「特集」アーカイブ(2001年10月後半)

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10/29 特別企画・吉野家コピペ競馬版に挑戦
10/28 田原成貴調教師、覚せい剤所持・使用で逮捕(完結編)
10/26 田原成貴調教師、覚せい剤所持・使用で逮捕(後編)
10/25 田原成貴調教師、覚せい剤所持・使用で逮捕(中編)
10/22 田原成貴調教師、覚せい剤所持・使用で逮捕(前編)
10/21 椎名林檎ファンクラブ、こっそり閉鎖(続々編)
10/20 椎名林檎ファンクラブ、こっそり閉鎖(続編)
10/19 椎名林檎ファンクラブ、こっそり閉鎖
10/18 元SPEED、エイベックスに電撃移籍


10月29日(月) 

「今日の特集」特別企画・吉野家コピペ競馬版に挑戦

 毎回毎回、長文の連載モノばかり読まされて、食傷気味の方も多いと思いますので、今日は箸休め的な一発ネタをお送りします。

 最近、ポエ山さんの「ゴノレゴ」(←笑)Flashmovieで脚光を浴びている、2chの「吉野家コピペ文」。この文章を改ざんしてネタを作る事も流行しているようです。
 そこで駒木も、やや遅れ馳せながらネタを一本作ってみました。お題は駒木得意の競馬ネタです。元ネタを知らない人は、まずこちらをご覧になってからお読み下さい。
 競馬に詳しくない人、御免なさい。笑えなくてもあなたのせいではありません。
 競馬に詳しいけど笑えない人、もっと御免なさい。それは多分、駒木の責任です。

  それでは、参ります。

 そんな事より>>1よ、ちょいと聞いてくれよ。スレとあんま関係ないけどさ。
 このあいだ、昔の馬券を払戻しに行ったんです。競馬場へ
 そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで払戻し機ににたどり着けないんです。
 で、よく見たらなんか今のレースの払戻し金が出てて、
馬連150円、とか書いてあるんです。
 もうね、アホかと。馬鹿かと。
 お前らな、150円如きでそそくさと払戻し機に来てんじゃねーよ、ボケが。
 150円だよ、150円。
 なんか親子連れとかもいるし。一家4人で競馬場か。おめでてーな。
 よーしパパ馬券当たっちゃったぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
 お前らな、150円やるからそこから失せろと。
 競馬場ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
 生活費賭けた馬券を外した奴がいつ自殺しちまってもおかしくない、獲るか獲られるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供は、すっこんでろ。
 で、やっと順番だと思ったら、隣の奴が、ワイド10点買いとかで払戻ししてるんです。
 そこでまたぶち切れですよ。
 あのな、ワイドなんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
 得意げな顔して何が、ワイドで的中、だ。
 お前は本当に金を儲けに来たのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
 お前、当たったって言いたいだけちゃうんかと。
 競馬事情通の俺から言わせてもらえば今、競馬事情通の間での最新流行はやっぱり、
ノミ行為、これだね。
 
競馬場から電話でノミ行為。これが通の買い方。
 ノミ行為ってのは
ヤクザが馬券売ってる。そん代わり馬券代が1割少なめ。これ。
 で、それに馬券代後払い(月曜)。これ最強。
 しかしノミ屋から頼むと次から警察にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
 素人にはお薦め出来ない。
 まあお前は、枠番連勝でも買ってなさいってこった。

 ※ノミ行為は犯罪です。志村けんと仲本工事も逮捕された事のある犯罪です。本当にやっちゃわないようにして下さいね。

 では、今日はこの辺で。


10月28日(日) 

「今日の特集」田原成貴調教師、覚せい剤所持・使用で逮捕(完結編)

 また3回では終わりきれずに「完結編」を書く羽目になってしまいました…。
 
前編はこちら、中編はこちら、後編はこちらになります。未読の方はどうぞ。

 田原成貴と、彼の厩舎を支える大馬主・関口房朗氏との密接な関係は、わずか1年で終わりを告げます。ホれたハれたの男女関係なら1年保てば十分でしょうが、ビジネスの提携が1年でご破算になると言うのは、どう考えても早すぎるでしょう。
 問題となったのは、2000年のダービー馬候補筆頭に挙げられていたフサイチゼノン号の処遇と、それに関する処理についての感情の行き違いでした。
 この一件は、「G1レース・皐月賞の直前に、フサイチゼノン号の脚に違和感を感じた田原が、馬主の関口氏に無断で出走回避を表明したため、関口氏が激怒した。それに田原は反発し、両者の関係は険悪に。結果、フサイチゼノンは田原厩舎から退厩」…という風にマスコミに報じられ、また田原本人もそのように認識していたようですが、どうやらこれは誤りのようです。
 当の関口氏が競馬雑誌のインタビューでこの件について語っていたのですが、それによると、フサイチゼノンの出走回避については事前に連絡を受けており承諾していた。ただし、その後記者会見をする際の“仕切り”が関口氏の意に添うものではなかった。それに対して田原から一切謝罪が無かったことが関係悪化の原因……ということのようです。
 「大の大人が、そんな細かい事でヘソ曲げてどうするねん」というツッコミは一時保留にしておきまして、問題は両者の意思疎通が全然取れていないことにあります。
 この一件の場合、田原が関口氏に対して誠心誠意謝罪しておけば丸く収まった可能性が大と言えるでしょう。田原厩舎という1つの企業にとって、関口氏という存在はメインバンク兼最大の得意先なのですから、本当なら下げたくない頭でも下げ、土下座してでも謝罪しなければならなかったはずです。田原成貴個人だけの話なら「好き勝手にやれよ」てなもんですが、調教師は厩舎を運営している時点で、スタッフとその家族の生活を支える責任が有るのです。それを無視して自分のプライドにしがみつく態度を固持するというのは、組織の長としてはあまりにも無責任と言うものです。
 その後、フサイチゼノンは本当に故障を発症している事が判明し、田原はまたも「俺の方が正しかった」と居丈高。駒木、管理馬を故障させてこれほどまでに偉そうな調教師は初めて見ました。
 そんな2000年(平成12年)の田原厩舎は、出走回数124回で、1着18回2着16回。勝率、連対率とも微増で、所属馬が増えた分だけ成績が伸びた格好になりました。問題のフサイチゼノンで重賞(弥生賞G2)を制覇し、“見た目では”飛躍の年となりました。しかし……
 彼の見えないところで転落の序曲は鳴り響いていたのです。 

 翌2001年(平成13年)、田原厩舎は突然の大不振に襲われます。
 1月に1勝目、3月に2勝目を挙げたものの、その後6月まで勝ち星から遠ざかるという非常事態に。肝心の勝率まで低迷し、栗東の全110厩舎の中で100位台という屈辱的な地位に甘んじました。6月以降は多少持ち直したものの、昨年までの田原厩舎と様子が違う事は明らかでした。
 不振の理由は馬の入れ替えに失敗したことでした。
 厩舎では、能力的に限界に達した馬を引退させ、それに替えて2歳や3歳の未出走馬を新たに入厩させるのですが、この時に走らない馬を入れてしまうと成績が急降下してしまうのです。一度入れ替えに失敗すると、その厩舎は3年間立ち直れないとも言われ、これは深刻な事態なのですが、田原厩舎の場合、関口氏ら大馬主との関係を悪化させた事により、思うような馬の入れ替えが出来なかったことが響いてしまったのでしょう(事実、この年の新規加入馬から馬主がガラリと入れ替わっています)。有り体に言えば自業自得なのですが、当の本人が自業自得とは絶対思っていないであろうことは、ここまでお付き合い下さった読者の方ならお分かりになられるでしょう。
 そしてこの頃から、競馬界の水面下で、田原成貴の奇行についての噂が囁かれるようになります。元から暴言と奇行がアイデンティティのようなものだった彼なのですが、その上で「奇行が目立ちだした」というのですから穏やかではありません。喩えてみれば、大阪近鉄のローズ選手が「最近よくホームラン打つようになったなあ」と言われたり、ヒクソン・グレイシーが「最近メチャクチャ強くなったよなあ」と語られるようなものです。
 その「奇行」の1つが、9月にまたもや「事件」となって明らかになります。競馬ファンの方なら記憶に新しい、「所属馬の耳に発信機装着事件」です。
 馬、特に競走馬であるサラブレッドは非常に繊細な動物で、ちょっとした事でパニックになって暴れだしたりします。400kgを超えるサラブレッドが我を失って暴れた場合、周囲の人間にも危険が及び、大惨事すら招きかねません。競馬界に20年以上籍を置く田原がこの事を知らないわけが無いのですが、それなのに彼はこともあろうに、サラブレッドの体の中で最も敏感な部分である耳に異物である発信機を装着したのです。正に言語道断。「ソープ嬢が避妊しない」並の暴挙と言って構わないでしょう。
 何故、田原はこんな事をしでかしてしまったのでしょうか?
 これも諸説あるのですが、まず公式な田原の釈明としては「馬が放馬(騎手を振り落とし暴走)した時、すぐに対処できるように」とのこと。しかし、自分で放馬の原因を作っておいて何を言っているのか、と非難を浴びたのは言うまでもありません。
 ところが最近になって新説が出てきました。それを要約すると以下のようになります。

