「社会学講座」アーカイブ(世界史・1)
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講義一覧
11月1日(金) 歴史学(一般教養) |
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さて今日は、最終的に古代オリエント世界を統一することになる、アケメネス朝ペルシア帝国(王国)の建国からそのオリエント統一までのお話をしてゆきたいと思います。 最近はあまり“ペルシア”という名前を使わなくなりましたが、この言葉は古代から現代に至るまで、現在のイラン地方を示す地名として使われていました。 この無名同然の地方政権が、東の中華帝国と並ぶ世界を代表する巨大国家にまで成長したきっかけを作ったのは、キュロス2世という王が歴史の表舞台に現れた時でありました。 古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスの残した記録を信じるならば、キュロスは当時ペルシアの宗主国であったメディアの王家の血を引いているそうであります。以下、彼にまつわるエピソードについてしばらく時間を取ってお話しましょう。 それから10年の年月が経ちました。 ペルシア王となったキュロス2世は即位後から、因縁深き宗主国・メディア王国の打倒を画策し、着々と準備を重ねてゆきました。 そんなキュロス2世の30年に及ぶ治世は、戦いに次ぐ戦いで占められたようであります。主な国を滅ぼしたとはいえ、オリエントには未だペルシアを宗主国として認めない小国が多数存在していたのです。そしてまたその最期も、ペルシアに歯向かう遊牧民との戦争において、王自ら勇敢に戦った末の戦死と言われています。 キュロス2世が死んだ後は、既にバビロニアの太守として実地で帝王学を学んでいた長男・カンビュセスが即位してカンビュセス2世(在位:紀元前530〜522)となります。当時のペルシアでは長男には自分の父親の名を授けるという伝統があり、そのため、キュロス2世の父親の名を譲り受ける事になったのでありました。 さて、王弟の反乱という国家の一大事に、肝心の王を失ったペルシアは、これまでの安定した統治から一転、大混乱となりました。こういう時には血統よりも実力がモノを言う社会になるのは世の必定でありまして、この時も王座を手に入れたのは王弟・パルディヤではなく、先王カンビュセス2世から見れば曽祖父の弟の4代孫という遠縁にあったダレイオス1世(在位:紀元前522〜486)でありました。 そんなダレイオス1世の行った治績の中で最も有名なものが、王都スサ(現在のペルシア湾岸・イラン・イラク国境付近の都市)に鎮座するダレイオスに全ての権力が集約する、中央集権体制の確立であります。彼は、それ以前に栄えた大国であるアッシリアやメディアの制度を参考にしつつ、独自の支配を進めていったのであります。 ところで、ダレイオスの時代には、イラン地方発祥の宗教・ゾロアスター教の普及が進みました。 最後に、古代ペルシアの文字についても、少々のエピソードをお話しておきましょう。 ──このようにして、古代オリエント世界はアケメネス朝ペルシアの手によって完全統一が成されました。これにて古代オリエントの歴史は一応の終幕となります。 今回をもちまして、この「学校で教えたい世界史」は、しばらくのお休みを頂きます。今のところ、再開は11月の第4週辺りを予定しておりますが、詳しくはまたお伝え致します。なお、再開後のこの歴史学講義は、週1〜2度の実施にペースを落として実施する予定です。受講生の皆さんには御迷惑をおかけしますが、悪しからずご了承下さい。 |
10月30日(水) 歴史学(一般教養) |
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それではこれより、これら4つの国それぞれの歴史について、簡単ながらお話してゆくことにしましょう。 まずはメディア王国から。この国では文書を遺す習慣が無く、未だに余り詳しい事が分かっていないのでありますが、可能な範囲でお話します。 この国は先に述べた通り、元々はメソポタミアとは縁の薄いイラン系の騎馬民族たちが統合して出来たものですが、このメディアの民族そのものは紀元前10世紀頃から存在したと言われています。 しかし、最後にはこの広い領土が逆に仇となりました。要は目立ち過ぎたわけです。 紀元前550年、この国の強さに恐れを抱くようになった同盟国カルデアが、当時急速に力をつけつつあったペルシアに働きかけ、メディアを挟み撃ちにします。 このバビロニア一帯、紀元前8世紀終盤〜7世紀初頭のアッシリア全盛期には、当時のオリエントの他地域と同じように、その大帝国の支配下に置かれ、厳しい占領政策を敷かれていました。しかし、先程から述べていますように、紀元前7世紀アッシリアの混乱に乗じて独立を回復すると、間もなくしてメディアと同盟を結び、これを滅ぼします。この時、カルデア王国はオリエントを代表する国となったのでありました。 カルデア王国の領土は、基本的にはメソポタミア中・南部の限られた範囲に留まっていましたが、この国の最盛期であるネブカドネザル2世王(在位:紀元前605〜562年)の時代には、エジプトを破り、ユダ王国を滅亡させるなどして、その勢力圏を一気に押し広げました。第16回で述べた“バビロン捕囚”が実施されたのもこの時です。 また、ネブカドネザル2世の時代には、様々な建築物が築かれた事でも知られています。その中でも、“世界七不思議”の1つと言われた“バビロンの空中庭園”が非常に有名であります。 しかし、このカルデア王国もネブカドネザル2世の死後は急速に衰退します。経済力を背景にした豪商たちが政治にも口出しするようになって、国が乱れたとも言われています。
このリディア王国は、その地理的条件からギリシアとの交流・交易があり商業が盛んで、更には貴金属が採取出来たこともあり、世界で初めて鋳造貨幣を発行した国として知られています。これらの貨幣、始めは金と銀の合金で、後には100%金貨の貨幣も発行しています。 ただ、リディア王国は他の国のように国力や歴史的なバックボーンに乏しく、対外的には終始受身の姿勢を強いられました。建国間もなくから東隣のメディア王国からの侵攻を受け、長年の防衛戦争を強いられました。
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10月28日(月) 歴史学(一般教養) |
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このアッシリアは、メソポタミアの北の辺境・ティグリス川上流域にある都市・アッシュルを中心とする国で、その歴史は殊のほか深く、紀元前21世紀に建国されています。 このようなアッシリアの“下積み”時代は約1000年にも及ぶのですが、その間にも時には優れた君主が現れて、存在感をアピールしています。 中でも特に王の手を煩わせたのが、2人いた息子の内の次男坊、つまりは第2王子で、王からこの“馬鹿息子”に対する手紙が山のように発掘されています。
しかし、兄と比較されてスネてしまったのか、この王子の行状は一向に良くならなりません。そこで王は更に手紙を書いてよこしたのでありました。
