「社会学講座」アーカイブ(世界史・1)

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講義一覧

11/1  歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(19) 第2章:オリエント(13)〜アケメネス朝ペルシアの建国と発展
10/30 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(18) 
第2章:オリエント(12)〜4王国の分立

10/28 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(17)
 第2章:オリエント(11)〜アッシリア帝国
10/23 
歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(16) 第2章:オリエント(10)〜シリアとパレスティナ《続》
10/21 
歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(15) 第2章:オリエント(9)〜シリアとパレスティナ
10/16 
歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(14) 第2章:オリエント(8)〜ヒッタイト、ミタンニ、カッシート
10/14 
歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(13) 第2章:オリエント(7)〜古代エジプト文化
10/11 
歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(12) 第2章:オリエント(6)〜古代エジプト王朝の変遷《続々》
10/9 
歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(11) 第2章:オリエント(5)〜古代エジプト王朝の変遷《続》
10/7 
歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(10) 第2章:オリエント(4)〜古代エジプト王朝の変遷
10/2 
歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(9) 第2章:オリエント(3)〜エジプト文明の誕生
9/30 
歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(8) 第2章:オリエント(2)〜古代バビロニア王国
9/27 
歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(7) 第2章:オリエント(1)〜メソポタミア文明の誕生
9/23 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(6)
 インターミッション1〜偉大なる発見者たちの苦悩(後編)
9/20 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(5)
 インターミッション1〜偉大なる発見者たちの苦悩(前編)
9/16 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(4
 第1章:先史時代(4)〜文明の誕生まで
9/13 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(3)
 第1章:先史時代(3)〜猿人から新人まで
9/9  歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(2)
 第1章:先史時代(2)〜人類誕生)
9/4  歴史学(一般教養)「学校で教えたい世界史」(1)
 第1章:先史時代(1)〜人類以前)

7/19 歴史学(一般教養)「短期集中企画・駒木博士の歴史覚え書き(4・終)」
7/17 歴史学(一般教養)「短期集中企画・駒木博士の歴史覚え書き(3)」

7/14 
歴史学(一般教養)「短期集中企画・駒木博士の歴史覚え書き(2)」
7/9  
歴史学(一般教養)「短期集中企画・駒木博士の歴史覚え書き(1)」

 

11月1日(金) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(19)
第2章:オリエント(13)〜
アケメネス朝ペルシアの建国と発展

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第1回第2回第3回第4回(以上第1章)/第5回第6回(以上インターミッション1)/第7回第8回第9回第10回第11回第12回第13回第14回第15回第16回第17回第18回


 9月の末から13回にわたってお話を続けてきました古代オリエント史でありますが、今回で一応の区切りとなります。また、これを機にこれまでのレジュメを通して閲覧して頂き、より歴史全体に対する理解を深めて頂けると幸いであります。

 さて今日は、最終的に古代オリエント世界を統一することになる、アケメネス朝ペルシア帝国(王国)の建国からそのオリエント統一までのお話をしてゆきたいと思います。

 最近はあまり“ペルシア”という名前を使わなくなりましたが、この言葉は古代から現代に至るまで、現在のイラン地方を示す地名として使われていました。
 この“ペルシア”という地名が使われ始めた正確な年代の確定は難しいところですが、紀元前9世紀頃のアッシリアの記録から、それまで“アンシャン”と呼ばれていたイラン地方を指す言葉として、新たに“パルスア”という固有名詞が登場します。恐らくはこれが“ペルシア”の語源になったのでありましょう。
 そしてこのペルシアは、紀元前8世紀頃にはアッシリアの侵攻を受けて属国化し、その後は、前回までの講義でも述べました通り、新興国家・メディア王国の属国となります。紀元前670〜660年頃には後の王朝の基礎となるイラン人の王家が成立したと推測がなされていますが、当時はまだ地方政権の一君主に過ぎなかったはずであります。

 この無名同然の地方政権が、東の中華帝国と並ぶ世界を代表する巨大国家にまで成長したきっかけを作ったのは、キュロス2世という王が歴史の表舞台に現れた時でありました。

 古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスの残した記録を信じるならば、キュロスは当時ペルシアの宗主国であったメディアの王家の血を引いているそうであります。以下、彼にまつわるエピソードについてしばらく時間を取ってお話しましょう。
 彼の母は、メディア王国の王女であったところを、父王が彼女に関する不吉な夢を見たとの理由で追放同然にペルシア王家に嫁がされ、そこで王妃となった人物でありました。その第一子がキュロスというわけです。悪い表現を恐れず言えば、キュロスは生まれながらにして“捨て子の落とし子”という難儀な宿命を背負ってこの世に現れた事になります。
 そしてまた、キュロスが産まれてからも受難は続きます。「娘の産んだ子がメディアを滅ぼす」という不吉な夢を見たとの理由で、本国からキュロス暗殺の命を受けた人物が派遣されるに至ったのであります。
 この危機的場面は幸いにも、キュロス暗殺命令を受けたメディア王の側近・ハルパゴスがその実行を躊躇い、密かにとある羊飼いの夫婦──先に赤子を亡くしたばかりの──にキュロスと赤子の亡骸を交換させ、キュロスを殺したと欺いたために最悪の事態には至りませんでした。しかし、幼年期のキュロスは自分自身の素性を知らないまま、ただの牧童として育ってゆく事になったのでありました。

 それから10年の年月が経ちました。
 羊飼いの息子として育ったキュロス少年は、成長するに連れて、明らかに非凡なその才能を隠すところなく発揮し始めます。その姿は、羊飼いと言うよりも王者に相応しいものであったと言われています。
 キュロスの噂は瞬く間にペルシアやメディアの王家の知るところとなり、調査の結果、彼が殺されずに済んだペルシアの王子であることが判明しました。年月が問題を解決させたのでしょうか、ここに至ってメディア王もキュロスの助命と王子への復籍を容認し、ここにペルシアの王太子・キュロスが誕生したのでありました。その後、キュロスの父にしてペルシア王であったカンビュセス1世が亡くなり、キュロスは遂に王座に就きますこれがキュロス2世(在位:《ペルシア王として》紀元前559〜《アケメネス朝ペルシアの王として》紀元前550〜530)であります。

 ペルシア王となったキュロス2世は即位後から、因縁深き宗主国・メディア王国の打倒を画策し、着々と準備を重ねてゆきました。
 メディア王国と同盟関係にありながら、その国力に危機感を抱いていたカルデア王国との協調関係を水面下で密なものとし、更にはメディア王国からも精鋭部隊のヘッド・ハンディングに成功します。
 この精鋭部隊の隊長こそが、赤子のキュロスの命を助けた、王の側近ことハルパゴスその人でありました。彼はキュロスの生存が明らかとなった際、王の命に背いた罰として、我が子を殺され、しかもその肉を我が子の肉と知らずに食わされるというエゲツない目に遭っており、密かに復讐の機会を探っていたのでありました。
 かくして紀元前550年、当時オリエント最強を誇ったメディア王国は、キュロス2世率いるペルシアによって滅ぼされることとなります。メディアの領土は全てペルシアに併合され、現在のアルメニアからイラン、アフガニスタン西端に至る巨大な領土を持つ“新生”ペルシアが建国されました。この新しいペルシアの事を、これ以後に建国される複数の“ペルシア”と名付けられた国と区別するためにアケメネス朝ペルシアと称します。これは、元々のペルシア王家の伝説上の創始者の名がアケメネスといったところに由来しています。
 その後、キュロス2世率いるアケメネス朝ペルシアが次々とオリエントの諸国家を征服していったのは、前回の講義で述べた通りであります。紀元前547年にはリディア王国を、紀元前539年にはカルデア王国を滅ぼして、これらの領土を併合していますキュロス2世がアケメネス朝の基礎を築いたのは疑いの無いところでありましょう。

 そんなキュロス2世の30年に及ぶ治世は、戦いに次ぐ戦いで占められたようであります。主な国を滅ぼしたとはいえ、オリエントには未だペルシアを宗主国として認めない小国が多数存在していたのです。そしてまたその最期も、ペルシアに歯向かう遊牧民との戦争において、王自ら勇敢に戦った末の戦死と言われています。
 こう言いますと、さもキュロスは花よりも血の臭いを好む残忍な王のように思えてしまいますが、その人柄は非常に温厚で情に厚い人であったとされています。一度矛先を交えた国であったとしても、征服した相手の王には極めて寛大な態度で接し、カルデアの元の王が亡くなった際には国葬をもって遇したと言いますから大したものであります。勿論、そうする事で被征服民を懐柔する狙いもあったでありましょうが、彼の戦死後に反乱らしい反乱が起きていない事実を見ると、キュロス2世が王として魅力的な人物であった事は確信を持って良さそうです。

 キュロス2世が死んだ後は、既にバビロニアの太守として実地で帝王学を学んでいた長男・カンビュセスが即位してカンビュセス2世(在位:紀元前530〜522)となります。当時のペルシアでは長男には自分の父親の名を授けるという伝統があり、そのため、キュロス2世の父親の名を譲り受ける事になったのでありました。
 カンビュセスは、その短い治世の中でアフリカ地方の征服とその経営に力を注ぎました。中でも古代エジプト王国を征服(紀元前525年)し、支配した事は前回の講義で述べた通りであります。
 彼は遠征を失敗させたり、エジプトの旧支配者層への配慮を損ねたために、必要以上にその評を貶められていますが、実際のところは先代・キュロス2世の政治方針を踏襲した、それなりに優秀な人物であったようであります。これは、彼が治世の大半において本拠地を留守にしていたにも関わらず、全国的な支配に揺らぎが無かったことでも明らかであります。
 カンビュセスは紀元前522年、彼の弟・パルディヤの反乱の報に接し、急遽本拠地に帰還する途中で客死します。カンビュセスを非難する者たちは、エジプトの神聖な牛を殺した祟りだと言いますが、今ではカンビュセスがその牛を殺した事さえも事実と異なると判っています。当然の事ながら、彼の死因は病死と考えるのが妥当でありましょう。

 さて、王弟の反乱という国家の一大事に、肝心の王を失ったペルシアは、これまでの安定した統治から一転、大混乱となりました。こういう時には血統よりも実力がモノを言う社会になるのは世の必定でありまして、この時も王座を手に入れたのは王弟・パルディヤではなく、先王カンビュセス2世から見れば曽祖父の弟の4代孫という遠縁にあったダレイオス1世(在位:紀元前522〜486)でありました。
 ダレイオスは、王位継承権を持つパルディヤを“既に先王・カンビュセスに歯向かい殺されていたパルディヤの名を騙る者”として、王位継承者ではなく叛徒であると宣言、半年の戦いの末に彼を破り、王座を半ば強奪する形で王位に就きます。分かる人だけ分かるように言いますとエヴァ3号機を使徒とみなして殲滅を命じた碇ゲンドウみたいな事をしたわけであります。
 このようなダレイオスの“王位簒奪”を、各地の実力者が納得出来るはずなどありません。彼らはそれぞれ王を自称して、反・ダレイオスの兵を挙げるところとなりました。しかし力に勝るダレイオス1世は、1年の内にその全てを鎮圧し、その支配を確固たるものにします。この辺りはまさに“格の差”と言うに相応しいものでありまして、事実、この後のダレイオスは並みの王位簒奪者に似合わない類稀な政治的センスを発揮して、アケメネス朝ペルシアの黄金時代を演出する事となったのでありました。