 「田原厩舎では、負傷を抱えて満足な業務が遂行できないスタッフがいた。本来なら長期間の休職、または退職を余儀なくされるような状態だったのだが、JRAをも巻き込んだ複雑怪奇な労使交渉の結果、そのスタッフは負傷を抱えたまま現場復帰をしてしまった。
 困ったのは田原や他のスタッフたちで、満足な仕事も出来ないのに現場復帰されては業務に大きな支障が出る。しかし、いくら現場復帰の撤回を求めても、JRAはウンともスンとも言わない。
 その状況に業を煮やした田原が一計を案じた。馬の耳に発信機を取り付け、敢えて『事件』を起こすことで、件の労使問題にも注目を集めようとした

 もしも馬が放馬して、人身事故となった場合はどう責任を取るのか全く考えていないあたり、さらに言語道断です。おそらく、「後編」の冒頭で述べた「スポニチ記者殴打事件」が沙汰闇になったことから、今回の事件でもJRAは自分の味方をしてくれるはずだという、一時期の吉田栄作並の勘違いを抱いていたのでしょう。(この時期から覚せい剤の影響があった、という説も捨てがたいですが)
 しかし、当然というか、JRAは田原を守りませんでした。いや、50万円の過怠金(罰金)という処分で済ませたのですから、この時点でもJRAは田原成貴をギリギリの所で見捨てていなかったとも言えるのですが、果たして本人がどこまでその親心を汲み取っていたかとなると、これまた大きな疑問が生じます。
 まず、田原が9月14日、JRAを通じて出したコメントは以下の通りです。

「この度の件は、調教師としての配慮に欠けた不適切な行為であったと深く反省しております。中央競馬の信頼を損ね、関係の皆様方に大変なご迷惑をおかけしたことを心よりお詫びいたします。今後二度とこのようなことのないよう、十分に注意をして調教師業務に励む所存であります。 平成13年9月14日 田原成貴」

 あの決して謝らない田原成貴が出した、全面謝罪のコメント。もし、これが彼の本心から出たものであれば大きな進歩であったといえるのですが、ところがどっこい。このコメントを出した6日後、田原は田原厩舎のオフィシャルサイトで、サテライトメンバー(田原厩舎の熱狂的ファン)向けにコメントを発信します。これも以下に全文を掲載します。今ではサイトから削除されてしまって、幻の文章と化してしまったこのコメント、とくとご覧あれ。

Vol.15 「だって、俺だもん」

 サテライトメンバーのみんなは、あの程度のことで心配していたのかな……。
 俺は、田原ファンだったらビクともしないと思っていたので、あえてメッセージをこのサイトに載せようとしなかったんだけど、へえ、そうか……、動揺した人もいたんだね。
 なんか、心配されて嬉しいような、そうでもないような、複雑な気持ちだな。
 ほら、これまで俺に関して騒ぎになった場合、出発点はどうあれ、結末は必ず決まっていたじゃない。応援してくれている人は、みんなそれをわかっていると思っていたんだけどな。
 みっちゃんをはじめ、うちのメンバーなんて、まったく普段と変わらなかったよ。
 サテライトメンバーのみなさんも、ヤツらみたいになってほしいな。
 結末は必ずあるんだから。信じろよ。だって、俺だもん。

 はぁ…………(溜息)。

 時を改めて、また「特集」か何かで取り上げたいような迷文ですね。
 「だって、俺だもん」という表題だけで満腹中枢が刺激されてしまうのですが、1行目、今回の事件を「あの程度のこと」扱いにしているところも注目ですね。全く反省してない事がこの時点でモロバレです。
 そして、全体的に見て、何を言ってるんだか皆目見当が付かない辺り、覚せい剤特有の甘酸っぱい香りがプンプン匂って来ます。

 さて、このコメントに対しての競馬ファン全体の反応ですが、大多数の競馬ファンは怒りを通り越して、爆笑または絶句せざるを得なかったようです。しかし、この期に及んでもまだ田原成貴を信じていた、ごく一部の“狂信者”は、「キャ〜! カッコイイ〜! さすがはセイキさんだわ!」と狂喜乱舞したとのこと。…もう何と言っていいか言葉が出てこないんですが、「親が泣くぞ」とだけは言っておきたいと思います。

 この事件の後、田原成貴はロクに厩舎に寄り付かなくなり、業務も番頭役の柳田筆頭調教助手に任せっきりになってしまったようです。おそらく、彼の脆弱な精神防壁が崩壊し、覚せい剤に頼らなくては日常生活すら維持できないようになってしまっていたのでしょう。そして、運命の10月8日を迎えるのです…………

 さて、田原容疑者が逮捕されて約20日となりますが、彼は当然のごとく反省の態度を見せず、警察・検察の追及にも非協力的な姿勢を崩していないようです。通常、覚せい剤取締法違反の場合、初犯は執行猶予付きの判決が下るのですが、ここまで反抗的な態度を取り続けていると、当然検察への心証は悪くなる一方で、実刑判決の可能性も否定できなくなってきました。
 また、さすがのJRAも今回ばかりは厳正な処分を下すようで、最も重い処分の「競馬関与永久停止」も念頭に入れて協議に入っているようです。

 最後に、今回の件で気がかりな事がもう一点あるのです。
 実は、競馬の騎手が覚せい剤に手を染めるということは、世界的に見ても決して珍しい事ではありません。「前編」でも述べた通り、覚せい剤は恐怖感をなくし精神的ハイな状態を作り、感覚を鋭敏にする効用があり、また痩せ薬としても絶大な効果を発揮します。騎手という仕事は、恐怖感と戦い、感覚を研ぎ澄ませてレースに臨み、また、日常的に減量に苦しんでいます。それを考えると、覚せい剤は騎手にとって余りにもうってつけのクスリなのです。
 今回の一件、田原容疑者が覚せい剤に手を染めたのがごく最近であるならば、これ以上大きな事件には発展しないのですが、もしもずっと以前──たとえば、ここ一番に突然強くなった平成5年あたり──から使用していたとするなら大変な話になります。彼の弟子格である複数の騎手にも疑いが及ぶ事が必至ですし、下手をするとJRA全体に及ぶ大疑獄に発展しかねないのです。
 そんなことは有り得ないと信じたいのですが……。

 ともあれ、田原成貴は競馬界から追放、おそらく存在そのものも抹消されてしまうことでしょう。惨めな末路としか言いようが無いですね。
 それにしても、法的に罪を償った後、彼はどうするのでしょうか? 
 