……まるでテキストサイト管理人に送りつけられた中傷メールのような罵詈雑言の羅列であります。が、南方では着々とハンムラビ王による征服活動が進んでいるという当時の周辺事情を考えると、このシャムシ=アダド1世王の焦りも痛い程よく分かるものであります。 その流れがやや変わり始めるのは、紀元前14世紀半ばの事。アッシュール=ウバリト1世という王は、この国をミタンニの属国から独立させ、国力増強と軍国化を開始します。ここから、後のアッシリアの強大な軍事力が培われる事になるのであります。 紀元前9世紀、いよいよオリエント世界にアッシリア帝国の時代が到来したのでありました── 後にオリエントの覇者となるアッシリアの、そのベースとなる部分を築き上げた王は、アッシュルナシルパル2世(在位:紀元前883〜859)。“アッシリアの狼”という異名を与えられた、その石像に遺された鷲鼻で冷徹な表情が今なお見る者の恐怖をそそる専制君主であります。 その後は、ごく一時期内政が混乱した事もありましたが、アッシリアは紀元前8世紀以降、飛躍的な発展を遂げてゆく事になります。厳しい占領政策にも関わらず、各地での反乱は絶えませんでしたが、そのことごとくを力で捻じ伏せて、被征服民に付け入る隙を与えませんでした。 こうして栄華を極めたアッシリア大帝国でありましたが、その絶頂を深く味わう暇も無く、間もなくして衰退への道を辿ってゆくことになります。 アッシリアの滅亡後のオリエントは、先ほど挙げたカルデアとメディアを含めた4つの大国が割拠する“四国時代”に突入します。その時代のあらましについては、また次回に譲る事としましょう。(次回へ続く) |
10月23日(水) 歴史学(一般教養) |
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そんな分裂後のイスラエル・ユダ両王国は、政変が繰り返されて次々と王朝が交代したイスラエルと、ダヴィデの子孫によって比較的安定した政権が維持されたユダとで対照的な歴史を歩んで行きます。 さて一方のユダ王国は、イスラエル王国が滅亡し、更に南へと迫り来るアッシリアのプレッシャーを感じつつも、しばしの安泰を謳歌していました。 そんな屈辱の日々の中で、バビロンで暮らすユダヤ人の間で1つの宗教が確立されます。それがあのユダヤ教であります。 …さて、今日は短めですがここまで。次回は、これまでも度々名前が挙がっています、古代オリエントを代表する軍事超大国・アッシリア帝国についてお話をしたいと思います。(次回へ続く) |
10月21日(月) 歴史学(一般教養) |
※過去の講義のレジュメはこちら まず、この地方の古代史の担い手になった人々を紹介しますと、彼らはバビロニア王国を建てたアムル人と同じく、メソポタミアとアラビア砂漠の中間地帯からやって来たセム系の民族でありました。 その中でも、アムル人に続くセム系民族の第2陣となったのがカナーン人と呼ばれる民族であり、更に彼らの内で、現在のレバノン周辺でいくつかの都市国家を建設した人々をまとめてフェニキア人と言います。 フェニキアの人々は他の地域と異なり、最後まで統一国家を形成しませんでした。しかしそれでも、レバノンの各地それも海沿いに、シドン、ティルス、ウガリットなど多くの都市国家を建設し、大規模な海洋貿易や、イベリア半島や北アフリカ地方への植民活動で大きな実績を挙げていました。世界史上でもかなり早い時期に分類される海洋民族であります。 また、フェニキア人は独自の文字・フェニキア文字を持っていました。 フェニキアは統一国家を持っていませんでしたので、その歴史の終わりもかなり曖昧ではありますが、紀元前9世紀頃からアッシリア(この国に関しては次々回に述べます)の圧力を受けて衰退し、やがてペルシアなどの大国に吸収されてゆく事になります。しかし、この民族が建設した植民地はその後も繁栄を続け、これからも世界史に深く関わってくる事になります。
彼らのルーツもまた、セム系民族が原住地から北へと移動してきた人々なのですが、その構成はやや複雑になっています。 このエピソードは非常に有名で、旧約聖書でも特に大きく扱われている出来事なのでありますが、歴史学の観点から見た場合、その実態は“非常に微妙”なモノであったと言わざるを得ません。 …と、何はともあれ、こうして2つの民族が合流して新しい民族が誕生しました。これがヘブライ人という事になります。 こうして誕生したヘブライ人たちですが、始めの内は狭義の意味で言うところの国家を持たずに、士師という宗教指導者をリーダーとする緩やかな共同体だったようです。 ダヴィデは政治でも軍事でも有能な、まさに理想的な指導者で、結果的に彼の治世がイスラエル王国の全盛期に相当します。国内はまとまり、対外戦争により領土も拡大します。あのペリシテ人たちも、この頃にイスラエル王国へ吸収される事になります。また、後の聖地・イェルサレムが都に定められたのもこの頃です。 そのダヴィデは在位40年(紀元前1000〜960頃)で亡くなり、その後を次子・ソロモンが継ぎました。 ……予定の範囲までは進みませんでしたが、講義時間がオーバーしていますので今日はここまでとします。次回はイスラエル王国史の続きを述べます。(次回へ続く) |
10月16日(水) 歴史学(一般教養) |
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ヒッタイトの人々がメソポタミアの歴史の中に姿を現すのは、紀元前20世紀頃とされています。彼らはアナトリア半島(現在のトルコ共和国)一帯を領土にして王国を形成しましたが、元々その周辺に住んでいたわけではないようです。 これは、彼らが使っていた楔形文字(ヒッタイト語)が、シュメール人やセム系民族の使った文法ではなく、インド=ヨーロッパ系──インド、イラン、スラヴ、ギリシア、ラテンなどの各民族──の文法に極めて近い事が決め手となりました。 そんなヒッタイト人の故地について、詳しい事は分かっていません。しかし、インド=ヨーロッパ語を使う民族の発祥の地は現在の中央アジア〜ロシア南部周辺ではないかとされており、遥か昔の先祖はそこに住んでいたのではないかと思われます。 …と、このように繁栄の時を謳歌していたヒッタイトですが、その最期は非常に呆気ないものでした。 ……以上が、主に紀元前16世紀〜12世紀までのアナトリア半島〜メソポタミアの歴史でした。この後のメソポタミア地方は、建国から1000年以上の時を経て強大化したアッシリア帝国によって席捲される事になるのですが、これはまた後のお話です。 |
10月14日(月) 歴史学(一般教養) |
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ではまず、古代エジプト社会と切っても切り離せない関係である宗教からお話してゆきましょう。 前回の講義でも触れましたが、エジプトの宗教は典型的な多神教であります。まずは天地創造の神・アトゥムがいて、彼が大気の神・シューと湿気の女神・テフヌトを産み、更に彼らが大地の神・ゲブと天空の女神・ヌトを産んで……というようにたくさんの神々が生まれ、そこからギリシア神話のような役職別の神や、各都市の守護神などへと繋がる形になっています。 あと、古代エジプトの文化に関わる神として忘れてはいけないのは、冥界の神・オシリスであります。 余談ですが、当時のミイラ作りについて、「エジプトはナイルの賜物」の名言で有名な歴史家・ヘロドトスが、詳細なレポートを残しています。 こうして人々は漏れなく不死の魂となる事が可能になったわけですが、一般市民にミイラが解放された頃から“冥界裁判”の思想が生まれます。どうやら「余りにも冥界に人が殺到するので、入口で数を間引いているに違いない」…という極めて現実的な発想が宗教の一思想に発展したようであります。 これも以前の講義で述べましたが、この時代にはピラミッドやスフィンクス、更には神殿などの巨大建造物が建てられました。この建造物の設計のために、測地術や幾何学も発展したようです。 ……と、途中から酷く駆け足になりましたが、古代エジプトの文化はこれ位にしておきましょう。次回は再びメソポタミア文明に立ち戻り、群雄割拠の歴史を追いかけてゆくことにしたいと思います。(次回へ続く) |