 そんなダレイオス1世の行った治績の中で最も有名なものが、王都スサ(現在のペルシア湾岸・イラン・イラク国境付近の都市)に鎮座するダレイオスに全ての権力が集約する中央集権体制の確立であります。彼は、それ以前に栄えた大国であるアッシリアやメディアの制度を参考にしつつ、独自の支配を進めていったのであります。
 ダレイオスは、即位後自ら征服活動を行って広めた広大な領土──トラキア(ギリシア東部のエーゲ海沿岸一帯)からインダス川西岸に至るまで──を治めるため、領地を20以上の州に分割してそれぞれをサトラップと呼ばれた知事に統治させました(サトラップ制)。実はカンビュセスの代までは実現できなかった全国からの徴税制度がダレイオスの代に実現するのですが、それもこの支配制度の確立と無関係ではないと思われます。
 しかもサトラップが二心を抱いた場合の用心として、“王の目”“王の耳”と呼ばれた監督制度・スパイ制度や、“王の道”と呼ばれる駅伝通信制度を完備させて万全を期しました。鉄壁の支配であります。
 そしてまた、この支配を支えた強固な軍隊も特筆すべきものであります。中でもダレイオス親衛隊“不死の1万人隊”は長年無敵を誇った精鋭部隊でありました。

 ところで、ダレイオスの時代には、イラン地方発祥の宗教・ゾロアスター教の普及が進みました。
 この宗教は、紀元前12世紀頃にゾロアスターを創始者に始まったものでありまして、善神“アフラ=マズダ”と悪神“アーリマン”の対立をテーマとしたもので、他の宗教に先立って、いわゆる“最後の審判”の思想を導入した事でも知られています。
 ゾロアスター教はこの後も存続し、やがてはペルシア地方のみならず中国にまで流布されてゆくこととなります。この宗教に関しては、また別の機会に述べることになるでしょう。

 最後に、古代ペルシアの文字についても、少々のエピソードをお話しておきましょう。
 古代ペルシアの文字は、メソポタミア文明のそれと同様の楔形文字であります。しかも、このペルシア語の解読によって他の楔形文字を用いた言語が解読できるようになったために、この時代の言語学研究の中でも最重要の位置付けが為されています。
 このペルシア語解読の先鞭をつけたのは、ドイツの高校教師・グローテフェントでありました。彼は、ペルシア王宮で発見された碑文を、ササン朝時代(226〜651年)のペルシアで使われた言語と同様の文法であると見抜き、その上でパズルを解くかのように楔形文字をアルファベット化してペルシア語13文字の解読に成功したのでありました。発見された碑文が非常に限定されていた事を考えると、これでも奇跡に近い偉業であります。
 グローテフェントに続いたのが、言語学者にしてイギリス陸軍将校であったローリンソンで、彼は赴任先のペルシアで、高さ120mの断崖に刻まれた巨大な碑文──古代ペルシア語のみならず、エラム語とアッシリア語も対訳で刻まれていたロゼッタストーン的なもの──を発見し、上官の理解を得て軍務の傍らに研究を始めます。この碑文は、その地名からベヒストゥーン碑文と名付けられました。
 ローリンソンは、中世のイスラム教徒ですら破壊を断念したと言う断崖絶壁に命綱も無しでよじ登り、少しずつその碑文を写し取って解読に挑みます。そして彼はペルシア語の完全解読に成功し、後のエラム語やアッシリア語、更には他の楔形文字言語の解読に大きく貢献する事になったのでありました。

 ──このようにして、古代オリエント世界はアケメネス朝ペルシアの手によって完全統一が成されました。これにて古代オリエントの歴史は一応の終幕となります。
 ただ、この鉄壁の支配を誇ったペルシア帝国も、ダレイオス1世の晩年にはギリシア遠征(=ペルシア戦争)に失敗し、更にダレイオスの死後には優れた後継者に恵まれなかったため、国勢は徐々に先細りになっていってしまいます。そして建国から220年経った紀元前330年には、マケドニア生まれの英雄・アレクサンドロス(アレキサンダー)大王の前に滅ぼされることになるのでありますが、それについてはまた主客を入れ替えて、マケドニアとアレクサンドロスの歴史を語る時に詳しくお話することに致しましょう。

 
 さて、次回からは舞台を地中海世界に移しまして、ギリシアとローマの歴史を中心に述べてゆく事になります。ますます面白さを増す歴史の物語にどうぞご期待下さい。 (次回に続く


 今回をもちまして、この「学校で教えたい世界史」は、しばらくのお休みを頂きます。今のところ、再開は11月の第4週辺りを予定しておりますが、詳しくはまたお伝え致します。なお、再開後のこの歴史学講義は、週1〜2度の実施にペースを落として実施する予定です。受講生の皆さんには御迷惑をおかけしますが、悪しからずご了承下さい。 

 


 

10月30日(水) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(18)
第2章:オリエント(12)〜
4王国の分立

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 前回は、メソポタミア辺境の小王国から、短期間ながらオリエントの覇者にまで昇り詰めたアッシリア帝国の歴史を概観してみました。
 そして今回は、このアッシリア帝国を倒し、更にはその後のオリエント世界に割拠した4つの王国について述べることにしましょう。
 その4つの王国とは、まず1つ目がメソポタミアの東、イラン地方からやって来た騎馬民族がまとまって出来上がったメディア王国。次に2つ目が、ハンムラビ王の時代以来、メソポタミア地方の中心地として栄えたバビロニアを首都に持つカルデア王国。3つ目が小アジアの西端からアナトリア半島全体に勢力を広げていったリディア王国。そして最後の4つ目が、衰えつつも依然として存在感を発揮していた古代エジプト王国であります。
 以上、これら4つの王国がアッシリア以後のオリエント世界を支配する事になったのでありました。

 それではこれより、これら4つの国それぞれの歴史について、簡単ながらお話してゆくことにしましょう。

 まずはメディア王国から。この国では文書を遺す習慣が無く、未だに余り詳しい事が分かっていないのでありますが、可能な範囲でお話します。

 この国は先に述べた通り、元々はメソポタミアとは縁の薄いイラン系の騎馬民族たちが統合して出来たものですが、このメディアの民族そのものは紀元前10世紀頃から存在したと言われています。
 但し、この民族は紀元前7世紀に至るまで他民族の支配下にあり、アッシリアが強大化した後は、その属領になっていたりもしました。
 しかし、アッシリアのオリエント支配にほころびが見え始めた紀元前7世紀後半には事実上の独立を果たし、周囲の民族を臣従させるなどして勢力を伸ばしてゆきました。ちなみに、この時メディアの支配下に置かれていた民族の中に、後にこの国を滅ぼして最終的なオリエントの覇者になるペルシア民族がいました。
 そして前回にもお話した通り、メディア王国は同時期に建国したカルデア王国と同盟を結び、アッシリア帝国を滅ぼして更にその勢いを増してゆきます。最盛期(紀元前6世紀前半)には、その領土は現在のアルメニアからイランの大部分、そしてアフガニスタンの西端に至る広大なものとなりました。今回採り上げた4つの王国の中では飛びぬけて広い領土を有していた事になります。

 しかし、最後にはこの広い領土が逆に仇となりました。要は目立ち過ぎたわけです。

 紀元前550年、この国の強さに恐れを抱くようになった同盟国カルデアが、当時急速に力をつけつつあったペルシアに働きかけ、メディアを挟み撃ちにします
 その結果、戦いはペルシアの圧勝に終わり、メディア王国は呆気なく滅亡。新たに興ったペルシア帝国に吸収されることとなったのでありました。

 
 次にカルデア王国であります。本拠地がバビロニアであった事から、ハンムラビ王のバビロニア王朝“古バビロニア王国”とし、この国“新バビロニア王国”とする呼び方もあります。
 この国は、古バビロニア王国時代からの住人・アムル人と、シリアの歴史で紹介したアラム人の2つの民族によって構成されていました。この講義の第14回で述べた、カッシート族を経てエラム人の手に渡ったメソポタミアを、異民族から奪回したのもこの人々です。

 このバビロニア一帯、紀元前8世紀終盤〜7世紀初頭のアッシリア全盛期には、当時のオリエントの他地域と同じように、その大帝国の支配下に置かれ、厳しい占領政策を敷かれていました。しかし、先程から述べていますように、紀元前7世紀アッシリアの混乱に乗じて独立を回復すると、間もなくしてメディアと同盟を結び、これを滅ぼします。この時、カルデア王国はオリエントを代表する国となったのでありました。

 カルデア王国の領土は、基本的にはメソポタミア中・南部の限られた範囲に留まっていましたが、この国の最盛期であるネブカドネザル2世王(在位:紀元前605〜562年)の時代には、エジプトを破り、ユダ王国を滅亡させるなどして、その勢力圏を一気に押し広げました第16回で述べた“バビロン捕囚”が実施されたのもこの時です。

 また、ネブカドネザル2世の時代には、様々な建築物が築かれた事でも知られています。その中でも、“世界七不思議”の1つと言われた“バビロンの空中庭園”が非常に有名であります。
 この空中庭園、今風に言えば、ビルの屋上に出来た庭付き植物園でありました。ホームシックに悩んでいた、同盟国・メディア王国から嫁いで来た王女のために、王がメディアから植物を取り寄せて作らせたと言われています。血なまぐさい戦争や強制移住をやった王にも、一片のロマンチシズムはあったと見えます。

 しかし、このカルデア王国もネブカドネザル2世の死後は急速に衰退します。経済力を背景にした豪商たちが政治にも口出しするようになって、国が乱れたとも言われています。
 その最期の時は、紀元前539年に訪れました。カルデア王国は、かつての同盟国・ペルシア帝国によって占領され、その11年前にカルデアの陰謀の前に滅びたメディア王国(これも元々は同盟国ですが)と同じ運命を辿る事になったのでありました。


 そして3番目に採り上げるのは、アナトリア半島、つまり現在のトルコ共和国がある地域を支配したリディア王国であります。
 リディアの人々は、かつてアナトリア半島に栄えた、あのヒッタイト族の末裔と言われており、半島の西端でひっそりと暮らしていました。が、紀元前7世紀、アッシリアの衰退や異民族(アジア系騎馬民族のスキタイ人など)の侵入などによりアナトリア半島が大混乱に陥ると、これに乗じて領土を一気に広げ、大規模な王国を建設するに至ったのでありました。

 このリディア王国は、その地理的条件からギリシアとの交流・交易があり商業が盛んで、更には貴金属が採取出来たこともあり、世界で初めて鋳造貨幣を発行した国として知られています。これらの貨幣、始めは金と銀の合金で、後には100%金貨の貨幣も発行しています。

 ただ、リディア王国は他の国のように国力や歴史的なバックボーンに乏しく、対外的には終始受身の姿勢を強いられました。建国間もなくから東隣のメディア王国からの侵攻を受け、長年の防衛戦争を強いられました。
 この戦争の時は、戦闘中に、当時は不吉の兆しと言われていた日食が起こり、休戦→和解を果たし命拾いをしましたが、そのメディアがペルシアに滅ぼされると、万事休す。このリディアも紀元前546年にペルシアに滅ぼされる事となったのでありました。


 最後にエジプトについても少し述べておきましょう。
 エジプトについては、第10回から第12回までの3回でお話しましたので繰り返して詳述しませんが、紀元前8〜6世紀は、古代エジプト王国の中でも“末期王朝”と呼ばれる衰退期にあたりました。
 そのため、アッシリアが侵攻してきた時もその勢いに抗えず、一時期は下エジプトが征服される憂き目に遭ってしまいました。しかし、さすがのアッシリアも本拠から遠くはなれたエジプトの支配は楽でなかったらしく、その支配は永続せずに間もなく独立を回復しています。アッシリアが滅亡する寸前には同盟を結んでさえいました。
 アッシリアの滅亡後も、長年、独立だけは維持しつつオリエント4強の一角を占め続けたのですが、この国もまた、ペルシア帝国の餌食となって、紀元前525年には属州化されてしまうのです。