「クイズミリオネア」風に4つの選択肢を提示して、この項を締めてみたいと思います。 

A:数年後、再び覚せい剤取締法違反で逮捕。「競馬界の玉三郎」から「競馬界の清水健太郎」になる。

B:半生記『だって、俺だもん』を出版するも、あんまり売れずに初版限り。巷から「初犯だけに初版どまりだよ。もう一回捕まったら再版されるんじゃないの?」などと言われる。

C:自由連合から参議院選挙に出馬、当然のように落選

D:2chの競馬板で厨房相手にマジ論争しているところを目撃される。

 あれ? これじゃ並べ替えクイズですね。 どれもこれも異様に可能性大じゃないですか。いやはや、失敗、失敗
 (この項終わり)


10月26日(金)

「今日の特集」田原成貴調教師、覚せい剤所持・使用で逮捕(後編)

 前編を未読の方はこちらから、中編から未読の方はこちらからどうぞ。

 前回は田原容疑者の騎手時代を振り返って、彼独特の性格(ナルシスト)についてお話をしました。今回は、それを踏まえて調教師時代のお話をします。

 件の田原成貴が調教師免許を取得したのは平成10年の3月なのですが、実はこれにさかのぼること約1ヶ月、“調教師免許取得見込の騎手”という身分である彼は、またも“事件”を起こしています。今から考えると、この出来事から全てが始まっていたような気がしてなりません。

 事の顛末はこうです。
 一競馬ファンの駒木に詳しい事は知り得ませんが、当時、田原とスポーツニッポン紙の某記者との間に感情の行き違いがあったそうなのです。そんなある日、田原は某記者と「話をつけよう」との口実で、競馬場内の検量室に呼び出します
 さて、その某記者が検量室に入った途端、彼はわけもわからないまま顔面に痛烈な打撃を浴びて、その場に倒れました。田原が入り口付近で3本のレース用ムチを振っていたのがモロに顔面にヒットしたのです。この件に関しては諸説紛紛ですが、どうやらムチは逆向き、つまり固いグリップの部分が先になるように振られていたとの事です。
 某記者は前歯2本を折り、顔面から大流血の重傷。しかし、彼を見た田原は、

「ムチを試し振りしてたのが当たっちまったよ。ダメだよ、注意して歩かないと」

 などとうそぶき、謝罪もせずにその場を去ったとのこと。
 “ムチ3本を束ねて逆向きに試し振り”という時点で不自然ですが、それにもまして不慮の事故とはいえ一言の謝罪もせずに立ち去ったと言う時点で人間として最低の行動だと思われます。
 この出来事は、もちろん翌日スポーツ紙で大きく報道されることとなりましたが、人気騎手であり、後には調教師となる田原との関係を悪化させたくない関西のスポーツ紙は、当のスポニチを除いて沈黙。通常なら最低3ヶ月の騎乗停止、最悪の場合は調教師免許内定取り消しという処分を下すはずのJRAも、興行的な観点からか田原の矛盾に満ちた言い分を全面的に採用して“無罪”裁定。この事件は間もなく沙汰闇となってしまいました。
 ところで、当時の競馬ファンはこの事件をどう受け止めたのでしょうか?
 田原の熱狂的なファンは「殴ったのは悪いが、記者の方が断然悪い」と、鑑別所入りたての不良のような反応、または事件そのものを無かった事として
黙殺
 田原について中立的な立場の競馬ファンは、この一件をきっかけに幻滅。(駒木もそうでした)
 もともと田原に懐疑的、批判的な態度を抱いていた競馬ファンは「ホレ、みてみい。結局ああいうヤツなんや」と鬼の首取りまくり
 ……という感じでした。誰が正しかったかは一目瞭然ですね。

 田原成貴にとって運が良かったことは、調教師になってから1年間は「技術調教師」として他の調教師の下で調教師業務についてのレクチャーを受けるため、競馬界の表舞台から姿を隠せたことでした。事実、この期間に暴行事件のほとぼりはすっかり褪めてしまいました

 そして平成11年3月、「汚職で有罪→選挙で当選」のような“みそぎ”を済ませた田原成貴は晴れて厩舎を開業します。
 普通なら心機一転、心を入れ替えて謙虚なスタートを切るところですが、さすがは田原成貴といいますか、騎手時代からアウトロー的な言動が目立った彼は、ここでも常識外の行動に出ました。
 調教師が厩舎を開業する場合、まずは入れ替わりに勇退した調教師の元管理馬を譲り受け、それらを即戦力として経営基盤を築き、その上で徐々に独自の経営方針に基づいた厩舎運営を目指してゆくのですが、田原はこの方法を否定。未出走馬を10数頭集めてきて、全くゼロのところからスタートさせます。彼はどうしてこういう行動に出たのかは分かりませんが、ナルシストな彼ですから、「他人の情けは受けねえよ」なんて決めてみたかっただけ、なんて可能性も十分考えられると思います。

 「少数精鋭、目指すは勝率No.1厩舎」をスローガンに始動した田原厩舎、初年度成績は、延べ64回の出走で9勝2着6回。勝率14.1%、連対(2着以内)率23.4%。客観的に見てもマズマズの好スタートを切ったのではないかと思います。
 そんな田原厩舎を支えた人物の中に、日本を代表する大個人馬主・関口房朗氏がいます。彼は購入価格1億を超える競走馬を多数買い集める事で有名ですが、その購入した高級馬の預託先に田原厩舎を選んだのです。
 (株)メイテックの創業者で、株式上場の創業者利益を全て競馬につぎ込んでいるという筋金入りのお大尽というこの関口氏、なんと日米両ダービー制覇という前代未聞の偉業を成し遂げた人なのですが、持ち前の激しい気性からか本業の会社経営の方ではトラブルが絶えないことでも有名です。自ら創業したメイテックからは社内クーデターで追放、新しく立ち上げたベンチャーセーフネット社は、大風呂敷を広げといて畳みきれずに大リストラを敢行して大騒ぎになり、関口氏は一時隠遁する羽目になったりしました。

 まあ何はともあれ、関口氏は田原厩舎を全面バックアップ。開業2年目早々にはフサイチゼノン号というダービー馬候補まで登場し、調教師・田原成貴の前途は明るいように思えました。
 しかし、激しい気性の関口氏が“タニマチ”、ナルシストの田原成貴が調教師という体制は、余りにも危うすぎるものでした。程なく両者の蜜月は破綻の時を迎えます。そしてそれは、田原成貴の転落の始まりでもありました。 (完結編に続く) 


10月25日(木) 

「今日の特集」田原成貴調教師、覚せい剤所持・使用で逮捕(中編)

 前編を未読の方はこちらからどうぞ。

 さて、前回は田原容疑者を人生の落伍者にしてしまった薬物・覚せい剤についての解説と、それをキメたまま、ナイフ持参で飛行機に乗ろうとした田原容疑者は本当にヤバかったということをお話しました。
 そして今回からは、田原容疑者がどうして薬物に手を染めるようになったのかを、考察してゆきたいと思いますが、まずは彼の生い立ち、そして騎手時代の経歴を追いかけてみましょう。