10月11日(金) 歴史学(一般教養) |
※過去の講義のレジュメはこちら おことわり:講義中に付記する年号が、参考書や「世界史B用語集」に記されているものと異なる場合がありますが、これは別の資料を参考にして講義を行っているためです。
さて、前回の講義でお話したように、異民族ヒクソスの侵入、そして約100年にも及ぶ支配を受けるという屈辱を味わったエジプト人ですが、実はこの経験は、彼らにとって大きな転機となったのでありました。 といいますのも、被制服民となった屈辱感はその人々に色々な感情を呼び起こしますが、エジプト人の場合、これは幸いな事にナショナリズム的な愛国心・闘争心に昇華されたのであります。 いつの間にか、恐らくは当事者たちも知らない間に、エジプトはオリエント最強クラスの軍事国家に成長していたのです。それは“黄金時代”と言って差し支えない輝かしい時代の始まりでありました。 ヒクソスを撃退した(紀元前1552年ごろ)後、即ち第18王朝以降の古代エジプトを新王国時代と言いますが、この時代にほぼ共通したスタンスは、“最大の防御は攻撃なり”であります。 この機動的な対外戦略が可能になったのは、先に述べた強力な軍隊を持っているだけでなく、エジプト国内でのファラオの地位が堅固であったという事も大きかったようです。 この新王国時代エジプトが1回目のピークを迎えたのは、第18王朝の第5代ファラオ・トトメス3世(在位:紀元前1490〜36頃)の時代でした。 この若きファラオは、まず第一に優れた将軍でありました。シリア・パレスティナ地方へと兵を送り、これを次々と占領・植民地化してゆきます。それまでこの地方を勢力化に置いていたメソポタミア地方の強国たちも、時には黄金の戦車に乗って先陣を切って戦ったと言われるこのファラオの前には、一様に沈黙せざるを得ませんでした。 ところで、この頃の文献には、当時のエジプト進出を裏付ける、少し面白いエピソードが残っています。 話を戻します。この“常勝将軍”トトメス3世の第二の姿は、優れた政治家としての知性派ファラオとしてのそれでありました。 こうして、有形・無形様々なものを残して、トトメス3世はこの世を去ります。その後、散発的に支配地域で反乱が発生しますが、ほとんどの場合、それらは難なく鎮圧されました。それくらいトトメス3世が残したエジプト“帝国”の組織が頑丈だったのです。これが、後の世の歴史家たちが、彼を“古代エジプトのナポレオン”と称する由縁でもあります。いや、ひょっとしたら彼はナポレオンをも超える才能の持ち主だったかも分かりません。 しかし、この世には全てにおいて完璧なものなど存在しないのも事実であります。そしてこの時の強固な王朝も、思わぬところから足元を掬われてしまいます。そのポイントは宗教にありました。 他の地方の古代王朝がそうであるように、古代のエジプトでも宗教は支配者と密接な関係を持っていました。 しかしこの状況を、当のファラオが見過ごすわけがありません。歴代の政権では、神官人事を巡るファラオ派と反ファラオ派のせめぎ合いが絶えず起こり、遂には強硬な手段に打って出るファラオが現れました。 このアメンホテプ4世が行った事績は、大雑把に言って2つに集約されます。 まず1つ目は新宗教・太陽神アテン信仰の創始であります。なんと、ファラオ権力と密接に繋がる宗教を自ら立ち上げてしまったというわけです。アメン=ラー神の力を弱めるのではなく、更に強い力を持つ宗教を作る事で、結果的にアメン=ラー神官の権力を弱めようとしたのです。コロンブスやコペルニクスが卒倒しそうな発想の転換であります。 これだけでも分かりますように、アメンホテプ4世の“アマルナ革命”は徹底的なものでありました。 この“革命”は、彼の17年間に及ぶ治世を通じて実行に移されました。しかし、言い方を変えれば、“アマルナ革命”は、彼の17年間の治世を最後に途絶えてしまいます。“革命”は失敗でした。 失敗の理由はいくつか有ります。 このようにして、アマルナ革命政権はアケナテンの死後間もなくしてガタガタになってしまいました。元々この“革命”は、極度のワンマンタイプであったアケナテンだからこそ出来た事でもあり、彼の死後までこれを維持する事は不可能だったのです。 出来たばかりの都・テル=エル=アマルナは廃され、首都は古都・メンフィスへと再び移されました。また、「アテンの生きた似姿」という意味の名の幼王・ツタンカーテンは、皆さんにも馴染みの深いツタンカーメン(「アメンの生きた似姿」)という名に改名させられます。 余談でありますが、このツタンカーメンの墓の発見と発掘に際して、関係者やその近親者が20人以上も急死したために、「発掘者は“ファラオの呪い”に殺されたのだ」…などという噂話が囁かれたりしました。 特筆すべきなのがこの王朝の第3代ファラオ・ラメス(ラムセス)2世の治世(紀元前1290〜24年頃)で、この時、エジプトは新王国時代の2度目のピークと言うべき繁栄を迎えたのでありました。 しかし、せっかく訪れたこのピークも、長くは続きません。いくら優れた君主が現れようとも、既にエジプトは国全体が病んでしまっていたのです。いや、老衰していたと言うべきでありましょうか。 ……以上で古代エジプト王朝の変遷についての話を終わります。次回は古代エジプトの文化についてお話する事にしましょう。(次回へ続く) |
10月9日(水) 歴史学(一般教養) |
※過去の講義のレジュメはこちら 今回も前回に引き続き、古代エジプト王朝の歴史について、述べてゆきましょう。前回は古王国時代の終焉まで見届けましたので、今日はその続きから始めます。 古王国時代における最後の王朝・第6王朝が崩壊した後のエジプトは、一転して群雄割拠の状態に置かれます。古代のエジプトは、元々からして地方分権の傾向が強かったため、ファラオの力が衰えると、たちまち“先祖返り”が起こってしまうというわけです。 ちなみに、この時期にも一応ファラオは存在していたのですが、多分に名目的な存在であり、実権はほとんど無かったと思われます。つまりは、エジプトという“箱”と、ファラオという“看板”はありますが、中はグチャグチャの状態と言うわけであります。 ……さて、このような極度の混乱期(第7、8王朝時代)が10数年続いた後、今度は上エジプトに2つの王朝が立つ、“南北朝時代”が90年ほど続きます。(第9、10王朝と第11王朝) 中王国時代のエジプトは首都をテーベに置き、歴代のファラオたちは古王国時代のような中央集権国家を再び建設すべく、内政・外征に力を尽くします。しかし、中間期に権力の旨味を知ってしまった地方の実力者たちの抵抗は厳しく、暗殺の憂き目に遭ったファラオもいたようであります。 しかし、中王国・エジプトの盛期は短いものとなってしまいました。紀元前19世紀に入り、以前のような官僚制中央集権国家が成立したまでは良かったのですが、無能なファラオが後継者となった際に、権力を宰相などの官僚に牛耳られるというパターンまで再現されてしまったのです。 これから250年弱続く第二中間期は、エジプト統一王朝の誕生以来1300年余りにして、初の異民族王朝が成立した時代であり、エジプト人にとっては屈辱にまみれた時代でもあります。 被支配民族になる屈辱を受けたエジプト人が立ち上がるのは紀元前1570〜50年頃で、旧都テーベに成立していたエジプト人の地方政権(第17王朝)が、エジプト解放を旗印に独立戦争を開始。次第にヒクソスを圧倒して、最後はパレスティナにまで遠征して、これを滅亡にまで追い込みます。 これ以後のエジプトは新王国時代という事になります。この時代は、古代エジプト史の中で最も語るべき部分の多いところでもありますので、これは次回に多めに時間を取ってじっくりお話したいと思います。では、また次回に…(次回へ続く) |