 ……と、ひどく駆け足でありましたが、アッシリア滅亡後に栄えた4つの王国の歴史についてお話をしました。
 いよいよ次回は古代オリエント史のフィナーレです。この4つの王国を猛烈な勢いで飲み込んでいった新興国・アケメネス朝ペルシア王国についてお話をします。それでは、また次回に。(次回へ続く) 

 


 

10月28日(月) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(17)
第2章:オリエント(11)〜
アッシリア帝国

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 前回までの数回は、バビロニア帝国滅亡後(紀元前16世紀以降)のメソポタミア文明地域の様子を地域ごとに分けて述べてゆきました。
 そして今回は、それらの地域史の中でたびたび登場した、アッシリアという国の歴史についてお話したいと思います。紀元前7世紀に、短期間ながらオリエントの完全統一を達成したという大帝国であります。

 このアッシリアは、メソポタミアの北の辺境・ティグリス川上流域にある都市・アッシュルを中心とする国で、その歴史は殊のほか深く、紀元前21世紀に建国されています。
 しかし紀元前21世紀と言えば、メソポタミアではウル第3王朝が全盛の時代。そのため、建国当時のアッシリアは、南にある強大な領域国家の様子を恐々窺いつつ、半ば属国のような立場で生き続ける弱小国でありました。
 ただ、アッシュルという都市は、メソポタミア、シリア・パレスティナ、アナトリア半島の主要都市との交易をするのに有利な地理条件にあったため、建国当初は商業で栄えたそうであります。特にアッシリア産の錫はアナトリア半島との交易で莫大な利益を生み、ヒッタイトがアナトリアで力を増してアッシリア人を追放するまでの数百年間、大量の銀を本国にもたらしたと記録に残っています。

 このようなアッシリアの“下積み”時代は約1000年にも及ぶのですが、その間にも時には優れた君主が現れて、存在感をアピールしています。
 その中でも特に興味深いエピソードが残されているのは、かのハンムラビ王の時代にバビロニア王国と丁丁発止の駆け引きを繰り広げたと言う傑物・シャムシ=アダド1世という王についてであります。
 ただ、この王様を有名にしているのは、政治や外交の表舞台での活躍よりも、本来なら目の届かないところでで発揮されていた、自分の息子に対する過保護と“教育パパ”振りでありました。

 中でも特に王の手を煩わせたのが、2人いた息子の内の次男坊、つまりは第2王子で、王からこの“馬鹿息子”に対する手紙が山のように発掘されています。
 例えば、いざ他国の王家から王女を后に迎えようとした時などは特に大変でありました。やれ「結納金は幾らが良い」という手紙を送ったり、かと思えば、すぐにその額の倍以上の支度金を王のポケットマネーから捻出するわ、挙句の果てには関係者への祝儀まで送り届けさせる始末
 で、その第2王子が結婚した後も全く成長の跡が窺えないと悟るや、次から次へと叱咤激励の手紙を送ってハッパをかけます。

 お前の兄は戦場に出て敵将を討ち取ったのだ。しかしお前は、日がな女たちに囲まれて収まりかえっているではないか。お前も勇気を出して戦場に出て“男”となれ。兄のように名声を得てみよ。

 しかし、兄と比較されてスネてしまったのか、この王子の行状は一向に良くならなりません。そこで王は更に手紙を書いてよこしたのでありました。

 お前はいつまで私が手を引いて歩かせねばならんのだ。お前はまだ子供か。一人前の男ではなかったのか。ヒゲも生えていない若造とでも言うのか。いつまでお前は仕事を怠けるつもりか。お前の兄が大群を率いて戦場に馳せ参じる様を見ているはずだ。お前はせめて宮殿や家事の管理ぐらいやってみろ。

 ……まるでテキストサイト管理人に送りつけられた中傷メールのような罵詈雑言の羅列であります。が、南方では着々とハンムラビ王による征服活動が進んでいるという当時の周辺事情を考えると、このシャムシ=アダド1世王の焦りも痛い程よく分かるものであります。
 そして結局、シャムシ=アダド1世が没した後のアッシリアは、瞬く間にハンムラビ王に攻められ、敢え無く属国化されてしまったのでありました。
 この後もアッシリアの苦難の歴史は続き、バビロニアが滅んだ後も、すぐさま強大化したミタンニ王国によって、やはり属国となる事を強いられてしまうのです。

 その流れがやや変わり始めるのは、紀元前14世紀半ばの事アッシュール=ウバリト1世という王は、この国をミタンニの属国から独立させ、国力増強と軍国化を開始します。ここから、後のアッシリアの強大な軍事力が培われる事になるのであります。
 ただし、かと言って、そう簡単に状況が一変したわけではありません。それからの約500年間は、戦勝によって領土を増やしたかと思えば、あっという間にその領土を失って後退する…という、一進一退の時代が続くのです。売れない演歌歌手の半生記を見ているかのような停滞振りですが、ここままアッシリアの歴史が終わらないのは、冒頭で述べた通りであります。

 紀元前9世紀、いよいよオリエント世界にアッシリア帝国の時代が到来したのでありました──

 後にオリエントの覇者となるアッシリアの、そのベースとなる部分を築き上げた王は、アッシュルナシルパル2世(在位:紀元前883〜859)“アッシリアの狼”という異名を与えられた、その石像に遺された鷲鼻で冷徹な表情が今なお見る者の恐怖をそそる専制君主であります。
 アッシュルナシルパル2世が行ったのは、強化・整備された軍隊による征服活動と、その占領地に対する徹底的な恐怖政治でありました。
 彼の手によって占領された国々の被征服民たちは、住み慣れた土地から引き離されて、この時期に建設されたばかりの新首都・カルフー(現在のイラクにあるニムルード)に強制移住させられました。故国への愛着を奪い、反抗のモチベーションを奪おうとする厳しい政策であります。これは、前回イスラエル王国の歴史を扱った時に採り上げた通りであります。
 更に厳しかったのが、反乱を起こした占領地やその首謀者達に対する処罰でした。女・子供に至るまで皆殺しにするのは当たり前。処刑された遺体の皮を剥ぎ、それを城壁に貼り付けていったり、人柱や首柱が築かれたり、生きたまま業火の中へ放り込む…といったような残虐な処刑が当たり前のように行われたようであります。幸運にして生かされた人々も、奴隷の身分に落とされたり、目や鼻や耳をくり抜かれたり削ぎ落とされたりしたのでありました。
 そして、この世界史上類を見ない激烈な占領政策は、これ以後、アッシリアに代々引き継がれていく伝統的な政策になってゆきました。

 その後は、ごく一時期内政が混乱した事もありましたが、アッシリアは紀元前8世紀以降、飛躍的な発展を遂げてゆく事になります。厳しい占領政策にも関わらず、各地での反乱は絶えませんでしたが、そのことごとくを力で捻じ伏せて、被征服民に付け入る隙を与えませんでした。
 そんなアッシリアがいよいよ絶頂を極めるのが、ティグラト=ピレセル3世(在位:紀元前744〜727)の治世で、この時代には、これまでの占領政策以外にも、大規模な行政改革軍制改革が実施されています。
 アッシリアは元々から複数宰相制官僚による行政組織綿密に組織化された軍隊を持つ、完成度の高い中央集権国家だったのですが、この時期になると、広がり過ぎた領土を効率良く治めるためにも諸々の改革が必要だったようであります。特に軍制改革では初めて異民族出身の兵士が採用され、この国のグローバル化が進んでいた事を窺わせてくれます。(もっとも、この軍隊の多国籍化は軍のまとまりを欠く原因となり、後のアッシリア衰退の一因となるのでありますが……)
 そして、この偉大な先王の“遺産”を引き継いだ子や孫たちは、バビロニアやイスラエル、更にはエジプトといった古代オリエント史を代表する強国らを次々と飲み込んでゆき、エサルハッドン王(在位:紀元前680〜669)の時代には、遂にオリエント世界の大半を統一する事に成功します(紀元前671年)。なお、その息子であり後継者であるアッシュール=バニパル王は、膨大な粘土板文書を納めた大図書館を建設した事で有名です。

 こうして栄華を極めたアッシリア大帝国でありましたが、その絶頂を深く味わう暇も無く、間もなくして衰退への道を辿ってゆくことになります
 衰退の理由は様々ありますが、まずは厳格な占領政策にも関わらず、国内各地で反乱が頻発した事が挙げられます。反逆者にどれだけ残虐な罰を与えようと、それは被制服民のアッシリアに対する敵愾心を煽るだけの意味しか持たなかったのであります。
 そしてそこへ新興勢力がメソポタミアに現れた事がアッシリアを更に窮地に追い込みました。折悪しく、王室の後継者争いが揉めていて国内が不一致状態であったのも大きく影響したようです。また、先ほど述べた軍制改革のもたらした統率力の減退もそれに拍車をかけました。
 日本の平家一門豊臣家の時もそうでしたが、どれだけ天下を極めようと、一旦ベクトルが衰退の方向へ向かい出すと、その転落のスピードは極めて速いものであります。アッシリアの場合は友好国や忠実な属国を確保する作業を完全に怠っていましたので、特にその傾向が強くなったようであります。
 そんなアッシリアの滅亡は紀元前609年。その3年前に首都ニネヴェ(カルフーから2度遷都されている)が陥落しており、事実上はそこでアッシリアは国家としての機能が破壊されています。アッシリアを倒したのは、バビロニアに建設されたカルデア王国と、イランから西へと進撃してきた新興国・メディア王国の連合軍であります。
 アッシリア帝国は、天下統一からわずか60年での滅亡となりました。1500年の歴史を持つ国としては余りにも呆気ない最期と言えるでしょう。

 アッシリアの滅亡後のオリエントは、先ほど挙げたカルデアとメディアを含めた4つの大国が割拠する“四国時代”に突入します。その時代のあらましについては、また次回に譲る事としましょう。次回へ続く

 


 

10月23日(水) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(16)
第2章:オリエント(10)〜
シリアとパレスティナ《続》

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 今回は、前回時間オーバーでお話しきれなかった古代イスラエル王国の歴史の続きをお送りします。

 
 紀元前930年頃、約30年の治世を終えて世を去ったソロモン王の後を子が継いでからは、イスラエル王国の政情は急速に安定を失って、わずか5年後には南北に分裂してしまいます。以後、北部をイスラエル王国、南部をユダ王国と呼びます。
 この分裂劇のそもそもの原因は、ソロモンの治世に課せられた重税に対する民衆の不満が爆発した事でありました。ソロモンの時代に耐えられた事が耐えられなくなったという事は、恐らく新王には人望が欠如していたようであります。ソロモンは政治的には凡庸ながらも人柄だけは優れていたようでありますが、子供には人柄さえも遺伝しなかったのでしょう。