 田原成貴は1959年(昭和34年)、島根県の小さな村で産声を上げました。競馬とは全く関わりの無い家に生まれた田原の小学生時代の夢は、歌手とプロ野球選手だったそうです。
 競馬の騎手という職業を意識し始めたのは中学3年生の春。その年の日本ダービーで、アイドルホース・ハイセイコーが敗れるところをテレビで目にし、その時タケホープ号で勝った嶋田騎手(当時)に対して憧れを抱いたのがきっかけでした。そしてその5ヵ月後、田原少年は現在の競馬学校騎手過程の前身、馬事公苑長期騎手過程の入所試験を受験し、見事に合格します。
 馬事公苑での候補生時代はかなりの問題児だったようで、夜に監視を逃れて寮を抜け出しては、寮では禁制の菓子を買いに行ったり、時にはバーに酒を呑みに行っていたようです。
 1度騎手試験に失敗するものの(競馬学校発足前は1〜2度失敗することはザラだったようです)、昭和53年(18歳)に騎手免許を取得、栗東の谷八郎厩舎所属の騎手としてデビューします。
 彼の騎手時代の前半は、正に飛ぶ鳥を落とす勢いと言って良い活躍でした。
 3月のデビュー戦で勝利を飾るや、同年10月には初の重賞勝ち。年末までの10ヶ月で28勝をあげ、同年度の新人賞を獲得します。
 その翌年、それまで日本の競馬界を牽引していた名ジョッキー・福永洋一騎手(当時)が落馬事故で再起不能に陥るというショッキングな事件が発生しました。大黒柱を失った関西競馬界に衝撃と動揺が走りましたが、それを見事にフォローしたのが、デビュー2年目の田原成貴でした。63勝をマークして関西最多勝騎手となります。この時は、後に彼の“天敵”となるマスコミ連も「天才」「ポスト福永」と持ち上げ、若き名ジョッキーの出現を喜んだものでした。
 この年(昭和54年)から59年までの6年間が、彼の短い全盛期と言って良いでしょう。特に昭和57年から59年にかけて3年連続で関西最多勝騎手(関東も含めては58、59年の2年連続で最多勝騎手)となり、とある大きな問題(後述)も発生しますが、少なくとも成績面では自他ともに認める中央競馬の看板騎手となりました。
 しかし、昭和60年には古傷の右肩を治療するため数ヶ月、さらに翌61年には腎臓を損傷・摘出する重傷を負って半年間、それぞれ戦線離脱します。特に後者の事故は影響が大きく、それまで彼の持ち味だった大胆な騎乗が影をひそめてしまうようになります
 また、彼にとっては間の悪いことに、半年の休養から復帰した昭和62年、あの武豊騎手がデビューをします。武騎手はあっという間に競馬界を席捲し、たちまち騎手界の勢力図が一変してしまいます。田原成貴もそのアオリをモロに受け、復帰以後の淡白な騎乗も相まって、以後彼は最多勝争いから姿を消してしまいます。
 その後しばらくの間、中央競馬で五指とまでは行かぬとも十指には入るバイプレーヤーとしての騎手生活が続きますが(この期間にも、後述する問題が発生)、30代も半ばに達し、脂の乗り切った平成5年頃から再び競馬界の表舞台に顔を出し始めます。
 当時、競馬界は既に武豊が主役の座を固めつつあり、かつての「天才」田原成貴でもその座を脅かすことは出来ませんでした。しかし、そんな時代背景で彼は、主役ではなく名脇役としてスポットライトを浴びる存在になっていったのです。競馬の最高峰であるG1レースで神がかり的ともいえる名騎乗を連発したり、競馬関連のエッセーや劇画原作を手がけたりetc……。分かりやすく言えば、彼は「記録よりも記憶に残るプレーヤー」の道を歩み始めたというわけです。
 そんな彼も平成9年に引退通算成績8648戦1112勝という成績は、超一流とは行かぬまでも、一流騎手とみなしてもよいと言える数字でしょう。

 さて、田原容疑者の騎手時代の経歴をざっと振り返ってみました。
 こうして見ると、多少の波乱はあったものの、一応は順風満帆な現役生活だったように思われるでしょう。しかし、この経歴では2つの「事件」について語っていません。彼を“業界の問題児”たらしめる2つの「事件」サルノキング事件サンエイサンキュー事件について、少しお話しましょう。

 「サルノキング事件」は、昭和57年、田原成貴の騎手生活5年目に起こった出来事でした。
 この年、彼はダービー馬候補・サルノキング号の主戦騎手を務めていました。同馬は4歳(旧表記)春に、重賞の東京4歳ステークスと弥生賞を連勝し、勢いに乗って皐月賞トライアルのスプリングステークスに臨みました。
 これまでのレースでは先行策を通して来た田原・サルノキングでしたが、この競走ではレース前半を最後方を追走し、しかも向正面からの早仕掛け。結局サルノキングは、レース中に骨折を発症していたこともあって4着に終わります。
 ところがこのレース、勝った馬(ハギノカムイオー)の馬主が、サルノキングの共同馬主でもあったことや、サルノキングの負け方が不自然だった事から八百長疑惑にまで発展してしまいます。
 結局のところ真相は、「サルノキングは後方待機からスパートした方が持ち味を生かせる」と判断した田原騎手(当時)の作戦が不発に終わってしまったところにあったようです。が、彼が以前サルノキングで重賞を勝った時に傲慢とも取れる発言をしていたことでマスコミの不評を買っていたことや、レースに負けたにも関わらず田原騎手が開き直ったとしか思えないような態度をとってしまったことで、問題がこじれてしまったのだと思われます。

 「サンエイサンキュー事件」は平成4年春の出来事です。
 この年、田原騎手は4歳(旧表記)の牝馬、サンエイサンキューの主戦騎手でした。そのサンエイサンキュー、夏から秋にかけて間断なくレースを使われていたためか、疲労の色が目に見えて濃くなっていました。それを察知した田原騎手は大きなレースの直前に、
 「明らかに馬の調子が落ちている。これでは絶対勝てない。休ませた方がいい」
 と、発言。普通、大レースの直前に騎手が「勝てない」と発言する事はあり得ませんので、これはちょっとした騒ぎになりました。
 中でもセンセーショナルに報じたのは、サルノキング事件でも田原叩きの最先鋒に立ったサンケイスポーツ紙でした。同紙の水戸記者は、田原騎手が親しい記者に冗談で「これだけ言って勝ってしまったら、坊主(にして馬券買うのをやめたファンに謝罪)だな」という趣旨の発言をしていたのを聞きつけ、事もあろうに伝聞による二次情報で一面トップの記事を書いてしまったのです。それに田原騎手が怒り狂ったのは言うまでもありません。
 この事件はマスコミ界全体をも巻き込んだ騒動に発展し、一時は関西の騎手たちがサンケイスポーツに対して取材拒否を通告するか、という事態になったと聞きます。また、サンケイスポーツの中でもこの記事に異論を唱える記者が現れ、1名解雇、1名自主退社、都合2名の有能な記者が同紙から姿を消してしまうことになってしまいました。
 結局サンエイサンキューのそのレースでの成績は5着。しかもそのレースの1ヵ月後にある有馬記念にも出走を表明するという話になって、田原騎手は「自分の騎乗に責任を持てない」と自ら主戦騎手を降板。そして有馬記念でサンエイサンキューは故障を発症して再起不能となりました。
 この事件は、問題のサンエイサンキューが故障してしまったこと、騒ぎを大きくしたサンケイスポーツ側に明らかな非があったことから、田原騎手を同情する声の方が大きかったように思えます。それに田原騎手も気を大きくしたのか、かなり後になっても「俺の方が正しかった」という趣旨の発言を繰り返していました。

 さて、この2つの事件を振り返ってみましたが、皆さんはどう思われましたか?
 これらはいわゆる舌禍事件なのですが、普通、スポーツ選手が起こす舌禍事件というのは、いわゆる“ビッグマウス”、つまり「『勝てる勝てる』と言っておいて負ける」タイプの話が多いのですが、彼の場合は少し趣が違います。
 サルノキング事件は「負けたのに偉そうに開き直った」話ですし、サンエイサンキュー事件は「『負ける負ける』と言っておいて負けた。負けたのに何故か偉そう」という話です。つまり、勝っても負けても、どうなったって偉そうなんです、この人。
 駒木は田原容疑者の著したエッセー等をかなりの数読んできましたが、読むにつれて思ったのが、「この人、ナルシストなんじゃないのかな?」ということでした。彼は、文章の中でしきりに自分を謙遜するのですが、結局はいつも「自分は正しい」というところに落ち着いてしまうのです。

