-1ファイターという事で。

 これで来年の試験はバッチリです。


10月2日(火)

「今日の特集」近鉄ローズ選手、年間最多本塁打記録更新なるか?

 日本プロ野球史上に残る“大記録”として、王貞治選手(当時)が昭和39年に記録した「年間最多本塁打55本」というものがあります。37年間も守られてきた記録なのですが、この記録ほど日本のプロ野球界で論議をかもしている記録も無いものと思われます。
 何故なら、この記録はもう既に破られている可能性が極めて高いにも関わらず、あの手この手で記録更新を妨害されてきたという記録であるからです

 この話題に関しては、特にこれをお読みの阪神ファンの方は、昭和60年の出来事を即、連想されることと思います。 
 当時、阪神タイガースにはランディ=バースという名選手が在籍していました。
 この年、阪神がリーグ優勝&日本一に輝いた際には、「バースに似ている」という理由で、ケンタッキーフライドチキンのカーネル=サンダース人形が強奪され、胴上げされた挙句に道頓堀に放り込まれるという事件が発生しました。それ以後、阪神が極度の不振に喘いでいることから、「阪神が勝てないのは人形の呪いだ」という都市伝説が生まれました。この話は近畿一円では猿でも知っているくらい有名なので、知っておられる方も多いと思いますが。ちなみにその後、人形を捜索したそうですが結局見つからず、現在に至っています。ひょっとしたら阪神は未来永劫優勝できないかもしれません
 さて、この昭和60年、バース選手は残り2試合の時点で54本の本塁打を打っていました。残り2試合で1本打てばタイ記録、もう1本で新記録です。しかし、その2試合の相手は読売ジャイアンツ、しかも監督は記録保持者の王貞治氏でした。
 日本のプロ野球界の悪癖として、「自分のチームの選手に個人タイトルを獲らせるために、他チームの選手を妨害する」というものがあるのですが、この時もその悪癖が飛び出しました。
 そう。ほとんどの打席でバース選手は故意四球、いわゆる敬遠され、バットを振ることすらままならなかったのです。ちなみに唯一勝負したのは江川投手(当時)引退後、彼が全くコーチとしてお呼びがかからない事情は、この辺りにあるのではないかと思うのですが、どうなのでしょうか。
 結局、記録更新はならずシーズン終了。当然、この事は論議を醸しました。王監督は「勝負するなとは言っていない」という政治家みたいなコメントを発していましたが、それは「分かってるね、君」と言ってるのと一緒です。もしも、江川投手がホームランを打たれていたら、愛用の日本刀でなます切りにされていたと思います。

 そして今年です。
 今年のパ・リーグでは、開幕当初からやたらと本塁打が飛び出し、早い内から記録更新が噂されていました。当初、本塁打王争いのトップを走っていたのは西武ライオンズのカブレラ選手でしたが、シーズン半ばには日本人女性を喰いまくって、腰にでも支障が出たのか失速、替わって大阪近鉄バファローズのローズ選手がトップに踊り出ました。その勢いはシーズン終盤になっても失速せず、近鉄の優勝に貢献すると共に、9月24日にはついにタイ記録の55本を達成したのです
 すると、にわかに出てくるのが例の悪癖で、特に30日のダイエー戦では、またも露骨な敬遠策が炸裂しました。監督は、またまた王貞治氏です。王監督は今回も「私は指示していない」とシラを切りましたが、試合終了直後に若菜コーチが監督に気を遣って敬遠を指示したことを告白しました。恐らく、監督の顔色から本心を読み取ったものと思われます。若菜コーチの頭の中には「ホームランを打たれる=俺の責任=王監督、俺に激怒=日本刀でバッサリという構図が鮮明に浮かんだことでしょう。中間管理職の悲哀が窺えるエピソードとなりました。
 何はともあれ、大阪近鉄の残り試合は1試合。記録更新はかなり微妙な情勢となってしまいました。

 ところで、この王貞治氏の記録、本当に今現在でも誇れるような大記録なのでしょうか?
 と、いいますのも、現在と当時では使用されていた球場の規格が余りにも違いすぎるのです

 現在、ローズ選手が所属しているパ・リーグで使用されている球場は以下の通りです。

 ☆ホームグラウンド(約70試合使用)
   大阪ドーム(両翼100m、中堅122m)
 ☆他球団のホームグラウンド(それぞれ約14試合使用)
   西武ドーム(両翼100m、中堅122m)
   東京ドーム(両翼100m、中堅122m)
   千葉マリンスタジアム(両翼99m、中堅122m)
   グリーンスタジアム神戸(両翼99.1m、中堅122m)
   福岡ドーム(両翼100m、中堅122m)

 ……近年建設された球場は公認野球規則に則って作ってあるため、同じような規格になっていますね。フェンスの高さとか、細かい規格もあるのですが割愛します。

 そして、昭和39年当時、王貞治氏がプレーしていた球場は以下の通りです。

 ☆ホームグラウンド
  後楽園球場(両翼87.8m、中堅120.8m)
 ☆他球団のホームグラウンド
  甲子園球場(両翼91m、中堅118m)※ラッキーゾーンなる仮フェンス使用
  神宮球場(両翼90m、中堅120m)
  川崎球場(両翼89m、中堅118m)
  ナゴヤ球場(両翼91.4m、中堅118.9m)
  広島市民球場(両翼91.4m、中堅115.8m)

 ……比べてみると、唖然とさせられますね。
 特に、後楽園球場の両翼がいかに狭いか分かってもらえると思います。何というか、詐欺同然です。後楽園球場に限らず、当時王選手によってライト・レフト両翼に打ち込まれたホームランの大半は、現在の球場規格では平凡な外野フライかフェンス直撃のヒットで終わってしまうことでしょう

 こんな条件で作られた記録を後生大事に守ろうとする日本のプロ野球界、なんてフザケた業界なのでしょうか。こんな事を現役教員が言っちゃいけないんだと思いますが、反吐が出ますね
 
 駒木ハヤトは大阪近鉄のローズ選手、並びにシアトルマリナーズのイチロー選手、佐々木選手、ニューヨークメッツの新庄選手、アナハイムエンゼルズの長谷川選手、他大リーグの各選手を応援していますが、日本のプロ野球はもうどうでもいいです


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