10月7日(月) 歴史学(一般教養) |
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さて、この少し前にお話したメソポタミアの歴史では、「攻め易くて守り難い地形ゆえに、侵略と王朝交代が多い」…というのが特徴でした。 そんなエジプトに、部族国家を統合した統一王朝が初めて誕生したのは紀元前3100〜3000年頃。上エジプトの北辺にあるテュニスという都市を首都にしたのでテュニス朝とも呼ばれます。 そして紀元前27世紀半ば、第3王朝成立とほぼ時を同じくして、首都が下エジプトの大都市・メンフィスに移転されます。これをもって古王国時代の到来とします。 この時代におけるファラオの強大な権力を文字通り天下に知らしめているのが、ファラオ1人ごとに建造された巨大なピラミッドの数々であります。 余談ですが、我々の貧困な想像力では、「ピラミッド建築」と聞くと真っ先に、「重労働を強いられる奴隷が、厳しい役人にムチ打たれている」様子を思い浮かべてしまったりしますが、これは、誤解を受けて文献を残した歴史家の著述を読んで更に誤解をした作家諸氏の過失であります。 ……さて、このようにファラオが権力を一身に集めて栄華を誇った古王国時代のエジプトですが、徐々にファラオを取り巻く状況は変化して行きます。 |
10月2日(水) 歴史学(一般教養) |
※過去の講義のレジュメはこちら 今回からしばし舞台を変えまして、古代エジプトの歴史についてのお話をお送りする事にします。 さて、エジプトは、周囲を砂漠地帯に囲まれた極めて少雨の乾燥地帯でありながら、古代を通じて小麦の穀倉地帯として大いに栄えた文明エリア…という、世界でも極めて特殊な地域であります。 ──その理由はただ1つ。ここは古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスの遺した、余りにも有名な一節をもって説明する事にしましょう。 「エジプトはナイルの賜物である」 赤道直下、現在のウガンダ南部を水源とする全長約6700kmの大河・ナイル川。古代エジプトの歴史は、この川の下流域・約1200kmを舞台にして展開されました。 このナイル川の特徴は、何と言っても年に1回下流域に発生する、緩やかで大規模な氾濫であります。 話しついでに、エジプトの独特の農法を説明しておきましょう。 こんな、奇跡としか言いようの無い恵まれた環境の中で、エジプト人たちは自らの文明を作り上げていったのでありました。 そうして“エジプト人”となった人々は、ナイル下流域の中でも、主に2つのエリアに集住するようになりました。 この2つのエリアでそれぞれ文化が発達し、やがて紀元前3500年頃にはノモスと呼ばれる部族国家があちこちに誕生します。ノモスはエジプト全体で40程度あったと言われ、それぞれに首長という統治者を持っていました。ノモス時代は、メソポタミアで言うところの、ウルクやウルなどの都市国家の時代です。 ……というわけで、次回からは古代エジプトの王朝史に突入して行きます。カリキュラムの都合もあり、しばらくは比較的まったりと進行していく予定です。どうぞ宜しく。(次回へ続く) |
9月30日(月) 歴史学(一般教養) |
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※過去の講義のレジュメはこちら 前回は、メソポタミア文明の誕生からウル第3王朝滅亡までの歴史と、その当時の人たちの生活実態についてお話しました。今日はその続きという事になります。 最後のシュメール統一国家であるウル第3王朝の滅亡後、メソポタミアは一種の戦国時代となります。 しかし、この膠着した状況の中で密かに力を蓄え、新しい時代の担い手となるべく表舞台にその姿を現した1つの国がありました。それがあの古代バビロニア王国であります。 そのハンムラビ王の統治については、大量に残された当時の文献資料によって、かなり細かい部分まで窺い知る事が出来ます。 まずは1つ目。今で言う民事訴訟に関する命令書であります。
この命令書から少なくとも2つの事が分かります。 次に挙げるのは、役人の不祥事についての2枚の命令書です。
役人の不始末は、為政者にとっては4000年前でも頭を痛める問題であった事だったようであります。 最後にもう1通。こんな命令書もあります。
ここまで来ると、王の仕事ではなくて町内会長の仕事であります。 ……とまぁこのように、ハンムラビ王時代のバビロニア王国は、極めて安定した状態でメソポタミアに君臨していたようでありますが、やはりこの時代の行政の充実振りを示す材料として忘れてはならないのは、『ハンムラビ法典』でありましょう。 …さて、この他、『ハンムラビ法典』に収録された法律を大雑把に挙げて見ますと、殺人・傷害・窃盗・誘拐・強盗に関する刑法の他、結婚と持参金・離婚と財産分与・相続・養子縁組と廃嫡・姦通などについて定めた民法に相当するもの、兵士の権利と義務についての法律、土地の譲渡・賃借についての法律、金銭の債務・債権についての法律、賃金の規定を定めた労働基準法的なもの、奴隷に関する法律など、まさに微に入り細に入り、であります。 まぁ、何はともあれ、こうして古代バビロニア王国は優秀な王に支えられて繁栄を謳歌していたわけであります。 そしてこの時代で特筆すべき物がもう1つ。ジッグラトと呼ばれる、塔のようなピラミッドのような宗教建造物であります。 ──さて、いつもながら冗長に話し過ぎたようであります。ハンムラビ王の時代に別れを告げて、時計の針を進めることにしましょう。 こうしてハンムラビ王の下で大いに栄えた古代バビロニア王国でありましたが、ハンムラビの死後間もなくして、早くも王国には衰退の兆しが見て取れるようになります。またしても外部からの異民族侵入と、内政の混乱に伴う反乱の勃発であります。 さて、次回はちょっと舞台を南の方へ移しまして、エジプト文明の成立についてお話をしてゆきたいと思います。(次回に続く) |
9月27日(金) 歴史学(一般教養) |
※過去の講義のレジュメはこちら→第1回/第2回/第3回/第4回(以上第1章)/第5回/第6回(以上インターミッション1)