 しかし、騎手時代の田原成貴は、まだ自分の自尊心を満たす事の出来る状況に身を置いていました。だからこそ、いくつかの事件を起こしつつも騎手生活を全うできたのです。
 ですが、騎手引退後、調教師となってからの彼はどうだったのでしょうか?
 次回は調教師・田原成貴に焦点を当て、真相に迫りたいと思います。
 (次回へ続く


10月22日(月)

「今日の特集」田原成貴調教師、覚せい剤所持・使用で逮捕(前編)

 第一報が報じられてからもう10日余り経ちますが、JRA(日本中央競馬会)所属の調教師で、元人気騎手の田原成貴容疑者が、銃刀法違反および覚せい剤取締法違反(所持&使用)で逮捕されたというニュースは、駒木をはじめ、競馬に関わっている人たちの間ではあまりにも衝撃的でした。
 これまでにも、不祥事絡みで競馬界から追放された騎手や調教師もいたのですが、それは“交通違反の出頭要請を無視した”とか、“後輩騎手の記念メダルをパクって売ろうとしたところでバレた”など、人生アウトにするには余りにも瑣末な事件がきっかけだったりします。その一方で、騎手寮に木刀片手に殴り込みをかけた“ターフのテロリスト”こと後藤騎手は、数ヶ月の謹慎を経て、今なお大活躍しているところを見ると、カラオケボックスで尾崎豊を熱唱する高校生の気持ちも分からないでもないような心境にさせられますね。

 さて、田原容疑者が逮捕されたのは今月8日のこと。羽田空港のロビーから新千歳空港行きの飛行機に搭乗する際の手荷物検査で、刃渡り18cmのナイフが見つかり、それを所持していた理由が答えられなかったのが直接の原因でした。
 飛行機がいつビルに飛び込んでゆくか分からないこのご時世に、飛行機に刃物を持ち込む理由が言えないなんて、オッサンが女子校の更衣室に入ってるところを見つかったようなものですので、即刻逮捕されるのは当たり前の話です。
 その上、上着のポケットに覚せい剤と注射器を隠し持っていたのですから、これはもう「レイプ魔にバイアグラ」並のダメ押し。このニュースはたちまち“A級事件”として、世間を賑わせることになってしまったのです。

 ところで、駒木の世代は物心つくかどうかの時期に、裏社会を中心に未曾有の覚せい剤大ブームが発生していましたので、覚せい剤の恐ろしさというのは嫌が応にも知らされているわけですが、これをご覧の方には、覚せい剤がどのくらいヤバいドラッグなのかご存知でない方もいらっしゃるかも分かりません。ですので、ここで覚せい剤について、少しばかり解説をさせてもらいたいと思います。

 通常、我々は「覚せい剤」「シャブ」と呼んでいますが、これらは、正式名称アンフェタミン、またはメト・アンフェタミンという化学薬品の総称です。効能としては、五感が研ぎ澄まされる、疲労の回復、気分が爽快になる、無用な食欲が吹っ飛ぶので痩せる、などなど。まさにアッパー系ドラッグの大将格と言っても過言ではないでしょう。
 この覚せい剤、海外では「どうしてクスリをキメている時までバリバリと動き回らないといけないんだ」などとして受けが悪く、ドラッグ全体で大きなシェアを占めているのは日本だけだという説もあるくらいです。しかし日本では先の大戦中から激戦地の兵隊を中心に使用され、戦後も「ヒロポン」が昭和26年まで薬局で売られていました。ちなみに「ヒロポン」の名前の由来は
疲労ポンと飛ぶからヒロポン」。終戦直後の大阪演芸界では幅広く“愛用”され、中には一升瓶一杯に「ヒロポン」を貯めていた芸人さんもいらっしゃったとか。ただ、その中で1人、桂米朝師匠だけは「ヒロポン」には見向きもせずリンゴを齧っておられたそうです。「焼いた後、骨が残るのは米朝だけ」、これは覚えておいて損は無い言葉だと思います
 閑話休題。
 さて、この覚せい剤、「ヒロポン」禁止以来、脈々と受け継がれている暴力団の資金源なのですが、これはこの薬が化学薬品だけあって、非常に原価が安いということが決め手になっているようです。何せ、天下の禁制品ですから競争原理は働きません。その上、いくら出しても欲しい人間は掃いて捨てるほどいる。タダ同然のクスリに、中世ヨーロッパでの香辛料並の高値を吹っかけることが出来るわけで、これほど美味しい“シノギ”もそうはないというわけです。
 それなら昔のように覚せい剤を薬局に適正価格で置き、シャブ子ちゃんとか何とか名付けたマスコットキャラにテレビCMで、「シャブは控えめにね!」などと言わせれば良いわけなのですが、なかなかそうもいかない事情が存在するのです。
 と、いいますのも、この覚せい剤、副作用として重度の精神分裂病に似た症状に陥らせてしまうのです。具体的には、他人が自分を襲ってくるというような幻覚や被害妄想で、よく「薬物中毒患者が刃物を振り回して暴れる」などといったニュースがありますが、それはそういうことなのです。
 
しかも、最終的に“消費者”に回ってくる覚せい剤には、見た目の量を増やすために様々な混ぜ物がしてあります。一説によると、全体量の75%は塩、砂糖、味の素、「大田胃散」だったりするようです。それもまとめて血管にブチ込むわけですから、人体に悪影響を及ぼさないはずがありません。
 
まさにこのあたりが、「覚せい剤やめますか、それとも人間やめますか」という名キャッチコピーが生まれた所以なのです。

 というわけで、今回の田原容疑者による、「覚せい剤を持った(しかも使用していた可能性もある)人間が飛行機に刃物を持ち込もうとした」行動は本当に危ないということがお判りになられたと思います。
 しかも田原容疑者と親しい、マンガ家の本宮ひろ志さんが語るところによると……

 「(田原容疑者は)『護身用にナイフを持ち歩いている』と言っていた。身の危険を感じていたんじゃないのかな」

 シャレになりません。

 よくぞ捕まえてくれました、と今回ばかりは警察に感謝したいところですね。

 さて。そんな、人間をやめる前に、とりあえず調教師だけは辞める羽目になりそうな田原容疑者、競馬界では一体どんな人物として認識されていたのでしょう。次回はその辺りに迫りたいと思います。  (続く) 


10月21日(日) 

「今日の特集」椎名林檎ファンクラブ、こっそり閉鎖(続々編)

 さて、今日で本当に終わらせたいと思います。
 これまでのお話は、こちら(正編)とこちら(続編)をどうぞ。

 アーティストの公式ファンクラブの役目として根幹を成すのは、「コンサートチケットの優先先行発売」であるということに、敢えて異論を挟まれる方はまずいらっしゃらないでしょう。

 人気アーティストのコンサートチケットを購入するためには、午前10時の時報と共に始まる激烈なる電話合戦、又はチケット発売前夜から始まる店頭窓口前での徹夜行列合戦で勝利を収めなくてはいけません。しかし、その競争率は極めて高く、電話回線は10時00分01秒から災害時並のパンク状態となり、窓口でも早い場合は前から5〜6人で売り切れとなってしまいます。ましてや、馬鹿息子の頼みで並んでいる母親が、先頭で「え〜? どないしたらええか分からんわ〜」などと立ち往生してしまった日には、流血の惨事になってしまいます
 その後、“敗者復活戦”とばかりに、ネットオークション金券屋で余りチケット争奪戦が始まりますが、今度は希望者全員にチャンスがある反面、定価の数十倍まで釣り上げられたプレミア価格が巨大な壁となって立ちはだかります。
 結局、大半のファンは、ショーウインドー内のチケットや、偶然チケットが手に入ってしまったファンでもない人間が会場へ向かう様を物欲しそうな眼をして眺めつつ、涙で枕を濡らすしかないわけです。