 そんな分裂後のイスラエル・ユダ両王国は、政変が繰り返されて次々と王朝が交代したイスラエルと、ダヴィデの子孫によって比較的安定した政権が維持されたユダとで対照的な歴史を歩んで行きます。
 特にこの頃のイスラエルの混乱振りは目も当てられない程でありました。王室の内輪揉め、フェニキアから嫁いだ后が持ち込んだ宗教とパレスティナ土着の宗教との対立、軍隊による国王暗殺など、国家が傾くような出来事がのべつまくなしに発生している印象さえあります。酷い時には7日で滅んだ王朝もあったそうですから、現代のアフガンやカンボジアも真っ青といったところでありましょう。
 そして、そんな当時のメソポタミアは食うか食われるかの戦国の世。国内の統治すらままならないダメ国家がいつまでも存在出来るわけがありません紀元前722年、この頃ダムを突き破った大洪水のように猛烈な勢いで侵略戦争を繰り広げていたアッシリアが、遂にイスラエル王国をその毒牙にかけてしまいました
 このアッシリアは、征服した土地の民族の一部を本国へ強制移住を課し、替わりに本国からアッシリア人を植民させるという政策を採っていたため、イスラエルは国だけでなく民族丸ごと蹂躙されるという屈辱を味わう事になりました。
 実はこの時の強制移住と植民が、やがてキリスト教成立の際に深く関わる事になりますので、頭の片隅にでも置いていただけると幸いであります。

 さて一方のユダ王国は、イスラエル王国が滅亡し、更に南へと迫り来るアッシリアのプレッシャーを感じつつも、しばしの安泰を謳歌していました。
 が、紀元前7世紀終期にアッシリアが滅び、代わってエジプトやバビロニアに誕生したカルデア王国がユダ王国に激しく詰め寄ると、さしもの王国も急速に衰え始めます。それから間もなくしてダヴィデ王以来の首都・イェルサレムがカルデア軍によって陥落し、ユダ王国も遂に滅亡します(紀元前586年)。
 そして征服されたユダの人々(=ユダヤ人)は、140年前のイスラエル王国民と同じように強制移住させられ、遠く離れたバビロンで民族ごとでまとまった生活を強いられます。これが有名な“バビロン捕囚”と呼ばれるものであります。

 そんな屈辱の日々の中で、バビロンで暮らすユダヤ人の間で1つの宗教が確立されます。それがあのユダヤ教であります。
 既にご存知のように、ヘブライ人にはモーセの時代から土着の信仰のようなものが存在していました。そして紀元前7世紀後半のヨシュア王の時代に、ヤハウェという神を信じる一神教が確立されてもいたのですが、それがこの時期に、「神に救われるのはユダヤ人だけである」という“選民思想”などの重要な教義が加わったのであります。強制移住と敵地・バビロンでの集団生活という特殊なシチュエーションが、民族の団結心と屈辱感を呼び起こし、それが民族独自の宗教に対する信仰心を強める方向へ昇華したのでありましょう。
 そんな悲劇の民・ユダヤ人も、数十年後にカルデアを滅ぼしたペルシアの王によって帰国を許され、その頃にはすっかり浸透したユダヤ教と共に故郷へと戻って行きます。間もなくして首都・イェルサレムは再建されて、そこにユダヤ教の神殿も建てられました。
 その後、紀元前5世紀頃にはユダヤ教の教典・旧約聖書も編纂され、ユダヤ人とその宗教はますます栄える事になるのですが、この繁栄もまた永遠ではありませんでした。彼らのその後の苦難の歴史については、また別に語る機会がある事でしょう。

 …さて、今日は短めですがここまで。次回は、これまでも度々名前が挙がっています、古代オリエントを代表する軍事超大国・アッシリア帝国についてお話をしたいと思います。(次回へ続く

 


 

10月21日(月) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(15)
第2章:オリエント(9)〜
シリアとパレスティナ

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 前回はエジプトから舞台と時間を戻しまして、ハンムラビ王時代の後のメソポタミアについてお話をしましたが、今回はやや舞台を変えて、シリア、パレスティナ地方の大まかな地域史をお送りします。

 まず、この地方の古代史の担い手になった人々を紹介しますと、彼らはバビロニア王国を建てたアムル人と同じく、メソポタミアとアラビア砂漠の中間地帯からやって来たセム系の民族でありました。

 その中でも、アムル人に続くセム系民族の第2陣となったのがカナーン人と呼ばれる民族であり、更に彼らの内で、現在のレバノン周辺でいくつかの都市国家を建設した人々をまとめてフェニキア人と言います。
 彼らは紀元前2500年頃、つまりまだメソポタミアに領域国家が誕生していない頃からレバノンに住み着いていたようで、早い内から古代エジプト王朝と交流をしていたとの記録も残っています。どうやら隠れた“先進民族”だったようであります。

 フェニキアの人々は他の地域と異なり、最後まで統一国家を形成しませんでした。しかしそれでも、レバノンの各地それも海沿いに、シドン、ティルス、ウガリットなど多くの都市国家を建設し、大規模な海洋貿易や、イベリア半島や北アフリカ地方への植民活動で大きな実績を挙げていました。世界史上でもかなり早い時期に分類される海洋民族であります。
 そんな彼らが扱った貿易品目は多岐に渡り、当時は極めて貴重とされた染料や、高級木材であるレバノンスギが特に有名でありました。
 そして海洋貿易や植民活動を営む以上、フェニキア人は航海術も極めて発達していました。大変信じ難い話ですが、何とこの当時にアフリカ大陸を一周したという記録すら残っているのであります。
 …この“怪挙”に関しては紀元前5世紀の歴史家・ヘロドトスですら疑いを持っていたようです。が、その報告の中に、南半球では太陽が北中した…という、体験せねば絶対に思いつかないような貴重なレポートが記されており、皮肉な事にもこれが決め手となって、このアフリカ大陸一周は真実であると認定されています。
 それにしてもヴァスコ=ダ=ガマのインド航路開発から2000年以上前にこの偉業。古代人の才能の豊かさにはつくづく舌を巻いてしまいます。

 また、フェニキア人は独自の文字・フェニキア文字を持っていました。
 これは、古代エジプトの象形文字を簡素化したシナイ文字と呼ばれたものの改良バージョンで、22種類の文字からなるアルファベットの原型でありました。これに母音を追加されたものがギリシア文字となり、それが現行のアルファベット26文字へと発展してゆく事になります。つまり、現在使われている言語の多くはフェニキア文字をルーツとしているわけで、それを考えると我々はフェニキア人に足を向けて寝られないやら、「よくも受験勉強をヤヤコシくしてくれたな、この野郎!」とイチャモンをつけたいやら、複雑な心境に陥ってしまうものであります。

 フェニキアは統一国家を持っていませんでしたので、その歴史の終わりもかなり曖昧ではありますが、紀元前9世紀頃からアッシリア(この国に関しては次々回に述べます)の圧力を受けて衰退し、やがてペルシアなどの大国に吸収されてゆく事になります。しかし、この民族が建設した植民地はその後も繁栄を続け、これからも世界史に深く関わってくる事になります。


 さて、このフェニキア人の住んでいたエリアの東、現在のシリアがある地域には、同じくセム系のアラム人が都市国家群を形成していました。当時の都市国家で有名なものには、現在でもその名が残っているダマスクスなどが挙げられます。
 彼らもフェニキア人と同様に商業を盛んに行う民族でありましたが、内陸に住んでいた関係上、陸上貿易が中心だったようです。
 文字に関してもフェニキア人と同様に独自のアラム語アラム文字を持っていました。そしてこの言語は、陸上貿易の物産と共にメソポタミアからペルシア(イラン)方面へ広く流布し、紀元前6〜1世紀頃までこの地方の国際言語として大活躍しました。
 アラム人の都市国家は、これもやはりアッシリアの侵攻にさらされて、やがて滅亡の時を迎えますが、アラム民族はその後もメソポタミアの各地に散らばり、亡国の商業民族としてたくましく生き抜いていったようであります。何と言いますか、商売人の生命力の強さといったら、古代から現代まで変化が無いものでありますね。


 そしてこの時代・地方にまつわる歴史で一番最後に紹介するのが、パレスティナ地方に住んでいたヘブライ人──後のユダヤ人、現在のイスラエル人の祖先にあたる人々です。

 彼らのルーツもまた、セム系民族が原住地から北へと移動してきた人々なのですが、その構成はやや複雑になっています。
 まずベースとなるのは、フェニキア人と同系統のカナーン人です。実はカナーン人はレバノン(フェニキア)よりもこちらの方が“本場”で、長い間パレスティナ地方はそのものズバリ、“カナーン”と呼ばれていたようです。
 そしてそこへ、同じくセム系の民族の中でもエジプトに定住していた人々・ヘブライ族が、ある時期(紀元前1250年頃と推定)突然パレスティナへ逃れ、艱難辛苦の末に、当地のカナーン人と合流します。この出来事が旧約聖書で言うところの“出エジプト”、映画『十戒』でも有名な、預言者モーセに率いられた人々の逃避行の物語であります。

 このエピソードは非常に有名で、旧約聖書でも特に大きく扱われている出来事なのでありますが、歴史学の観点から見た場合、その実態は“非常に微妙”なモノであったと言わざるを得ません
 どうやら新王国エジプトの第18王朝(トトメス3世、アメンホテプ4世《アケナテン》、ツタンカーメンらの治世)から第19王朝(ラムセス2世らの治世)へ移行した際に、それまでエジプトに住んでいたヘブライ族への対応が非常に厳しいものとなり、その結果へブライ族がパレスティナへ移住をしたという事は確かなようです。
 しかし、モーセという人物の実在からして不明ですし、その“出エジプト”そのものの規模も、それほど大きなものではなかったのではないか…というのが妥当な“線”とのことであります。

 …と、何はともあれ、こうして2つの民族が合流して新しい民族が誕生しました。これがヘブライ人という事になります。
 ただし、当時のパレスティナにはヘブライ人の他にも色々な民族が存在していました。中でも、ヒッタイトを滅ぼした“海の民”の一派と思われるペリシテ人は、鉄の鋳造技術を身に付けていたこともあり、ヘブライ人にとっては宿敵でもあり、貴重な交易相手でもあったようです。
 余談ですが、さっきから頻繁に使用している“パレスティナ”という名称は、“ペリシテ人の土地”という意味であるそうです。それを考えると、全くペリシテ人と系統の違うアラブ民族が“パレスティナの解放”を求めているというのは、奇妙と言えば奇妙でありますね。ひょっとしたら“イスラエル(ヘブライ)に対抗する者”という意味で使用しているのかも分かりませんが……。

 こうして誕生したヘブライ人たちですが、始めの内は狭義の意味で言うところの国家を持たずに、士師という宗教指導者をリーダーとする緩やかな共同体だったようです。
 しかし紀元前11世紀後半、モーセの十戒を記した石板(とされるもの)を封印した“契約の箱”という神器をペリシテ人に強奪される事件(後に返却される)が発生し、この頃から民族全体を政治・軍事の両面から保護してくれるような王を待望する動きが高まります。指導者たちもこの動きを無視する事が出来ず、ほどなくして士師の推薦により王が擁立され、ヘブライ人による統一国家・イスラエル王国が成立します。(紀元前1020年)
 ところがこの時に擁立された王が“とんだ一杯食わせ者”。出来たばかりのイスラエルを私物化してしまったのでありました。
 と、ここで登場するのが、少なくとも名前だけは有名なダヴィデであります。伝承では牧人となっていますが、恐らくは有能な軍人で、大変な人気があったとされています。ダヴィデは始め、彼の人気を妬む王の魔手から逃れるために、ペリシテ人支配地へ亡命を強いられますが、やがて士師勢力を味方につけた上でクーデターを敢行イスラエル王国の2代目の王として君臨したのであります。