よって、今日からお話するのは古代オリエント史。ここから講義を始めてゆくことにしましょう。 …さて、この“オリエント”とは、古代ローマ人が使っていた言葉で“日の昇る方向”、つまり東方世界という意味であります。現代で言えばトルコを含む西アジアとエジプト、古代の四大文明でなぞらえれば、メソポタミア文明とエジプト文明の地域を合体させたものになるでしょうか。 では、その古代オリエント史の中でも最も古い歴史を持つ、メソポタミア地方からお話をしてゆくことにします。そう、歴史の授業でまず真っ先にティグリスとユーフラテスという2つの川の名前を覚えさせられる羽目になるあのメソポタミア文明があった地域です。 さて、このメソポタミアの地域的特徴としては、まず“雨が極端に少ないにも関わらず、灌漑農業に適した土地と水源に恵まれていた”ことが挙げられます。 ……さて、それでは地域の特徴について述べ終わったところで、いよいよ古代メソポタミアの歴史について述べていくことにしましょう。 このメソポタミア地帯に人がまとまって住み始めたのは紀元前10000年前後と言いますから、まだ旧石器時代です。そこで人々は、野生の麦などの植物を採集したり、動物や川魚を捕まえて食料にしていたものと思われます。 ちなみに、このメソポタミアの狩猟・採集〜原始農耕時代の遺跡が、各地で発見されています。特に有名なものとして、メソポタミア北部のジャルモと今のイスラエル・死海の北側にあるイェリコなどがあり、そのような遺跡では、鎌や石臼などの様々な石器や土器などが発見されています。 …ただ、この頃はまだ“文明以前”の状態であります。メソポタミア地方が文明化へ向かって大きく変革を始めるのは紀元前4000年以降、やはり灌漑農業がメソポタミア各地に普及し始めてからのことでありました。 このメソポタミア文明の第一の主役となるのがシュメール人と呼ばれる民族です。普通、民族は使用している言語を基準にして大まかな分類をするのですが、このシュメール人に関しては詳しい事がまだ判っていません。また、シュメール人の前にメソポタミアに住んでいた先住民がいたのではないか…とも推測されています。 この頃はまだ多くの都市国家が乱立して、思い思いの発展を遂げていた時期でありますが、都市同士の交流も頻繁にあり、次第に剣を交えることも増えてゆきました。 こうしてメソポタミアにはラガシュ統一王朝が完成した事になるのですが、この国は間もなくして滅んでしまいます。他民族の侵略に遭ったのです。 まず、このラガシュを滅ぼしたのは、サルゴン1世という名の王に率いられたアッカド人たちでした。 この後しばらくのゴタゴタを経て、かの有名なバビロニア王国が成立するのでありますが、それは次回に譲ることにしましょう。 …それでは文化についてですが、まずはシュメール人の生活を簡単にお話しておきましょう。 初めに住居から。 さて、特筆すべきなのは食生活です。高度に発達した灌漑農業に支えられて、かなり豊かな生活をしていたと推定されています。 何しろ、紀元前2300年代のラガシュ時代から遺された公式行政文書によると、大麦の収量倍率(種モミ1粒で収穫できるモミの数)が76.1倍というのだから驚きであります。ちなみに、古代ローマや中世ヨーロッパでは6倍程度がせいぜいだったとされていますから、その差たるや絶大であります。 しかし、この時代はまだ幸せな時代でした。高い収量倍率は、大量の麦の余剰を産み、この頃のメソポタミアでは世界初のビールブームが訪れます。公的文書によると、16種類の銘柄が記録されていると言いますから驚きです。当時のシュメール人の定番朝食メニューはパンとビールだったと聞いてしまうと、もはや羨ましい話とさえいえます。 しかし、良い事ばかりでもありません。 人々の生活についてはこれくらいにしておいて、次は文字についてお話しましょう。 また、文字と共に数字も発明されています。ただ、メソポタミアの数字は変形60進法というべき複雑怪奇なもので、必ず計算間違いが起こると思えるほど煩雑です。 この他には、この頃には既に太陰暦と週7日制があったとされています。ただ、天文学についてはバビロニア王国時代に発達するものですので、そちらでお話することにしましょう。 ……というわけで、最後はとりとめが無くなってしまいましたが、このような社会で人々は時には楽しみ、時には苦しみながら生活していたわけです。 |
9月23日(月・祝) 歴史学(一般教養) |
※過去の講義のレジュメはこちら→第1回/第2回/第3回/第4回(以上第1章)/第5回 今日も前回に引き続き、非常に貴重な考古学上の発見に携わりながらも、学会から正当な評価がされずに不遇をかこった人たちの話をお送りします。 さて、今回お話するのは、旧石器時代の洞窟壁画にまつわるエピソードです。洞窟壁画といえば、本編ではごく簡単に、「アルタミラやラスコーといった遺跡に、現代人顔負けのリアルな絵画が描かれ──」…といった感じで述べていただけだったと思います。 この洞窟壁画は、西ヨーロッパ──特に現在のフランス南部からスペイン南部──で多数発見されており、人々が文字を持たなかった時代の貴重な文化遺産として、大変高い評価を受けています。 …では知識も深まったところで、話を“洞窟壁画の発見”の方に移しましょう。 ──時は1879年、場所はスペインのアルタミラ。同国の北部に小さな領地を持つ田舎貴族・ドン=マルセリノ=デ=サウトゥオラ子爵は、5歳になる娘を伴って、領地内にある洞窟を訪れていました。 その日の探索は先に言いましたように、子供を連れての家族サービスの一貫だったわけですが、自分の興味の有る事に没頭し始めると子供の事なんてそっちのけになってしまうのが世の父親の常。気がつけば娘は、一心不乱に石器を探す父親の側から離れ、好き勝手に洞窟内を走り回るようになりました。 「パパ! パパ! こんな所にウシさんがいるよ!」 勿論、洞窟にウシなどいるはずがありません。サウトゥオラ子爵は、娘を適当にあしらいながら石器探しを続けます。 「パパ! 本当よ! ウシさんがいるんだってば!」 その娘の余りのしつこさに根負けした子爵は、やれやれと腰を上げて娘の側へ向かい、娘が「ここ! ここ!」と指さす方向へランプを掲げました。すると── そこには、確かにウシがいました。洞窟の天井いっぱいに写実的なウシの絵が描かれていたのです。しかも色鮮やかなカラー彩色で。 これこそが、史上最年少の“考古学者”によって見つけられた遺跡・アルタミラの洞窟壁画でありました。 ……ところで、洞窟壁画の発見は、この例に限らず子供によるものが多いのが特徴です。好奇心旺盛な子供たちが、大人が入ろうとしなかった洞窟に紛れ込んで大発見をしてしまう…というわけです。 さて、5歳の子供によるアルタミラ洞窟壁画の大発見です。 この遺跡に対して、学者たちが大きな疑問を抱いたのは、洞窟に描かれた壁画の完成度が余りにも高かった事でした。 アルタミラの洞窟壁画について学会の下した結論は、「旧石器時代の人間に、こんな高度な絵など描けるはずが無い」…というものでした。単刀直入に言いますと、現代人がイタズラで描いたニセモノだというわけです。 余りにも揃いすぎた不利な材料。サウトゥオラ子爵は、一転して窮地に追い込まれました──。 ここで、この哀れな地方領主の名誉の為に弁解しておきますと、件の画家は完全な“シロ”でありました。 ただし、彼はこの騒動が持ち上がってから、「自分が描いたと噂されている絵とはどんなものだろう?」…と思い、勇気を振り絞って問題の洞窟に足を運んでいます。そして壁画を見るや、その絵の素晴らしさに驚愕し、 しかしそんな事など顧みられる事も無く、結局、サウトゥオラ子爵は、学会やマスコミから猛烈なバッシングを受ける事になってしまいました。 それでは、次回からは再び本編に戻って歴史の講義を続けます。 |
9月20日(金) 歴史学(一般教養) |
※過去の講義のレジュメはこちら→第1回/第2回/第3回/第4回(以上第1章) この“先史時代”とは、文字による史料が存在しない時代のこと。即ち、この時代に関する史料は、遺物や化石といった考古学的な物に頼らざるを得ません。駒木が数百万年〜数万年前の人類の歴史について色々な事を述べることが出来るのも、多くの考古学者さんたちが遺物や化石を掘り出してくれたお陰なのです。 そういうこともありまして、先史時代の歴史を特定できるような考古学的発見をした人は、その事によって歴史にその名を遺すことになります。歴史学上の功労者、というわけです。 ──今日の“インターミッション”では、そんな“凄すぎる大発見”をしてしまった、哀れな偉人たちとそのエピソードをいくつか紹介してみたいと思います。いつもとは趣向の異なる「学校で教えたい世界史」を、どうぞお楽しみ下さい。