 そんな報われないファンを救ってくれるのが、公式ファンクラブによるチケット優先販売です。これは決して割安ではない会費を支払ってでもクラブに入会する熱心なファンたちだけに与えられた特権なのです。
 しかし、椎名林檎ファンクラブ「風雲ディストーション」でのコンサートチケット優先販売が、会員にとって満足のゆくものであったかというと、おそらく大多数の会員は「ノー」言うのではないかと思われます
 その第一の要因は、ファンクラブ存続中唯一の全国ツアー・「下克上エクスタシー」のチケット優先先行発売では、特に都市部在住の会員にはほとんどチケットが行き渡らなかったことが挙げられます。
 もっとも、これは約7万人にも及ぶ膨大な会員数と、あまりにも徹底した小会場主義が大きく影響していることは否めません。
 彼女クラスの人気アーティストが東京や大阪でコンサートをする場合は、最低でも日本武道館や大阪城ホールといったキャパ約1万人の会場で複数回公演というのが常識的な話でありましょう。しかし、「下克上エクスタシー」における会場は、東京ではNHKホール(1回公演)と渋谷公会堂(2回公演)、大阪に至っては厚生年金会館大ホール(1回公演)でありました。
 大阪厚生年金会館大ホールと言えばキャパシティ2000人台。少なくともミリオンセラーのアーティストがコンサートをする会場ではありません。なにせ、大阪ローカルの深夜ラジオ・『誠のサイキック青年団』のトークイベントですら、チケットは30分足らずで完売してしまうような会場です。自称超三流タレントと、怪しい物書きと、番組のディレクターが喋るだけのイベントで30分完売…。こんな小さな会場で椎名林檎のコンサートをやるなんて、「お前ら喧嘩を売ってんのか」と叫びたくなってしまいますよね。
 東京の会場事情についてはよく知りませんが、人口比率から考えると、状況は大阪と似たり寄ったりだと思われます。ですから、大半のファンにチケットが手に入らなかったことは、不満ではありますが、理解できないことはないのです。
 では、何が問題か? それが即ち、第二の要因なのです。

 ファンが不満を抱く第二の要因、それはクラブ側のフォローの不味さでした。
 これは四の五の言うよりも、会報第参号に掲載された、「下克上エクスタシー」チケット優先先行発売に関してのコメントをご覧いただければ、皆さんにも理解していただけるのではないかと思います。
 以下がその全文です。誤字等も含めて原文まま。ただし、特に注目してもらいたいポイントは、駒木の判断で赤字にしています。

『風雲ディストーション』の会員のみなさんへ大事なお知らせです。
いよいよ念願(悲願)の全国実演ツアー“下克上エクスタシー”がスタートしましたが、ここでファンクラブの先行販売についてちょっと説明しておきます。今回はファンクラブの先行販売を行いましたが、申し込みをされた方全員がチケットを取れたか、というと決してそうではありませんでした。東京・栃木・大阪公演に関しては事前に予約申し込みをして頂き、抽選で当選された方のみがチケットが取れるというやり方になってしまいました。「なぜファンクラブ会員がチケットを取れないのか」という声もありますが、各会場ファンクラブで占める割合というのがほとんど決まってしまっています。ファンクラブの申し込みが、その席数を大幅に越えてしまうと思われる会場に関して、今回のように事前の抽選となってしまいます。特に今回は急激にファンクラブ会員数が増えたこともあり、チケットが取りずらい状況になってしまいまして、申し訳ございませんでした。今後はファンクラブとして、チケットを取りやすい状況になるよう努力していきたいと思います。しかし、上記のような事情により抽選となってしまうこともありますので、何卒ご了承ください。
そして、チケット先行販売についてもう一つ。今回のツアーで追加公演がありましたが、この公演に関してはファンクラブの先行販売は行いませんでした。それは日程的な問題により申し込みを受付している時間がなかった事が一番大きな原因でしたが、このようにファンクラブではチケット先行販売を行わない公演が今後もあると思われます。「あえてファンクラブでの先行販売は行わないライブ」という場合もありますので、ご了承ください。
以上のように、ファンクラブでもライブチケットが100%確実に取れるという事は無い、と思っていてください。また、郵便事故などにより、チケットの先行販売のお知らせが届かないという事が実際あります。お知らせを出した時はテレホンインフォメーションでもお知らせしていますので、こまめにチェックしてください。締め切りが過ぎてからではお問い合わせ頂いても、チケットはお取り出来ませんのでご注意下さい。

 まず、「段落の始めくらい1文字下げんかい」とか言いたくなりますが、この文章を書いた人はこの号限りでライターから降ろされたので、もう敢えて何も言いますまい。
 この文章の問題点は、事情を説明しているようで詳細とその理由に全然突っ込んでいない、という点と、謝罪してるようで実は開き直っている、という点にあります。
 このコメントで、「ファンクラブ枠が何%あったのか」、「『努力する』とは、具体的にどうするのか?」、「『あえて先行販売を行わない』のは何故か?」などを詳しく説明してくれれば、駒木を含めたファンクラブ会員も、不満には思っても納得は出来たはずなのです。

 まあ、その後1度たりとも先行販売が行われなかったんですから、いずれにしろ論外なんですが。

 シークレットライブの際も、「いいからこの日に指定のFMラジオ番組を聞け」と、平日真っ昼間の時刻を指定したハガキが送りつけられてきただけでしたし、誠意の無さは酷いものです。往年の羽賀研二を見習え、と声を大にして叫びたいですね。 

 まぁ何はともあれ、このファンクラブは解散です。『風雲ディストーション』に代わる新しいファンクラブが出来るのかどうかは不明ですが、どちらにしろ、我々ヘヴィーリスナーが満足させてもらえるような展開を期待したいと思います。

 しかし、椎名林檎公式サイトの「News」に、未だ解散予定のファンクラブの新規会員募集を掲載しているのはどうしたことでしょうか。(注:後日削除されました)
 ひょっとして、諸悪の根源は東芝EMIなんですか?

 お願いですから、冗談は「安室奈美恵とスーパーモンキーズ」という「そのままやんけ」なネーミングで打ち止めにしてください。  
(この項終わり)


10月20日(土) 

「今日の特集」椎名林檎ファンクラブ、こっそり閉鎖(続編)

 と、いうわけで続編となります。前回を未読の方は、まずはこちらを。

 さて、今日は会報についてのお話の続きからですね。
 季刊の会報「リンスポ」
第参号が届いたのは2000年4月でした。会報の充実を期待しつつ、5月に駒木は1度目の継続会費納入(半年分)を行います。
 コンサートツアーのファンクラブ枠チケット争奪戦に失敗、早くもファンクラブ入会当初の目的がメタメタになってしまった駒木にとって、残りの楽しみは会報くらいしかありません
 しかし、季刊のはずの会報が次に届いたのはなんと11月でした。会報第四・五合併号です。これが季刊の出版物で合併号が存在するのだと初めて知った瞬間でした。どうでもいいのですが、会費を納めた後、最初にまともな郵送物が届いた時点で、会員期限が残り6日というのは、世の中的にどうなのでしょうか? 小一時間と言わず、小半日問い詰めたい心境に至ったことが、つい数時間前の出来事のような鮮明な記憶として残っています。

 さてさて、会報第四・五合併号の内容を紹介します。形式は前回と同じくタブロイド版8ページでした。
 1面は前号と同じく写真と見出しのみ。まぁ、スポーツ新聞的体裁なのでこれは良いでしょう。
 2面〜5面までは椎名林檎姫インタビュー。前号より1ページ増量ですが、それ以上に文字の大きさが飛躍的に大きくなっており、実質的には内容減でした。
 6、7面はライブレポート。写真が多数掲載されているものの、キャプションが無く、何をしている写真なのかサッパリ判りません。それをフォローするためのレポート文は、その道のプロが書いているはずなのに、まるで“『ReadMe!』の得票数がずっと1〜2の日記サイト”のような、フォント変更と多彩な色使いだけが特色の文章で、しばらく黙々と読んでいると、様々な理由をもって頭が痛くなりました
 8面は投稿イラスト、ライブビデオの広告、それに捨てカットならぬ捨てミニ企画記事です。欄外にひっそりと載っていた「前回募集したアンケートですが、紙面の都合で載せられなくなりました」というお詫び文が哀愁をそそります
 7ヶ月ぶりに発行され、恐らく3日ばかりで書かれたと思われるこの会報は、ファンクラブ会員に、「会報に期待しないでくれ」という最大級のプロパガンダを果たした、大変に意義深い会報と言えるでしょう。