 ダヴィデは政治でも軍事でも有能な、まさに理想的な指導者で、結果的に彼の治世がイスラエル王国の全盛期に相当します。国内はまとまり、対外戦争により領土も拡大します。あのペリシテ人たちも、この頃にイスラエル王国へ吸収される事になります。また、後の聖地・イェルサレムが都に定められたのもこの頃です。 
 ただ、そんなダヴィデにも(悪い意味で)1つの醜聞が残っています。それは、とある軍人の妻に愛情を抱いてしまったダヴィデが、その軍人の上官に命じて、軍人を戦死が免れないような激しい戦闘に参加させて彼を死なせ、未亡人となった妻を自らのものとした…という話であります。伝承によると、この行為は神の怒りに触れ、やがて生まれた長子を神の力で死なせる羽目になった…ということであります。生々しい話ではありますが、どんな英雄も1人の人間である事を再確認させてくれる趣深いエピソードでもありますね。

 そのダヴィデは在位40年(紀元前1000〜960頃)で亡くなり、その後を次子・ソロモンが継ぎました。
 ソロモンは父・ダヴィデの遺産を引き継ぎ、まずまず無難な統治を行ったようであります。文献によると、戦車1400台、騎兵だけでも12000人と言う当時としては破格の軍事力を有していたとのことでありますから、当時の国力の豊かさが窺えます。
 しかし、だからといってソロモンが有能な王だったかと言えば、そうでもなかったようであります。極上の牛肉をソコソコ美味いステーキにすることくらい誰でも出来るのと同じで、彼は要するに親の遺産を食い潰しながら天寿を全うした幸せな人、という評価が妥当なようです。
 事実、ソロモンの没後、“遺産”を全て使い果たしたイスラエル王国の命運には俄かに暗雲がたちこめるようになってまいります

 ……予定の範囲までは進みませんでしたが、講義時間がオーバーしていますので今日はここまでとします。次回はイスラエル王国史の続きを述べます。(次回へ続く

 


 

10月16日(水) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(14)
第2章:オリエント(8)〜ヒッタイト、ミタンニ、カッシート

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 前回で一応、古代エジプトの歴史については一段落ということで、今回からは再びメソポタミア地方の歴史についてお話してゆきましょう。
 このメソポタミアの歴史については、紀元前1600年頃、古代バビロニア王国が滅びるところまでお話しています。(記憶が薄れている人は第7回、第8回の講義を復習して下さい)
 しかし今回はやや時計の針を戻しまして、そのバビロニアを滅ぼしたヒッタイト王国(某大河少女マンガで有名ですね)や、そのヒッタイトと同時代にメソポタミアで栄えたミタンニ王国、カッシート人の王朝の衰亡について、やや駆け足で追いかけてみようと思います。

 ヒッタイトの人々がメソポタミアの歴史の中に姿を現すのは、紀元前20世紀頃とされています。彼らはアナトリア半島(現在のトルコ共和国)一帯を領土にして王国を形成しましたが、元々その周辺に住んでいたわけではないようです。

 これは、彼らが使っていた楔形文字(ヒッタイト語)が、シュメール人やセム系民族の使った文法ではなく、インド=ヨーロッパ系──インド、イラン、スラヴ、ギリシア、ラテンなどの各民族──の文法に極めて近い事が決め手となりました。
 ちなみに、ヒッタイト語解読の足がかりとなったのは、「パンを食い、水を飲む」という意味の短文でした。この短文は『パン』の部分だけが既に解読済みのシュメール単語で書かれており、そこから「『パン』と来りゃあ、次は『食う』だろう。んで、パンを食ったらノドが渇くから『水を飲む』だったりして」……などと手前勝手な推測をしてみたところ、なんとその推測が大当たりで、そこからこの言語がインド=ヨーロッパ系の文法だと判明し、全てのヒッタイト語解読が進んでいった…などという凄い話が残っています。
 ただ、このヒッタイト語を解読したフロズニーという学者はその後、また大胆な決め打ちを仮説としてギリシアの古語の解読に挑みましたが今度は大失敗。晩節を汚したまま寂しく世を去ったそうであります。

 そんなヒッタイト人の故地について、詳しい事は分かっていません。しかし、インド=ヨーロッパ語を使う民族の発祥の地現在の中央アジア〜ロシア南部周辺ではないかとされており、遥か昔の先祖はそこに住んでいたのではないかと思われます。
 で、そうしてアナトリア半島に定住を決め込んだヒッタイト人ですが、民族全体による統一国家に成長するのは紀元前17世紀に入ってからでありました。彼らは、当時まだメソポタミアでは全く普及していなかった製鉄技術を持ち、その技術がもたらした鉄製武器は絶大な威力を誇りました。
 ヒッタイトは、国家誕生から間もなくして古代バビロニア王国を滅ぼすなど、その勢力を急激に高めました。ただ、何故かバビロニアを支配する事無く彼らは撤退してしまい、メソポタミア統一はなりませんでした。更にはその後、国内でクーデターが頻発したり、近隣に敵対勢力が現れるようになり、今度は急速に衰微。紀元前1400年頃には一時滅亡同然の状態に陥ります。
 が、シュピルリウマ1世という国王の時代(紀元前1370〜36頃)にヒッタイトは息を吹き返します。彼は巧みな外交戦略を得意とし、後にお話するミタンニ王国との戦争でも、周辺国をまとめて同盟国にして戦いを有利に進めて勝利。ミタンニを事実上滅亡に追い込み、ヒッタイトはメソポタミア地方でも有数の強大国となります。
 そしてそれから後はエジプトとの関わりが深まりますかのラメス2世との間で争われたカデシュの戦いがありましたが、終戦後は平和外交がなされていたようであります。(ここでエジプト新王国時代と、この時代のメソポタミアがリンクする事を把握して下さい)

 …と、このように繁栄の時を謳歌していたヒッタイトですが、その最期は非常に呆気ないものでした。
 紀元前1200年頃、ギリシア地方ではドーリア人という北方民族の侵入があり、そのアオリを受けてギリシアから弾き出された諸民族“海の民”と呼ばれる)がオリエント地方へ一気に来襲したのであります。
 突然の異民族の来襲に対し、エジプトではこれを何とか食い止めることに成功しましたが、アナトリア半島のヒッタイトは為す術無く、津波のような民族移動に飲み込まれてしまったのでありました。ヒッタイトは忽然とメソポタミアから姿を消し、その歴史もそこで途絶えるのです。

 
 次にミタンニ王国についてお話しましょう。
 ミタンニ王国を構成していたのは、主にフルリ(フリ)という、セム系でもインド=ヨーロッパ系でもない系統不明の民族でありました。(参考書ではインド=ヨーロッパ系とされている場合がありますが、これは古い誤った学説であります)
 フルリ人は、ウル第3王朝の頃(紀元前2114〜2004年)からメソポタミア各地に散らばっていましたが、その内のメソポタミア北部に住んでいた人々がまとまり、紀元前1500年頃にその地に建国されたものがミタンニ王国だと思われます。
 ミタンニ王国については、その首都・ワシュガニの遺跡が未だ発見されていないために、その姿は隣国ヒッタイトや、王室同士で姻戚関係のあった新王国エジプトの文献資料から類推するしかなく、まだ謎の部分が多く残されています
 少ない史料の中から判明している歴史的事実を辿っていくと、彼らは戦車(馬車)を用いた戦法で紀元前1400年頃に全盛期を迎えたものの、その技術が他国に流出した事が命取りとなり、やがてヒッタイトによって滅亡に等しい大打撃を受けたという事が分かっています。

 
 そして最後に、バビロニアを中心としたメソポタミア南部を支配したカッシート人についてですが、これはミタンニ王国以上に詳しい事が判っていません。カッシート人が初めて文献に登場するのは、まだバビロニア王国が健在な紀元前1740年頃で、この時はバビロニアを攻撃するも、見事に撃退されています
 あとは、後の時代に残されたバビロニアの王名表から年代を類推してみますと、ヒッタイトが古代バビロニア王国を滅ぼして撤退した直後、紀元前1595年から約440年もの間、カッシート人はバビロニア王国の支配者としてその名を歴史に刻んでいます。新王国時代のエジプトとの国交もあったようですが、どちらかというと受動的な立場を強いられていた節もあります。元々が粗野な民族だったせいか、その辺の駆け引きはどうも上手くなかったようであります。
 最終的に彼らをバビロニアから駆逐したのは、遥か昔、ウル第3王朝の滅亡の一因ともなったエラム人でした。そしてそのエラム人も間もなくしてメソポタミア南部の現地勢力に一掃され、ようやくバビロニアはメソポタミアの人々の手に戻ります

 ……以上が、主に紀元前16世紀〜12世紀までのアナトリア半島〜メソポタミアの歴史でした。この後のメソポタミア地方は、建国から1000年以上の時を経て強大化したアッシリア帝国によって席捲される事になるのですが、これはまた後のお話です。
 次回は、これまであまり目を向けてこなかった、シリア、パレスティナ地方の諸国家・諸民族についてお話をしたいと思います。段々ややこしくなって来ますが、出来る事なら、各自で参考書を当たるなりして、混乱する事の無いようにして下さい。(次回へ続く

 


 

10月14日(月) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(13)
第2章:オリエント(7)〜
古代エジプト
文化

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 さて、前回までで漸く古代エジプトの大まかな歴史を概説し終わりました。今回は短めに古代エジプトの文化について述べまして、この章におけるエジプトに関しては、これで一応の締めとしたいと思います。

 ではまず、古代エジプト社会と切っても切り離せない関係である宗教からお話してゆきましょう。

 前回の講義でも触れましたが、エジプトの宗教は典型的な多神教であります。まずは天地創造の神・アトゥムがいて、彼が大気の神・シューと湿気の女神・テフヌトを産み、更に彼らが大地の神・ゲブと天空の女神・ヌトを産んで……というようにたくさんの神々が生まれ、そこからギリシア神話のような役職別の神や、各都市の守護神などへと繋がる形になっています。
 そんな神々にはそれぞれの神にまつわる神話が作られ、文献として残されています。その中には、仕事のテリトリーを巡って神同士がギャンブルをし、しかもそれがイカサマで決着するという阿佐田哲也顔負けの香ばしい話もあり、その事実がまた、この時代の人々がギャンブルを愛好していたことを証明する格好の資料になっています。(事実、古代エジプトの遺跡からは、世界最古クラスのギャンブル道具が発掘されています)
 多くの神々の中でも、特に古代エジプト史に密接に関わる重要な神と言えば、やはり太陽の神・ラーと、大都市テーベの守護神・アメン(アモン)という事になります。これら2つの神が、ファラオの権威付けに利用された事は前回の講義でお話した通りであります。ちなみに、あのアケテナンが“創設”したアテン(アトン)一神教がありますが、これは一連の神話とは“別枠”でありました。

 あと、古代エジプトの文化に関わる神として忘れてはいけないのは、冥界の神・オシリスであります。
 この時代のエジプトには冥界、つまりは死後の世界の存在と人の魂の不死を信じる思想があり、それがミイラを作るという発想に繋がってゆきました。肉体を壊す事無くミイラを作っておくと死者の魂がそのミイラに舞い戻り、そこで弔いの儀式を受ける事で、その魂はオシリスの神となって永遠の不死を得る…という理屈だったようです。
 ただ、不死の魂はもれなく神になるという事もあり、ミイラ作りは元々はファラオの一族にのみ許された行為でありました。下々の者は神になるなど畏れ多いというわけであります。
 しかしこれも時代が経つにつれ制約は緩まり、まずは貴族に、そして新王国時代には一般市民にもミイラ作りが解禁されます。この頃には猫のミイラも作られたといいますから、文字通り猫も杓子もミイラ作りというわけであります。