さてさて、先史時代に関わる考古学上の発見といえば、やはり人骨や人骨化石がメインという事になりましょう。 それでは、話を始めましょう。まずお話するのは、先駆者ゆえに悲劇の主役となることを強いられた、1人の男の話であります。 先史時代の人骨化石が初めて発掘されたのは、1856年のこと。世界史的にはナポレオン戦争の傷痕が癒え、ヨーロッパ世界の再構成が進んでいるあたり。我が日本では歴史的な開国からまだ2年、ハリスが日本に着任した年ということになります。 しかし率直に言って、この発見は早すぎました。 これは、他の何よりもキリスト教の影響が大きいと思われます。キリスト教の教典である2冊の聖書では、地球と人類の誕生とその歴史についても詳しく言及しています。キリスト教の信者ではない方でも、アダムとイヴの話や、ノアの方舟のエピソードを耳にした事があると思いますが、まさにそれであります。 それでもしも、聖書やカトリック教会の決定事項に反する説を唱える“不届き者”が現れた場合、その人物は異端の人間として迫害されても文句は言えない状況でした。 そして科学万能の時代である現代でも、今もってキリスト教の教義を忠実に守ろうとする方もいらっしゃいます。 ……さて、話を戻しましょう。 とある学者の曰く、「これは確かにサルに似た動物の古い骨ではあるが、人類とは断定できない」 ……学者の中には革新的な発想の出来る人もいましたが、それはごく少数派。ましてや唯一の物証である人骨が却下されてしまったとなっては、この新説が認められる余地は全く無くなってしまいました。フールロットは、門前払いの形で学会から放り出されてしまったのでした。 ──ちなみに、ネアンデルタール人のケースとは対照的に、比較的スンナリと学会にその存在が認められたのは、かの有名なクロマニョン人でありました。その現生人類の祖先にあたる人間の骨が発見されたのは1868年。ナポレオン3世治下のフランスにおいて、鉄道工事の最中発見されました。 さて、次のエピソードに移ります。 ところで、彼をそこまでインドネシアでの発掘に駆り立てたのは、ダーウィンの進化論信奉者として既に有名であったドイツの生物学者・ヘッケルによる1つの仮説でありました。その。当時にしては余りにも独創的過ぎる仮説は以下のようなものでした。 「地球上に現れた原始生物が人間に進化するまでの過程は、24の段階に分けて考える事が出来る。 当時の学者たちのほどんどは、この仮説を「全く根拠のないもの」として一笑に付します。 デュボアによる発掘作業は、全く手がかりの無い中、スマトラ島を出発点に、あちこちと場所を変えながら5年にも及びました。そしてようやくジャワ島のトリニールという場所で、人類の物と推測できる大腿骨と歯の化石の発掘に成功したのでした。 …と、そんな少年マンガの主人公が起こすような奇跡に恵まれたデュボアでありましたが、ネアンデルタール人すら葬り去ろうとした歴史学会は、相変わらず冷淡でした。
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9月16日(月・休) 歴史学(一般教養) |
7000万年前から始まった、この「学校で教えたい世界史」も、前回で4万年前の現生人類による“天下統一”まで辿り着きました。おお、なんと全体の99.95%がもう終わってしまったのですね(ぉ)。 …と、このように人類は世界中に散らばって行ったため、現生人類の人骨や人骨化石が発見された遺跡は、世界各地でかなりの数が確認されています。 また、人類が全く環境・気候の違う地域に分布し、それぞれの場所で代を重ねる内に、元々は同じ種の人類でも、環境に合わせて徐々に肌の色や顔の特徴が異なって来るようになりました。いわゆる人種の誕生です。 現生人類が“天下統一”を達成し、世界中に散らばって行った約4万〜1万年前頃には、まだ農耕や牧畜は発明されていません。人々は狩猟・採集、または漁労などをして食料を得ておりました。このように自然の恵みから生きる糧を得ている状態を獲得経済と呼んだりもします。 ところで余談ですが、共産主義思想の基本となるマルクス主義的唯物史観では、獲得経済期の人類社会は身分差が無く平等であった…とされています。が、しかし、本当にそうであった事を示す根拠は何一つありません。 ……さて、こうして世界各地でたくましく生き抜いて代を重ねていった人類たちは、ますますその生存能力を高めて行きました。現生人類までの人類は、環境に合わせて進化して自らの肉体を変化させていきましたが、それに対して現生人類は、己の発達した知能を活かして道具や生活様式を改良し、進化ではなく進歩するようになってゆきます。 まず進歩したのは道具、特に石器でした。 そして道具の発達と並行して、不安定な狩猟・採集生活から、より安定した生活への移行が図られます。そう、農耕と牧畜の発明です。 さて、今から農耕・牧畜の発生についてのやや具体的な話をしてゆくわけですが、ここでも例によって一般的・平均的な話をします。実際には、農耕や牧畜が始まった年代にしても、地域によってまちまちですし、現代でもほぼ純粋な獲得経済で食料を得ている人々だって存在しているのですので、これを世界共通のお話だと誤解するのは止めて頂きたいと思います。 まず、牧畜の話をしましょう。 一方の農耕でありますが、これは当然、植物の生育・栽培に適した地域で始められたというのは想像に難くありません。 こうして農耕と牧畜を習得した人間たちは、これまでとは違い、食物を自らの手で生産する事が可能になりました。この事を生産経済への移行、または食糧生産革命と言ったりします。 ……と、こうして獲得経済から生産経済への移行について話をして来たわけですが、ここからの更なる社会的な発展、つまり文明の誕生へ話を持っていくとなると、牧畜社会よりも農耕社会の方をクローズアップしなければなりません。逆に言えば、文明を誕生させるためには農耕社会でないといけない理由があるのです。 ・効果的な食糧生産をする能力を持ち、実行している。 ──これでも分かり難いと思いますので簡単に言いますと…… そして、文明誕生の第一条件である、大量の食糧生産と多人数による定住を実現させるためには、農耕、それも灌漑農業が必要不可欠でした。 で、多くの人々が住む農耕社会が成立し、その運営が軌道に乗り始めますと、次第に余剰の生産物が蓄積されていきます。 ここまで来れば、もう後はトントン拍子です。人口は増え、生産高も更に増し、文化は発達し、社会システムは成熟して行きます。 ……さて、ここまで4回を費やして、人類の進化から文明の発生までのお話をして来ましたが、次からはいよいよ世界の各地域で成立した古代国家についてお話をしてゆくことになります。 |
9月13日(金) 歴史学(一般教養) |