 この「季刊なのに合併号」事件は、さすがに良識ある会員から顰蹙を買ったらしく、これ以後の会報の発行はとりあえず季刊ペースを守るようになりました。まるで担任の先生に叱られた男子中学生みたいな微笑ましい状況ですね。
 そんな中、2001年3月に発行された会報第六号、この号もタブロイド版の8ページでした。
 1面はやはり見出しと椎名林檎姫の写真のみ。ただ、今回からスポーツ新聞風ではなく、雑誌の表紙のようなデザインになっています。(画像をお見せしたいのですが、スキャナーが無いのです。申し訳ありません)
 恒例のインタビュー記事は今回さらに1ページ増、2面から7面まで6ページブチ抜きです。しかし、またしても増えたのはページ数だけという体たらく8面は宣伝と告知で埋まってましたので、コンテンツは実質インタビューだけでした。まぁ、その方が下手な企画モノが減った分だけ爽快でしたけど
 ファンクラブ会員はここに来てようやく、「会報なんてお洒落なデザインで誤魔化せ!」というクラブ側のスタンスに気付くことになりました。

 次の会報第七号は、なんと第六号発行の翌月、2001年4月発行。ただ、これはB3サイズ裏表2枚でライブレポートのみの内容というもので、増刊号的意味合いの強い会報でした。
 内容は相変わらずのキャプション抜き写真と、“やたらと相互リンクを訴えるテキストサイト”風の無闇にカッコつけな文章で埋め尽くされており、思わず2ch掲示板に晒し上げたくなりました

 会報第八号は2000年6月発行。椎名林檎姫が“産休”に入ったため、いつもの「デッカイ写真でスペース埋めます」作戦が使えなくなりました。いよいよ切羽詰ってきた感じがヒシヒシと感じられます
 体裁は再びタブロイド版の8ページに戻りました。1面(表紙)は、椎名林檎直筆・愛猫ゲーテのイラストと、「近頃の彼は/私のお腹に/飛び乗ったりしない。/そして猫だけに/相変わらず猫背。」、という、椎名林檎なんだか相田みつをなんだか片岡鶴太郎なんだか分からないメッセージでした。ま、これ以上はノーコメントとしておきますね
 2面、3面は「椎名林檎を巡る86の質疑応答」という、インタビューの代替企画。しかし、代替企画であるはずのこっちのスタイルの方が濃い内容というのは皮肉としか言いようがありません。
 全部紹介するのは無理なので、86問の中で最も印象的な質疑応答を紹介しておきます。

Q:世界の終わりには何をして過ごしますか?

A:ND=中出し。

 以上であります。

 4面、5面は最新シングル『真夜中は純潔』関連イベントのレポート。写真にキャプションが付いたのは大きな進歩ですが、文章のレヴェルは相変わらず。ここまで来ると、ライター本人よりも、原稿にゴーサインを出した責任者の方を責めたくなってきます
 6面はオリジナルグッズ通信販売の予告。しかしこの時点では、この予告が本物なのか、それともいつもの捨てミニ企画なのか区別がつかず、1ページを割いた意味が全く失われていました
 7面は投稿イラストと、捨てカットならぬ捨て写真。しかし、スペース捨ててばっかりですね、この会報
 8面はまたも椎名林檎姫直筆の捨てカットイラスト。宣伝しようにも宣伝するものも無いので、スペース埋めるのに必死です。というか、この会報、6ページにした方が何かと都合が良かったと思えるのですが……。

 そして2001年10月発行の会報第九号です。ファンクラブの解散が決定、しかも椎名林檎姫が出産直後で一切の活動不可という最悪の状況で、究極の投げやりさ加減が炸裂しています。ある意味、味わい深いです。
 体裁はこれまでと同じ。1面と8面が一続きになっていて、これまでの会報用に撮影されたボツ未掲載写真を中心にデザインされています。一番投げやりなのに、これまでになくスッキリしていて好感の持てるデザインなのが物悲しいです。
 2、3面は特別企画「鉄人に聞く、離乳食」。なんと、中華の鉄人(死語)陳建一氏によるレシピ付き離乳食マニュアルです。この期に及んで、どうしてこんなに手の込んだ特集が組めたのか、どうにも不思議でなりません。ただし、実用性はきわめて低いですが。 
 4、5面は前号で予告された(ことになっていた)オリジナルグッズ通販の告知です。
 解散1ヶ月前に、ようやくファンクラブらしくなってきた感がありますが、その中にも「申し訳ないのですが、リーズナブルとは言えません」とか、商品に指輪やTシャツがあるにもかかわらず、「商品のサイズはあくまで目安です」などと書かれており、やはり投げやりさ加減がパイナップル型手榴弾(半径50m以内の敵を殺傷)並に炸裂しています。
 6面は表紙と同じく、過去に会報用に撮影された写真を掲載、7面は投稿イラストと、次号・会報最終号に向けての告知と、こちらはいつもの会報という感じでした。
 何と言うか、打ち切り間近になって突然盛り上がる『少年サンデー』の連載マンガ的な雰囲気が楽しめた会報でした。

 とまあ、ファンクラブの要である会報がこんなですから、他のファンクラブ活動に関しては、ご想像にお任せしてもよろしいかと思いますが、あともう1つ、コンサートのチケットについてお話をさせていただきたいと思います。
 しかし、今日も感情の赴くままに書き記しているうち、文章量が膨らみすぎてしまいました。申し訳ありませんが、あと1日お付き合いください。
 「なんだ、結局連載モノじゃねえか」とお思いの方、お言葉ですが駒木が本気になって椎名林檎特集を組めば、30回モノの長期連載になってしまうのです。これでも手加減してやっているので、その辺りをどうかご理解くださいませ。 
 (と、いうわけで明日に続きます)


10月19日(金)

 「今日の特集」椎名林檎ファンクラブ、こっそり閉鎖

 昨日に引き続いて、“箸休め”的な芸能ネタの第2弾であります。

 この『園長日誌』が現在のスタイルに変わる以前からご覧の方はよくご存知でしょうが、駒木ハヤトは椎名林檎姫の大ファンであります。
 ファンの務めとして、当然CDとビデオのコンプリートは達成(唯一アナログ版『真夜中は純潔』だけは入手不可でしたが)、2年前からファンクラブにも入会し、陰ながらアーティスト・椎名林檎を応援させていただいておりました。ちなみに好きな曲ベスト3は、『幸福論』、『眩暈』、『あおぞら(悦楽編)』でございます

 そんな椎名林檎愛好者ライフを満喫していたところ、ファンクラブ会報9号が届きました。そしてそこには、こんな告知が……

1999年から3年間、皆様に多大なるご声援を頂いて参りました、椎名林檎オフィシャルファンクラブ『風雲ディストーション』は諸事情により、2001年11月を持ちまして解散させていただくこととなりました。突然の連絡に、会員の皆々様が当惑されているのではないかと存じますが、どうかご理解いただきたいと同時にお詫び申し上げます。

また、『風雲ディストーション』が解散致しましても、椎名林檎自身はこれからも音楽業を中心にさまざまな活動を続け、更なる魅力を見せ続けてくれることと思いますので、今後とも変わらぬご声援を賜りたく、お願い申し上げる次第です。これからは、私たちもスタッフという殻を脱ぎ、いちファンとして応援していきたいと思っております。