 余談ですが、当時のミイラ作りについて、「エジプトはナイルの賜物」の名言で有名な歴史家・ヘロドトスが、詳細なレポートを残しています。
 何でも、当時のミイラ作り専門の業者が存在し、その作り方も予算別に3つの段階、つまりは松竹梅があったそうであります。金さえ積めば、体の形を維持したまま丁寧に内臓を取り除いて立派なミイラを作ってくれますが、最低の予算だと適当に脱水処理だけされて突き返されたそうです。正に地獄の沙汰も…という話であります。

 こうして人々は漏れなく不死の魂となる事が可能になったわけですが、一般市民にミイラが解放された頃から“冥界裁判”の思想が生まれます。どうやら「余りにも冥界に人が殺到するので、入口で数を間引いているに違いない」…という極めて現実的な発想が宗教の一思想に発展したようであります。
 しかし、せっかくミイラまで作って盛大に弔ったのに、冥界入口で間引かれてはたまったものではありませんので、人々は冥界裁判の指南書のようなものを作って、棺に入れたそうであります。この指南書に死者の安寧を祈る文を併せた物が“死者の書”であります。これは、かつてはピラミッドや、貴族のミイラを納めた棺に掘り込まれた祈祷文が原型になっていて、特にピラミッドの壁に刻まれた文章を“ピラミッドテキスト”と言います。

 
 ……さて、宗教の話はこれくらいにしまして、他の文化についても駆け足でお話してゆきましょう。

 これも以前の講義で述べましたが、この時代にはピラミッドスフィンクス、更には神殿などの巨大建造物が建てられました。この建造物の設計のために、測地術幾何学も発展したようです。
 は、現在のものに近い1年365日の太陽暦が使用されていました。これは別に天文学から来たわけではなく、ナイル川の氾濫がおよそ365日周期だったところから来たようです。ただ、うるう年の発想が無かったため、本来の太陽暦とはややズレが見られたようでありますが。
 文字はいわゆる象形文字から出発し、その形が簡略化されて行く中で独特の文字が生まれました。その文字は時代を経るに従っていくつかのパターンが生まれています。簡略化の進んでいないモノから順に、神聖文字(ヒエログリフ)神官文字(ヒエラティック)民衆文字(デモティック)です。元々の文字は神が与え賜うた物という発想があり、複雑なものほどグレードが高かったようです。
 この文字は長らく解読が不可能とされていたのですが、ナポレオンがエジプトに遠征した際に発見されたロゼッタストーン言語学者シャンポリオンが解読した結果、今ではエジプト文字は完全に解読が出来ています。ロゼッタストーンには神聖文字、民衆文字、そして先に解読されていた古代ギリシア文字の3種類の文字で同一の文章が記されておりギリシア文字からの対訳をする事で解読がなされたものでありました。
 そしてエジプトの文字と切っても切り離せない関係にあるのが、パピルスという草であります。
 パピルスはカヤツリグサ科の植物で、太さ3〜4cmの茎が1.5〜2mほど伸びた先に、細長い葉が茎の中心から巨大なマリモのような感じで生えています。この茎の皮を剥いで繊維状の短冊にした物を、石の台上に重ね合わせてハンマーなどで叩いてペシャンコにし、更にそれを乾燥させますと立派な紙の代用品が出来上がります。エジプトの文字は、この加工パピルス紙に顔料などで記されたものでした。
 このパピルスは丈夫で扱いやすいため、様々な用途に用いられたようです。時にはパピルスで小型船まで作っていたと言いますから、まさに万能植物でありました。エジプトはナイルの賜物。そしてエジプト文化はパピルスの賜物でありました。

 ……と、途中から酷く駆け足になりましたが、古代エジプトの文化はこれ位にしておきましょう。次回は再びメソポタミア文明に立ち戻り、群雄割拠の歴史を追いかけてゆくことにしたいと思います。(次回へ続く

 


 

10月11日(金) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(12)
第2章:オリエント(6)〜
古代エジプト王朝の変遷《続々》

 ※過去の講義のレジュメはこちら
第1回第2回第3回第4回(以上第1章)/第5回第6回(以上インターミッション1)/第7回第8回第9回第10回第11回

 おことわり:講義中に付記する年号が、参考書や「世界史B用語集」に記されているものと異なる場合がありますが、これは別の資料を参考にして講義を行っているためです。
 歴史を把握するにあたり、この時代の年号はさほど重要ではありませんので、あくまで参考として把握して頂くようお願い申し上げます(駒木ハヤト)


 では、今回も古代エジプト王朝の変遷を追いかけてゆきたいと思います。

 さて、前回の講義でお話したように、異民族ヒクソスの侵入、そして約100年にも及ぶ支配を受けるという屈辱を味わったエジプト人ですが、実はこの経験は、彼らにとって大きな転機となったのでありました。

 といいますのも、被制服民となった屈辱感はその人々に色々な感情を呼び起こしますが、エジプト人の場合、これは幸いな事にナショナリズム的な愛国心・闘争心に昇華されたのであります。
 再び独立を勝ち取るために軍隊は増強され、また、ヒクソスがエジプトに持ち込んだ、戦車(馬で台車を引っ張る形のもの)や西アジアの新型兵器の技術も非常にプラスになりました。
 そして独立戦争と戦勝であります。これは実戦経験や溢れんばかりの自信と鉄壁のプライドという、決して金銀財宝では手に入れられない、それでいて非常に貴重なモノをもたらします。

 いつの間にか、恐らくは当事者たちも知らない間に、エジプトはオリエント最強クラスの軍事国家に成長していたのです。それは“黄金時代”と言って差し支えない輝かしい時代の始まりでありました。

 ヒクソスを撃退した(紀元前1552年ごろ)後、即ち第18王朝以降の古代エジプトを新王国時代と言いますが、この時代にほぼ共通したスタンスは、“最大の防御は攻撃なり”であります。
 決して積極的に侵略を仕掛けるわけではありませんが、敵対勢力が現れた場合は、相手の攻撃を待たずして先手、先手で攻めてゆきます。芽は出るなり摘み、杭は出過ぎる前に打つ。まさに機を見るにつけ敏でありました。時には東のメソポタミア地方へ、そしてまた時には南のヌビア(現在のスーダン、エチオピア方面)へと領土や勢力範囲を広げてゆきました。

 この機動的な対外戦略が可能になったのは、先に述べた強力な軍隊を持っているだけでなく、エジプト国内でのファラオの地位が堅固であったという事も大きかったようです。
 この新王国時代のファラオが中王国以前のそれと違うところは、従来の王としての権威に加え、“常勝将軍”というカリスマ的なステータスも手に入れていたことだと思われます。実は世の中、王の代わりはいくらでも作れるのでありますが、常勝将軍の代わりは作れないものであります。代わりが作れない以上は、部下たちは、その君主の下で精一杯の権力争いをする他なくなるのです。
 こうなれば、いくら官僚制社会が発達しようとも、遠征のためにファラオが首都テーベから離れようとも、王権は安泰です。宰相以下、王の側近や官僚たちは単なる王の下僕としての務めを粛々と果たすのみでありました。

 この新王国時代エジプトが1回目のピークを迎えたのは、第18王朝の第5代ファラオ・トトメス3世(在位:紀元前1490〜36頃)の時代でした。
 彼は幼少の時期こそ、共治王の母親に実権を握られていたものの、次第に自分に近しい人間を要職に引き込み、やがて女王の退位と共に親政を開始します。

 この若きファラオは、まず第一に優れた将軍でありました。シリア・パレスティナ地方へと兵を送り、これを次々と占領・植民地化してゆきます。それまでこの地方を勢力化に置いていたメソポタミア地方の強国たちも、時には黄金の戦車に乗って先陣を切って戦ったと言われるこのファラオの前には、一様に沈黙せざるを得ませんでした。
 結局、このトトメス3世の治世における遠征は17回にも及び、占領地域の支配は遂に磐石のものとなります

 ところで、この頃の文献には、当時のエジプト進出を裏付ける、少し面白いエピソードが残っています。
 エジプト軍がメソポタミアの大河・ユーフラテス川に到達した時の事です。エジプトの兵士は、その川の姿を見て仰天してしまいました。
 「か、川が逆流している!」
 ユーフラテス川はナイル川と逆に、北から南へと流れてゆく川です。それまでナイル川以外の川を知らなかったエジプト人にとって、その光景は信じられないものでありました。恐らく当時のエジプト兵は、初めて黒船を見た日本人、もしくは自分の恋人が実はニューハーフだった事を知らされた男のような衝撃を喰らったことでありましょう。

 話を戻します。この“常勝将軍”トトメス3世の第二の姿は、優れた政治家としての知性派ファラオとしてのそれでありました。
 大きく広がった領地に、それぞれ行政組織を敷き、植民地にまで官僚制を徹底させます。また、占領地の元支配者の子息(つまりは王子)を人質としてエジプトに連行し、そこでエジプト流帝王学を学ばせて、成長の折には故郷に返して総督に赴任させるという洒落た事までやってのけたようです。

 こうして、有形・無形様々なものを残して、トトメス3世はこの世を去ります。その後、散発的に支配地域で反乱が発生しますが、ほとんどの場合、それらは難なく鎮圧されました。それくらいトトメス3世が残したエジプト“帝国”の組織が頑丈だったのです。これが、後の世の歴史家たちが、彼を“古代エジプトのナポレオン”と称する由縁でもあります。いや、ひょっとしたら彼はナポレオンをも超える才能の持ち主だったかも分かりません。

 しかし、この世には全てにおいて完璧なものなど存在しないのも事実であります。そしてこの時の強固な王朝も、思わぬところから足元を掬われてしまいます。そのポイントは宗教にありました。 

 他の地方の古代王朝がそうであるように、古代のエジプトでも宗教は支配者と密接な関係を持っていました
 エジプトでは、例えば日本の邪馬台国のような神権政治──神のお告げを聞く神官が“神の意思”に従って政治を行う政治──は発達していませんでしたが、それでも“ファラオとは神の子である”という思想が完成されており、神を祀る事は立派な国家事業となっていたのです。
 ちなみに、今お話している新王国時代の宗教は、“アメン=ラー”信仰という、元々はテーベの守護神だったアメン(アモンとも言う)と、太陽神ラーが融合した神を奉るものでありました。そして“ファラオ=神の子”という公式に従いますと、アメン=ラー神は絶対的君主であるファラオ以上の存在でありますから、その祀られ方も自ずとグレードが上がってゆきます。
 この時代には、かつてのピラミッドに代わって神を祀るための大規模で豪華な神殿が建築され、ましてやその神殿を司る高位の神官ともなれば、その権力たるや行政面でファラオを支える宰相を遥かに凌ぐものとなります。
 いつしか神官勢力は、隙あらば国政をコントロールしかねない厄介な存在となっていたのです。

 しかしこの状況を、当のファラオが見過ごすわけがありません。歴代の政権では、神官人事を巡るファラオ派と反ファラオ派のせめぎ合いが絶えず起こり、遂には強硬な手段に打って出るファラオが現れました
 そのファラオ・第18王朝の10代目であるアメンホテプ4世(在位:紀元前1364〜47頃)神官勢力を退けるために実施した諸政策は、今では一括して“アマルナ革命”と呼ばれています。国家の最高権力者が行う“革命”とはおかしな話でありますが、しかし彼が強行したものは、確かに“革命”と呼ばれるに相応しいものでありました。