前回はサルからヒトになったばかりの人類である猿人についてお話をしました。今回はその続き、原人から我々の直接の祖先である現生人類(=新人)までの事についてお話をしてゆきたいと思います。 ……前回の講義の最後で、今から約150万年前にアフリカ大陸東部でホモ=エレクトゥスという、原人の祖先にあたる人類が誕生した事をお話しました。 この新しいタイプの人類は、従来の猿人よりも脳容量が大きく(猿人の500cc前後に対して800〜1000cc)、体格も一回り以上大きかったと推定されています。その容姿はと言えば、頭蓋骨の形は未だ類人猿的だったものの、下半身の形は驚くほど現代人的であったようです。 こうして猿人に比べて大きなアドバンテージを得た原人は、あっという間にそのテリトリーを広げて行きます。これも確証は持てませんが、原人の登場からしばらくして猿人がアフリカから姿を消したのは、この原人が猿人たちを片っ端から駆逐して行ったのではないか…という説もかなり有力です。 現在のところ、原人の人骨化石が発見されている地域は、アフリカ以外では西ヨーロッパと東および東南アジアに偏っています。特に有名なのは、中国の北京原人、インドネシアはジャワ島のジャワ原人、そして原人としてはかなり進化したタイプと言われているドイツのハイデルベルク人で、いずれも約70万年〜40万年前に存在していた人類ではないかと推定されています。東南アジアの島から人骨化石が発見されるというのは不思議に思われるかも分かりませんが、ジャワ原人がいた頃のジャワ島は大陸と地続きだったんですね。 原人の頃の人類の生活実態を知る上において、最も参考になるのは、中国東部の周口店で発見された北京原人が暮らしていたと思われる洞窟の遺跡です。 …で、この原人たちの消息は、約30万年前を最後に杳として知れなくなります。恐らく猿人の時と同じように、原人のまま滅亡していったり、更に進化を続けていったりしたものだと思われます。 ネアンデルタール人は、容姿などに現代人と多くの類似性を持ちます。筋肉が著しく発達し、脳容量も現生人類とほぼ同じかそれ以上になるまで発達しています。もう完全に“人間”と呼ぶに相応しい存在と言えるでしょう。 さて。 彼ら新人は、ユーラシア大陸に進出するや、瞬く間にそのテリトリーを広げて行きます。それまでの住人であった、ネアンデルタール人ら旧人は、新人に駆逐されたり、または混血して、“吸収合併”される形で姿を消してしまいます。約4万年前には、地球上の人類は全て現生人類に占められるようになっていました。ここに現生人類による“天下統一”が成ったのでありました──。 ……さて、ここから我々の祖先である新人たちについて述べてゆく所でありますが、今日は残念ながらここで時間となりました。 |
9月9日(月) 歴史学(一般教養) |
※過去の講義のレジュメはこちら→第1回 前回は思い切って“歴史のスタートライン”を7000万年前まで下げ、霊長類が地球上に登場してから、現在のアフリカ大陸で人類が誕生するまでの歴史を述べてゆきました。 ……さて、前回の講義の中で「人類が誕生した年代を特定するのは、未だ難しい」と述べました。これは、人類誕生の年代が考古学上の発見とその検証結果に大きく左右されるためであります。 閑話休題。 受講生の皆さんも、恐らく中学・高校で学習したように、人類は進化の段階によって4つに分けて語られます。即ち、時代の古い方から“猿人”、“原人”、“旧人”、“新人”…とされる分類であります。この講義でも、この4分類に沿ってお話を進めて行きたいと思います。 まず初めに“猿人”。文字通り、類人猿に近い人類というわけですね。このタイプの人類についてお話をしてゆきましょう。 …さて、件の700万年前の物と思しき“猿人化石と言われている霊長類の化石”など、未だ検証中のモノはとりあえず扱いを保留して考えますと、現在発見されている中で最も古い人骨化石は約450万年前の物であります。 さすがに400万年以上前の人骨化石となると、ラミダス猿人の他に人類と確証の持てるものは発見されていませんが、これ以降の年代のものとなると、これはかなりの種類が発掘されています。 …で、この猿人たちなのですが、どうやらこの猿人たちは1つの種としてまとまっていたわけではなくて、それぞれ各地で異なる種の猿人が独自の進化を遂げつつ代を重ねていったようです。つまり、進化の枝分かれは人類になってからも続いていて、猿人の中には猿人のままで滅亡していった種も多数あったという事になります。 こうして人類はゆっくりとした歩みながらも、確実に進化を続け、より人間っぽい動物へと変わってゆきました。 ……と、今日は猿人の歴史だけで時間を費やしてしまいましたが、次回は少しペースを上げて、原人から新人までの歴史をお話してゆきたいと思います。(次回へ続く) |
9月4日(水) 歴史学(一般教養) |
お約束どおり、いよいよ当講座開講以来のロングラン・シリーズ・「学校で教えたい世界史」のスタートとなります。 昨日のガイダンスで言い忘れていたのですが、現在の駒木研究室はスキャナすら無いという悪環境に置かれており、そのため皆さんには地図を含んだビジュアル資料の提示が出来ない状況にあります。 前置きは以上。それでは本題に入ります。 さて、世界史を語るにおいて、まず語り手を困らせるのは、そのスタート地点をどこから置くのか…という事であります。 一番簡単なのは“有史以来”、つまり信用するに足る文献資料が残されている時点から語る事でありますが、これだと多めに見積もっても紀元前3000年頃からの5000年程度にしかなりません。旧約聖書等の半ば神話的な史料を用いても1万年は下らないでしょう。 しかし、人類はいきなり人類として地球上に姿を現したわけではありません。現在の人類とは似ても似つかないような祖先から長い年月をかけて進化を繰り返した末に辿り着いた姿、それが人類なのであります。(注:一部の宗教には、人類は人類として誕生したとする説をとるものもありますが、ここでは一般的、科学的な観点から話を進めます) ──7000万年前に現れた霊長類の祖先は、サルというよりも、むしろネズミのような極めて原始的な姿をしていたと思われます。そしてそれは、住む環境に合わせて体の一部、または大部分を特殊化してしまった他の哺乳類とは異なり、原始哺乳類から極めてバランス良く進化した姿でありました。馬のように走り易いように四肢の指を退化させる事無く、象のように体の一部分を著しく変形させる事も無く、牛のように消化器の構造を変えてしまう事も無かったのです。 …こうして全哺乳類の中のエリート的存在として誕生した霊長類は、さらにバランス良く進化を続けてゆきます。当然、この徐々にネズミからサルに近付いてゆく原始動物の中に、我々人類の直接の祖先がいた事になります。 こうしてかつての仲間・原猿亜目に別れを告げた真猿亜目に属する霊長類は、やがて明らかにサルと言って良いような容姿にまで進化を遂げます。体長も大きくなり、2本の前足は手としての用途を果たすように発達。木の枝を掴んで、枝から枝へと移動してゆく“枝渡り”が出来るようになりました。 このヒト科の類人猿が進化を続けてゆく中で、アフリカに住んでいた一部の連中が、ある時から樹上生活を放棄して、完全な陸上生活を始めます。いや、正確に言えば、自然環境の変化で住んでいる地域が草原になってしまい、樹上生活が難しくなっただけだったのですが。 この進化の枝分かれが人類誕生の瞬間となるわけなのですが、これがいつ起こったかというのは未だ正確に把握できていません。 ……何はともあれ、こうしてアフリカ大陸に原始的な人類が誕生し、人類の歴史が始まりました。この極めてサルに近い人類が、どのような歴史を辿って我々現生人類にまで至ったのでしょうか。次回の講義はこれをテーマに話を進めてゆきたいと思います。 それでは、今日の講義を終わります。(次回へ続く) |
7月19日(金) 歴史学(一般教養) |