《中略》

最後になりましたが、今まで至らない点が多々ありましたことを心からお詫び申し上げると共に、皆様にご協力頂きましたことをこの場をお借りして御礼申し上げます。

『風雲ディストーション』 スタッフ一同
株式会社オフステーション
(←筆者注:タレントのファンクラブ運営会社です)

 ご覧の通り、ファンクラブ解散のお知らせでありました。
 普通、公式ファンクラブと言うのは、そのアーティストが芸能界引退をファンクラブ会報で告知し、その後、残務整理を経て静かにその命脈を絶つものです。しかし、今回の解散劇はあまりにも異例であり、あまりにも唐突です。駒木は、残業から帰り、やれやれとネクタイを緩めながら点けたTVに映し出されたニュース速報で、自分の会社の倒産を知った、という錯覚に襲われ、「ああ俺、非常勤公務員やん。倒産せえへんし、それ以前に来年早々失業するやんけ」と思い直して正気に帰った次第です。
 椎名林檎姫は、これから“産休明け”の来春にも、シングルと、恐らく彼女のラストアルバムとなる3枚目のオリジナルアルバムをリリースすることで、ソロ・アーティスト活動のクライマックスを迎えようかという大事な時期です。この大事な時期にファンクラブを解散するとは、一体どうしたことでしょうか? 彼女とファンクラブの間に何があったのか、疑問は尽きません。

 しかし、思い返してみれば、この『風雲ディストーション』というファンクラブ、駒木は他のタレントさんのファンクラブの事情はよく分からないのですが、かなり駒木の心に風雲をたちこめさせてくれたファンクラブでした。

 駒木が入会したのは、巷のノストラダムス研究家が次の仕事を求めて出版業界を彷徨っていた1999年11月のことでした。椎名林檎姫のファンになったのは、時をさかのぼること9ヶ月、その年の2月頃だったのですが、どうにも彼女のコンサートのチケットが入手困難であることを実感し、それなら優先予約特権の有るファンクラブだ、と思い入会したのでした。
 しかし、この時期に同じことを考えていた人が多かったらしく、ファンクラブからの封筒に記された会員番号は
68077番。全国ドームツアーでもしない限り、会員全員に優先予約権が行き渡らない会員数に頭をクラクラさせたものでした。

 ところで、ファンクラブの入会特典として、「椎名林檎デザインの会員証と入会記念品」とあったのですが、送られて来たのは、「使いまわしの椎名林檎写真をプリントした会員証」と、「タレントの奥さんが趣味で始めたファンシーショップに売ってそうな、いかにも安っぽい注射器型ボールペン」でした。何と言うか、ハワイ旅行のオプショナルツアー・「サンセットクルーズディナー付(ディナーは日の丸弁当)」並のトホホ感を味あわされたものでした。
 しかし、「このボールペンも、ずっと置いておけば多少はレアなアイテムになるだろう」と気を取り直しまして、直射日光・多湿を避け、暗所にて保管しておいたのですが、この原稿を書くにあたって2年ぶりに引っ張り出してみたところ、ボールペン内に入っていた、注射液を模した内容液(インクではありません)が揮発してしまい、ただの薄汚れた安物ボールペンになってしまっておりました
無残です。

 ファンクラブと言えば会報なのですが、これまた忍者ハットリ君が「ニンともカンとも、ニンニン」と言い出しそうなシロモノだったりするのです。
 「年4回」つまり季刊で発行されると、入会案内に謳われていた会報「リンスポ」なのですが、駒木の手元に初めて会報が届いたのは、2400円の半年会費も2000円ばかり消化された頃でありました。
 その『会報第参号』の構成は、B4版8ページのタブロイド新聞形式でしたが、1面は見出しと写真のみ、そして6面と8面はCDやコンサートの宣伝であり、実質は5ページしかありませんでした
 そして内容は椎名林檎姫のロングインタビューで4ページを消費、残りの1ページは小学校の学級新聞に思い切り予算をかけたような企画モノで埋められておりました。インタビューそのものは内容が濃く、満足したのですが、残りの部分は……。直接的な表現は避けさせていただきますが、右翼団体から機関紙を買わされた社長さんのような気持ちになったことを記憶しております。
 でもまあ、その時は「まだ3号目だし、ファンクラブも試行錯誤しているのだろう。これからに期待だな」と思ったのですが、今から考えると、この第参号が一番内容的に濃かった気がしないでもありません

 ……と、気が付けば結構な文字数になってしまいました。短めにまとめるつもりだったのですが、書いている内にどんどん物申したい事が増えてきて、収まりきらなくなってきました。ただでさえアップロードが遅れている現状、ここは一旦筆を置くことにして、急遽、翌日分に「続編」を掲載させていただくことにしたいとおもいます。  
と、いうわけで続編に続く


10月18日(木) 

「今日の特集」元SPEED、エイベックスに電撃移籍

 気が付いたら、ここ3週間ほとんどプロ野球ネタに終始していたことに気がつきました
 もっと言えば、ここ1ヶ月以上、競馬か野球か大食いか、という感じで、インターネット愛好者向けには程遠い内容だったと、今更ながらに反省しています。
 かといって、今更ガオレンジャーネタとかやってられませんので、出来る範囲で多くの人に喜ばれるようなネタをやっていきたいと思います。
 ……とか何とか言いながら、また週末には田原調教師の覚せい剤事件という濃いネタ、しかも競馬関連、で3回ほどの連載を組む予定なので、せめてそれまでの2日ほどは芸能ネタでお茶を濁したいと思います

 さて先日、大手レコード会社のエイベックスからこのような報道資料が発表になりました。
 現在は各自ソロで活動している元SPEEDのメンバーが、エイベックスに移籍をするという発表でした。かつての栄華は今や昔、現在は浜崎あゆみが命を削りながら勢力維持に努めているエイベックスによる、懸命の補強作業といったところですね。何だか、「るろうに剣心」が目玉だった頃の週刊少年ジャンプを思わせるような雰囲気が漂っていて、観ていて居たたまれなくなって来るのは駒木だけなのでしょうか?

 しかし、この一連の記事を読んでいて思うのは、

 芸能界は新垣仁絵をどうしたいのか?

 ……ということですよね。
 SPEEDにいる内は見てみないふりをされていましたが、どう考えても彼女はミソッカスなわけですよ。小学生が公園でやる野球で言えば、「セカンドとファーストの間にいる10番目のポジション」みたいなもんでしょう。
 今回の記事だって、

 移籍話が進んでいるのは、元SPEEDで、現在ソロ歌手として活動中の今井絵理子(18)、上原多香子(18)、島袋寛子(17)ら。 

 仁絵さん、「ら」扱いですよ。「ら」。

 そういえば、SPEED解散翌週の「HEY! HEY! HEY!」に出演したゲストは、hiro(島袋)、エリコウィズクランチ(今井)、上原多香子の3人でした。
 また、全米同時多発テロの時の新聞各紙も、当時ちょっとニューヨークに滞在していた島袋の安否情報に多くの紙面が割かれたその隅っこで、当時ニューヨークに住んでいた仁絵さんはというと、「新垣も無事」だけで済まされていたのは記憶に新しいところです。
 今回のエイベックス移籍だって、他の3人は数ヶ月以内でのCD発売が決まっていると言うのに、仁絵さんは……

2002年3月期中のリリースは現状未定

 飼い殺しですよ、皆さん。
 しかし、どうしてそこまでして新垣仁絵さんは芸能界に残るのでしょう? 
 これは本人の意向なんでしょうか? それともどこからかの圧力?
 まあどっちにしたって、コミックバンチで言うなら「池沢さとしか『熱血紅湖』か」というくらいの差ではあるんですが、気になって仕方がありません。

 まぁともかく、駒木ハヤトはこれからも、新垣仁絵さんがいつの間にかTRFの飯島愛に似た方と入れ替わったりしていないか、監視を怠らない所存です。  


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