 このアメンホテプ4世が行った事績は、大雑把に言って2つに集約されます。

 まず1つ目新宗教・太陽神アテン信仰の創始であります。なんと、ファラオ権力と密接に繋がる宗教を自ら立ち上げてしまったというわけです。アメン=ラー神の力を弱めるのではなく、更に強い力を持つ宗教を作る事で、結果的にアメン=ラー神官の権力を弱めようとしたのです。コロンブスやコペルニクスが卒倒しそうな発想の転換であります。
 そして2つ目の政策首都テーベからの遷都でした。アメンホテプ4世は、テーベから150km程離れた所に新都・テル=エル=アマルナを建設します。神殿の遠くに首都機能を移転して、アメン=ラー神官たちの発言力を削ごうと言うのがその狙いでありました。支配者が、その権力を強めるために遷都を行う事は度々見受けられますが、それでもやはり大変なエネルギーを要する仕事でありましょう。

 これだけでも分かりますように、アメンホテプ4世の“アマルナ革命”は徹底的なものでありました。
 それは、新しい神・アテンの神殿に飾られた彫像や絵画にも見てとれます。この神殿には、これまでの神殿美術とは全く趣を異とするセンスの作品が飾られ、嫌が応にも“脱・アメン=ラー”を人々の心に植え付けたのでありました。
 このような、アテン信仰にちなんだ彫刻や絵画などの美術的作品“アマルナ美術”と呼ばれ、他の時代の美術と別物として分類されています。それほど独特だったわけです。
 また、アメンホテプ4世は、新宗教立ち上げと遷都にあたり、自身の名前をアメンホテプ(「アメン神は満足し給う」の意)からアケナテン(アクエンアテン、イクナートンとも呼ぶ。「アテン神にとって有用な者」)に改名する事までやってのけます。これは正にアメン=ラー神との完全な決別の意思表明であり、テーベに残された神官勢力に対する宣戦布告でありました。事実、この後アケナテンはアテン神を唯一の神に据えて、アメン=ラー神を含む他の神を抹殺しようとまで考えたようです。

 この“革命”は、彼の17年間に及ぶ治世を通じて実行に移されました。しかし、言い方を変えれば、“アマルナ革命”は、彼の17年間の治世を最後に途絶えてしまいます。“革命”は失敗でした

 失敗の理由はいくつか有ります
 中でも大きかったのは、他の神を否定する一神教であるアテン信仰が、エジプトの人々に馴染まなかった事でしょう。今風に言えば、アケナテン政権の支持率が低迷してしまったわけです。
 また、アケナテン王の側近たちの能力の低さも“革命”の足を引っ張る原因となりました。このファラオの側近になろうとする取り巻きは、“革命”のドサクサに紛れて権力のオコボレを頂こうとする連中ばかりだったのです。

 このようにして、アマルナ革命政権はアケナテンの死後間もなくしてガタガタになってしまいました。元々この“革命”は、極度のワンマンタイプであったアケナテンだからこそ出来た事でもあり、彼の死後までこれを維持する事は不可能だったのです。
 しかも、アケナテンの後を継いだのは、わずか9歳の幼王ツタンカーテン。どう考えても彼にこの混乱を収拾する能力がない事は明らかでありました。
 ファラオの側近たちは、ここで断腸の思いの中、一つの決断を下します。それは神官勢力と妥協をしてアメン=ラー信仰を復活させる代わりに、ファラオの権力を高いレヴェルで維持する事でありました。 

 出来たばかりの都・テル=エル=アマルナは廃され、首都は古都・メンフィスへと再び移されました。また、「アテンの生きた似姿」という意味の名の幼王・ツタンカーテンは、皆さんにも馴染みの深いツタンカーメン(「アメンの生きた似姿」)という名に改名させられます
 そしてこのツタンカーメンは、18歳でこの世を去ります。ファラオの権力が強い新王国時代を通じて、最も力の弱かったファラオであることは間違いありません。それ故に、彼は墓らしい墓すら作ってもらえず、死後の世界にまで不遇をかこつ事になりました。そして、我々現代人が彼の“墓”を完全な形で発掘する事が出来たのは、正にそれ故でした。盗掘者たちは、「まさか、こんな所に王の墓などあるまい」と考えたのであります。
 無名で無力な幼きファラオが、無名で無力だったがために、数千年後の世界で最も有名なファラオになる。何とも後味の悪い皮肉であります。

 余談でありますが、このツタンカーメンの墓の発見と発掘に際して、関係者やその近親者が20人以上も急死したために、「発掘者は“ファラオの呪い”に殺されたのだ」…などという噂話が囁かれたりしました。
 しかし、考古学や歴史学の関係者で、この“呪い”を信じる人はいません。何故なら、このツタンカーメン王墓の発掘に最も力を注いでいたカーター氏他、多くの人物が天寿を全うしたからであります。
 夢(?)の無い話ではありますが、現実とはそういうものであります。そして、その厳しい現実の中から嘘のような本当の話を引き出すのが、歴史学の醍醐味とも言えるのであります。
 
 ……さて、メンフィスで再スタートを切ったファラオ政権でしたが、課題は8月31日の小学生のように山積みでありました。西アジアの植民地がメソポタミア各国によって脅やかされていたのです。下手をすれば、決壊したダムの如く、メソポタミア国家の軍団がエジプトを襲う事もあり得たのです。
 しかし、ここからエジプトは見事に立ち直ります。ツタンカーメンの死から約30年経った紀元前1304年頃から始まった第19王朝になってからは、強いファラオが対外戦争を繰り返すという、新王国時代の理想的なファラオの姿が復活します。

 特筆すべきなのがこの王朝の第3代ファラオ・ラメス(ラムセス)2世の治世(紀元前1290〜24年頃)で、この時、エジプトは新王国時代の2度目のピークと言うべき繁栄を迎えたのでありました。
 そして、このラメス2世の治世のトピックと言えるのが、シリア地方の植民地を巡って、メソポタミアの強国であるヒッタイトと争われた“カデシュの戦い”であります。
 この戦いは、ヒッタイト側によるスパイを使った錯乱作戦や、それによって苦境に陥ったラメス2世が果敢にも自ら先頭に立って脱出を果たしたエピソードなど、古代文明戦史の中でも指折りの“名勝負”といえるものでありました。(結果は引き分け)

 しかし、せっかく訪れたこのピークも、長くは続きません。いくら優れた君主が現れようとも、既にエジプトは国全体が病んでしまっていたのです。いや、老衰していたと言うべきでありましょうか。
 ラメス2世が身罷ってから間もなくして、エジプトの衰退を象徴する出来事が起こります。世界史上初のストライキでありました。王墓建築にあたっていた作業員たちが給料の遅配に業を煮やして、作業をボイコットしたのです。原因宰相を筆頭とする官僚たちの汚職だったといいますから、処置ナシです。エジプト王朝は、中身から腐り始めていたというわけでありました。
 それから腐敗はファラオ権力の衰退にまで及び、紀元前1070年頃から始まる第21王朝からは、末期王朝時代という文字通りの末期的な時代を迎えます。紀元前950年頃には西隣の国・リビアに王朝を乗っ取られ、以後はアフリカ、メソポタミア諸国家による征服王朝の合間に、細々とエジプト人王朝が成立するような有様となったのでありました。
 そして紀元前341年ペルシア王・アルタクセルクセス3世による占領(=第31王朝の成立)を最後に、エジプト人によるエジプトという国は長い長い中断と相成りますエジプトが再び独立を果たすのは、それから約2300年後の1952年を待たなくてはなりません。

 ……以上で古代エジプト王朝の変遷についての話を終わります。次回は古代エジプトの文化についてお話する事にしましょう。(次回へ続く

 


 

10月9日(水) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(11)
第2章:オリエント(5)〜
古代エジプト王朝の変遷《続》

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第1回第2回第3回第4回(以上第1章)/第5回第6回(以上インターミッション1)/第7回第8回第9回第10回

 今回も前回に引き続き、古代エジプト王朝の歴史について、述べてゆきましょう。前回は古王国時代の終焉まで見届けましたので、今日はその続きから始めます。

 古王国時代における最後の王朝・第6王朝が崩壊した後のエジプトは、一転して群雄割拠の状態に置かれます。古代のエジプトは、元々からして地方分権の傾向が強かったため、ファラオの力が衰えると、たちまち“先祖返り”が起こってしまうというわけです。
 特に社会の混乱を来たしたのが首都・メンフィス周辺でした。マンガ『北斗の拳』真っ青の無秩序状態に異常気象が加わり、深刻な食糧不足となって、たちまち都は壊滅状態となりました。長年栄華を誇ったメンフィスも、これをきっかけに一度古代エジプト史の舞台からフェード・アウトしてゆきます。

 ちなみに、この時期にも一応ファラオは存在していたのですが、多分に名目的な存在であり、実権はほとんど無かったと思われます。つまりは、エジプトという“箱”と、ファラオという“看板”はありますが、中はグチャグチャの状態と言うわけであります。
 今後も歴史を語る上で重要な事なので今述べておきますが、この時のエジプトのように、1つの国に1人の君主がいるからといって、それが必ずしも安定した1つの国ではない…というケースは結構多いものであります。身近な例を挙げれば、戦国時代の日本などもその典型例と言えるでありましょう。
 このように、一見立派な国が実はハリボテ同然で、事実上は多くの小国が分立しているだけ…という話は、これからの歴史でも多々見受けられますので、よく記憶しておいて下さい。「え? この時代のこの国って、そんな状態だったの?」…などと驚かれる事もあることでしょう。

 ……さて、このような極度の混乱期(第7、8王朝時代)が10数年続いた後、今度は上エジプトに2つの王朝が立つ、“南北朝時代”が90年ほど続きます。(第9、10王朝と第11王朝)
 その中で、上エジプトのテーベを都とする第11王朝が次第に力を伸ばし、紀元前2040年頃には“南北朝”を統一。約100年の混乱期にピリオドを打ちました。ここから中王国時代の始まりとし、それまでの混乱期を“第一中間期”と呼ぶのが通例です。

 中王国時代のエジプトは首都をテーベに置き、歴代のファラオたちは古王国時代のような中央集権国家を再び建設すべく、内政・外征に力を尽くします。しかし、中間期に権力の旨味を知ってしまった地方の実力者たちの抵抗は厳しく、暗殺の憂き目に遭ったファラオもいたようであります。
 それでも、時が経つにつれてファラオの権力は強まってゆきます。それを証拠に、この時代にも、大きさ・完成度共にかつてより見劣りする物ながら、多くのピラミッドが建設されています。ただ、古王国時代前半のように強大な権力を持つまでには至りませんでした。これは、古王国時代は死後の世界で神となる資格を持つのはファラオだけだったのに対し、中王国期にはそれが他の有力者にも“解放”されている事からもよく分かるところであります。

 しかし、中王国・エジプトの盛期は短いものとなってしまいました。紀元前19世紀に入り、以前のような官僚制中央集権国家が成立したまでは良かったのですが、無能なファラオが後継者となった際に、権力を宰相などの官僚に牛耳られるというパターンまで再現されてしまったのです。
 結局、紀元前18世紀に入って間もなく、再びエジプトは混乱期に入ります。中王国時代(第11〜12王朝)が終わり、第二中間期と呼ばれる時代に突入します。

 これから250年弱続く第二中間期は、エジプト統一王朝の誕生以来1300年余りにして、初の異民族王朝が成立した時代であり、エジプト人にとっては屈辱にまみれた時代でもあります。
 この時代の“客演主役”となった民族ヒクソスといい、現在のヨルダン辺りに住んでいた人々が、エジプトの混乱に乗じて侵入したものです。彼らは、初めは傭兵などとしてエジプト社会の内部に入り込み、やがて紀元前1650年頃、エジプト人王朝の衰退を見てクーデターを起こし、最後には下エジプトを拠点として国全体を乗っ取ってしまいましたプロレスで言えば、チャンピオンベルトが他団体のレスラーに奪われるようなものであります。
 こうしてヒクソスは、古代エジプト王朝史の第15、16王朝に名を残すことになります。ただし、彼らのエジプト支配は、それほど強力な中央集権が完成できたわけではなく、後の世の封建制度のように、地方のエジプト人有力者に土地を与えて自治させ、ファラオはその有力者に睨みを効かせる程度に留まったようです。それでも、ヒクソスのファラオは元々が傭兵の大親分がみたいなものですから、なかなかその“睨み”は眼光鋭いものであったようでありますが……。