採用試験直前の苦し紛れで始めたこのシリーズですが、一応今回でひとまずの区切りとさせて頂きます。 覚え書き4・ギリシア正教がロシアの宗教になった理由とは? 日本のように宗教色の薄い国は別にして、大抵の国には国教や、国民の多くが入信している宗教なんてものがあります。アメリカやイギリスにとってのそれは勿論キリスト教ですし、イスラエルを除く中東のアラブ諸国の多くはイスラム教が国教とされています。 当時の君主であるキエフ大公・ウラジミール1世は、我が手によって着実に成長しつつある自分の国を誇らしく思いつつも、1つだけ気になって仕方ない事がありました。 で、一度決めたら話は早い。ウラジミールは様々な宗教の宣教師と面会してセールストークをさせる一方で、自分からも各国へ使いを出し、どの宗教の国が反映しているかリサーチを掛け始めました。 「お前の話を聞いておると、イスラム教を信じてしまうと豚肉と酒を口にする事が出来んようだが、それは真か?」 ……というわけで、ロシアはイスラム教国にならなかったんですね(苦笑)。 結局決め手になったのは、東ローマ帝国の首都・コンスタンティノープルとその宮殿が非常に華やかで豪華絢爛だったこと。そのリサーチ結果を聞いたウラジミールは、 結局、キエフ公国はロシア帝国に名を変えた後もギリシア正教の国として栄え、総本山の東ローマが滅亡した際には、最後の東ローマ皇帝の姪をロシア皇后として迎え、東ローマとギリシア正教の正統な後継者となることになったのでした。世の中、何がどうなるか分からないですね…というところで、今日はこれまでにしたいと思います。ではでは。 |
7月17日(水) 歴史学(一般教養) |
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覚え書き3・もう1つの歴史教科書問題!? 学校現場で歴史に関わっていると、時々思いがけない事態に遭遇してしまったりします。 「世界史用語集」をお持ちの方はご存知でしょうが、現時点で刊行されている世界史B(普通の世界史と考えてください)の教科書は、全部で18冊もあります。 ところが、教科書によって、内容が大きく違う歴史の一分野が存在するんです。年号、登場人物、歴史上の出来事、もう全てが大違い。どっちを覚えれば受験に対応できるのか、非常に頭を悩ませる羽目に陥ってしまってます。 そんな人騒がせなのはどの分野かといいますと、それは中世モンゴルの歴史なんです。そう、チンギス某とかフビライ某とかが出て来るモンゴル帝国の歴史です。 どうしてこんなヤヤコシイ事が起こったのかというと、それには深いようで結構単純な理由が潜んでいたりします。 理由をごく簡潔に言うと、実は今、モンゴルの歴史は大胆に書き換えられている真っ最中なんです。 おそらくここ10〜20年くらいの話だと思うんですが、日本の歴史学界でモンゴル史を深く研究しようという気運が高まり、しかもその中で重要な史料が次々と研究対象になっていって、これまでは全く知られていなかった事実が色々と判明して来ました。 しかしこうした混乱も、モンゴル史学者の先生方の頑張りのおかげで、新発見された事実が歴史業界内に浸透したためようやく終息へ。 でも、それで「メデタシメデタシ」にならないのが歴史業界の辛いところ。これだけモンゴル史が見直されたりしても、一部の教科書は未だに旧来の定説がそのまんま載っていたりするんですね。だから冒頭で述べたようなイタい出来事が起こったりするんです。 あまり知られてませんが、歴史教科書って結構いい加減に作られてるんです。 駒木は幸いにも大学時代に新しいモンゴル史を1年間受講していたので、旧説の教科書を使って新しい説のモンゴル史を教える…なんていう力技も出来たりします。ただ、それにしても「受験用には教科書の内容も覚えておけよ」なんて注意もしなきゃいけないんですけどね。いやはや、全くムチャクチャな話ですよ。 ……ところで、新しく塗り替えられたモンゴル史の中で、特に旧来の説から大転換されたものがあります。 それは、西欧からやって来た大商人・マルコ=ポーロについてのお話です。 皆さんもご存知ですよね? マルコ=ポーロと彼の著書である『東方見聞録(世界の記述)』。知らないとは言わせませんよ。義務教育ですからね。
……というもの。そのリアルな経歴の内容に加え、マルコの精密な肖像画まで残されていたため、長年にわたってマルコ=ポーロと『東方見聞録』に関する話はマジ話として伝えられて来ました。 しかししかし、最近の研究で、大元王朝時代に残された大量の歴史資料(中国において歴史編纂は国家事業なので史料は掃いて捨てるほどある)を調べてみたところ、意外な事実が判ったんです。 じゃあ、“マルコ=ポーロ著『東方見聞録』”とはどんな本なのかといいますと、これはどうやら当時の旅行家たちが掻き集めてきたアジアの情報や見聞をまとめた本のようなのです。つまり、マルコ=ポーロとは合作のペンネームだったわけですね。今で言えばCLAMPさんみたいなものですか。 …と、とりとめもなくダラダラとお話しましたが、今日はこれまで。このシリーズはとりあえずあと1回くらいで一区切りにしたいと思います。ではでは。(次回へ続く) |
7月14日(日) 歴史学(一般教養) |
さて、ちょっと今日はタイムリーな話題を。 先週の新聞紙面でも大きく採り上げられました通り、アフリカで700万年以上前の人骨化石と思われるものが発見されました。 ところで受講生の皆さんは、人類と類人猿はどこで区別するのかご存知でしょうか? では何故、猿人はサルではなくて人類の仲間に入れてもらえるのか? それは、猿人には類人猿に無くて人類だけにある特徴を持っているからなのです。 ん? ちょっと誰ですか、「それ四十八手だろ?」とか言ってる男子校の高校生みたいな困った人は(笑)。 脱線はこれくらいにして、正解を発表しますね。 そう言えば今回の大発見で、気になる事がもう1つあるんです。 とりあえず、ここから先は一生懸命研究されている考古学・人類学者さんたちのお仕事ですので、歴史学の講師としての無責任な詮索はやめておきましょう。でも、ちょっと無責任ながらもワクワクする想像をしてみる、これも歴史学の1つの魅力でもあるんですよね。 とりとめのない話になりましたが、今日はこんなところで失礼します。(次回へ続く) |
7月9日(火) 歴史学(一般教養) |
皆さんもご存知の通り、教員採用試験が近付いて来まして、ここ最近は、なかなか講義に時間が割けなくなってしまいました。 覚え書き・1 金庫番たちのマル秘訓練 これは中国最後の王朝・清王朝(1636〜1911)でのお話。 普通、兵士たちにとっての栄誉といえば、軍功を挙げ、それを認められて将軍へと出世する事でありますが、平和が続き、兵士たちに厭戦ムードが漂い、戦争に価値が見出せなくなって来ますと、そういう出世欲も失せてしまったりします。 さて、どうやって持ち出したんでしょう? 答えは正にコロンブスの卵。体の中に金塊を隠して出て来たんです。 隠した場所は、なんと尻の中なんです。そうです。尻の穴からズブズブと金塊を埋め込んでいったんですね。タチの悪いホモビデオみたいな話ですが…。 戦い方の訓練よりも、尻の穴を緩める訓練。 というわけで(?)、こんな風潮が蔓延してから間もなく、清王朝は近代化が遅れていた事もあって、ヨーロッパ諸国との戦争にボロ負けするようになってしまいます。そしてやがて、それまで歯牙にもかけていなかったアジアの小国・日本に日清戦争で完敗し、半植民地化への道を転がり落ちてゆくことになるのです。 ……と、こんな感じでお送りしてゆきます。次回もどうぞよろしく。(次回へ続く) |