 被支配民族になる屈辱を受けたエジプト人が立ち上がるのは紀元前1570〜50年頃で、旧都テーベに成立していたエジプト人の地方政権(第17王朝)が、エジプト解放を旗印に独立戦争を開始。次第にヒクソスを圧倒して、最後はパレスティナにまで遠征して、これを滅亡にまで追い込みます
 これは先のプロレスの喩えで言うなら、ベルトを取り返すだけではなく、団体そのものまで潰してしまうといったところでありましょうか。まぁ何はともあれ、こうして初めてエジプト人を脅かしたアジアの異民族は歴史上から消え去り、再びエジプト人によるエジプト社会が復活することになりました

 これ以後のエジプトは新王国時代という事になります。この時代は、古代エジプト史の中で最も語るべき部分の多いところでもありますので、これは次回に多めに時間を取ってじっくりお話したいと思います。では、また次回に…(次回へ続く) 

 


 

10月7日(月) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(10)
第2章:オリエント(4)〜
古代エジプト王朝の変遷

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 →第1回第2回第3回第4回(以上第1章)/第5回第6回(以上インターミッション1)/第7回第8回第9回


 前回から古代エジプト文明の歴史に突入していますが、今日はその2回目。エジプト統一王朝について、時系列に沿ってお話してゆきたいと思います。

 さて、この少し前にお話したメソポタミアの歴史では、「攻め易くて守り難い地形ゆえに、侵略と王朝交代が多い」…というのが特徴でした。
 しかしエジプトはその逆であります。周囲が砂漠で強い力を持つ外敵が少ない上に、エジプト全体が要害の地であるため、他民族の侵入はあまりありませんでした。古代エジプトは33の王朝が成立しましたが、そのほとんどはエジプト国内での政権交代であります。よって、これからお話する歴史の中で特に述べる事が無ければ、王朝交代といっても、エジプト国内での比較的平穏な王朝交代であると認識して頂きたいと思います。

 そんなエジプトに、部族国家を統合した統一王朝が初めて誕生したのは紀元前3100〜3000年頃。上エジプトの北辺にあるテュニスという都市を首都にしたのでテュニス朝とも呼ばれます。
 この王朝を創り上げた初代の大王──いわゆるファラオと呼ばれる──は、当時の化粧版に残された文字からナルメルという名だったと言われています。「世界史B用語集」や教科書には、初代の王としてメネスという名前が載っていますが、これは紀元前3世紀の文献に記載されている伝説上の名前。実際には、恐らくナルメルかその次代のファラオであるアハと同一人物ではないか…とされています。
 このナルメルが開いた第1王朝と、その後の第2王朝までの400年弱を初期王朝時代と言います。この間には、ファラオに権力を集中させる、いわゆる中央集権体制の確立や、効率的な税徴収のための土地台帳作成、さらにはエジプトの外への遠征や交易も実施しています。この時期に古代エジプト王朝の基礎が作られたと見て、まず間違いないでしょう。

 そして紀元前27世紀半ば、第3王朝成立とほぼ時を同じくして、首都が下エジプトの大都市・メンフィスに移転されます。これをもって古王国時代の到来とします。
 古王国時代は第3王朝から第6王朝までの約500年間とされ、地方分権色の強かった古代エジプト王朝の中でも、最もファラオの権力が強かった時代であると言われています。これは、王朝の要職をファラオの親族で固めるなど、徹底的な同族支配と有力部族の排除によってもたらされたものでした。

 この時代におけるファラオの強大な権力を文字通り天下に知らしめているのが、ファラオ1人ごとに建造された巨大なピラミッドの数々であります。
 ピラミッドは、初期王朝時代にも小規模な日干しレンガ造りの“マスタバ”と呼ばれる墳墓が建てられていましたが、古王国時代のピラミッドはスケールが違いすぎるくらい違います。それらの巨大建造物は、偉大なるファラオと彼に支配されるエジプトという国家の象徴に相応しいものでありました。
 古王国時代のピラミッド群の中でも特に有名なものは、第4王朝の第2〜4代のファラオであるクフ、カフラー、メンカウラーによってそれぞれ建てられた3基のピラミッドで、その完成度の高さなども含めて“ギゼーの3大ピラミッド”と称えられています。蛇足かも知れませんが、あのスフィンクスが造られたのもこの時期です。
 最も大きなクフ王のピラミッドとなると、高さ152m、底面積が6ヘクタール(!)というとんでもない規模になっており、10万人規模の作業員が30年がかりで、2トンの石材を230万個用いて造ったと言われています。我々現代人が、ささやかな“高層”ビルを建てて、“近代建築の粋”云々と言っているのが恥ずかしくなるほどの、まさに“エジプト古代建築の粋”を集めたものが、このピラミッドであります。
 ところで、これらのピラミッドは単なる王の墓だと思われがちですが、実は太陽神(ひいては神の子であるファラオ)を崇拝するための神殿という意味合いの方が強かったようです。ピラミッドの正四角錐は太陽光線の象徴というわけなのですね。また、学者の中には「ピラミッドは王の墓ではなかった」という説を唱える人も少なからずいるようです。 

 余談ですが、我々の貧困な想像力では、「ピラミッド建築」と聞くと真っ先に、「重労働を強いられる奴隷が、厳しい役人にムチ打たれている」様子を思い浮かべてしまったりしますが、これは、誤解を受けて文献を残した歴史家の著述を読んで更に誤解をした作家諸氏の過失であります。
 本来の姿は、農閑期の農民が数年から十数年に一度、衣服や食料の支給を受けてピラミッド建築に従事している…というもので、今風に言えば、国土交通省管轄の公共事業でありました。現実はあくまで現実的なのであります。

 ……さて、このようにファラオが権力を一身に集めて栄華を誇った古王国時代のエジプトですが、徐々にファラオを取り巻く状況は変化して行きます
 と言いますのも、王朝が大きく発展してゆくにつれ、国がファラオ1人の手に負える物では無くなってしまったのです。そのため、然るべき官僚組織が整えられ、行政のプロに実務を委ねるようになってゆきました。そしてそれは、ファラオ一族の要職独占が崩れた事を意味します。
 ただ、この構造改革自体は名を捨てて実を取った機能的なものであり、ファラオにとっても有益な面が多いものではありました。しかし官僚制は、為政者が少しでも油断すると、実質権力を部下であるはずの官僚たちに食い物にされ、国自体が地盤沈下を起こしてしまいます。これは戦後の日本に住む貴方なら、非常によくお分かりのことだと思います。
 そして事実、エジプトの古王国王朝も、この官僚制に足を引っ張られて衰退していくことになります。ファラオは実権を失い、続いて国力そのものが失われ、エジプトは第6王朝の終わりと共に無政府時代に突入します。そしてこの後、エジプトはリスタートを切るまでに約100年間の混乱期を体験する事になります。
 しかし、エジプトの歴史はまだ始まったばかりでした。(次回へ続く) 

 


 

10月2日(水) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(9)
第2章:オリエント(3)〜
エジプト文明の誕生

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 今回からしばし舞台を変えまして、古代エジプトの歴史についてのお話をお送りする事にします。

 さて、エジプトは、周囲を砂漠地帯に囲まれた極めて少雨の乾燥地帯でありながら、古代を通じて小麦の穀倉地帯として大いに栄えた文明エリア…という、世界でも極めて特殊な地域であります。
 何しろ小麦が生育するためには、冬季を中心に年間300ミリ以上の雨が降らなくてはなりません。しかしこのエジプト地方の降雨量は、海近くのごく限られた地域で辛うじてボーダーライン上、その他の地域では年に1度も雨が降らないというケースも少なくありません。普通なら穀倉地帯どころか農耕生活すら覚束ないはずなのです。
 しかし事実として、エジプトは四大文明の1つとして栄え、やがて統一国家が形成された後は、古代史において重要な位置を占める“先進国”であり続けました。それは何故でありましょうか?

 ──その理由はただ1つ。ここは古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスの遺した、余りにも有名な一節をもって説明する事にしましょう。

 「エジプトはナイルの賜物である」

 赤道直下、現在のウガンダ南部を水源とする全長約6700kmの大河・ナイル川。古代エジプトの歴史は、この川の下流域・約1200kmを舞台にして展開されました。

 このナイル川の特徴は、何と言っても年に1回下流域に発生する、緩やかで大規模な氾濫であります。
 これは、ナイル川のもう1つの水源であるエチオピア高原で雨季の夏〜秋に降った雨が、約1ヶ月かけて下流域のエジプトに流れ込むことによって起こる自然現象です。この氾濫が、雨の極めて少ないこの地方に貴重な農業用水を供給し、更には極めて栄養分に富んだ土まで運んでくれるのです。 
 当然、これを使わぬ手はありません。この年に一度、しかも小麦の生育に都合が良い季節にナイル川が運んでくれる農業用水と肥沃な土を使って、エジプト人は大規模な灌漑農業をする事を考え出しました。以前にも述べましたが、灌漑農業は文明発生の近道。これだけを考えても、エジプト文明は、まさにナイルの賜物なのであります。

 話しついでに、エジプトの独特の農法を説明しておきましょう。
 エジプト式農法では、まず日本の稲作のように水田を作り、肥料分を含んだ水を土に染み込ませます。しばらく水を溜め置いた後にそれを一気に排出してしまえば、極めて質の高い畑が出来上がるのです。
 そしてその畑へ種を播けば、もうその後は水をやらなくても麦はすくすくと育ってゆきます。収穫の季節を迎え、さらにそれからしばらく経てば、また氾濫がやって来ます。あとはこれを毎年繰り返すだけ。全く無駄の無い、非常に効率的な農法と言えるでしょう。

 こんな、奇跡としか言いようの無い恵まれた環境の中で、エジプト人たちは自らの文明を作り上げていったのでありました。
 エジプト人は、ハム系という極めて特殊な系統に属する民族で、どうやら紀元前6000年頃からナイル川河畔に住み着き、農耕と牧畜を覚えて集住を始めたと推定されています。恐らく、草原の砂漠化が進むにつれて、アフリカ中から人口が集中して来て、“エジプト人”という民族が構成されたのでしょう。大昔は、今の北・西アフリカの砂漠地帯は草原だったのです。

 そうして“エジプト人”となった人々は、ナイル下流域の中でも、主に2つのエリアに集住するようになりました。
 1つは上エジプトと呼ばれる地域。下流域でも中流に近い、つまり“比較的上流の”エジプトという事になります。地図で見ると下の方(つまり南の方)にあるため、よく誤解する方がいるので気をつけて頂きたいと思います。
 そしてもう一方は下エジプトナイル川が地中海に流れ込む寸前のデルタ地帯であります。大まかに言えば、現在の首都・カイロから北が下エジプトという事になるようです。この下エジプトは、比較的気候に恵まれている上、他の文明地域との交流も可能であったため、時代が進むにつれてエジプト社会の中心的地域へ成長してゆく事になります。

 この2つのエリアでそれぞれ文化が発達し、やがて紀元前3500年頃にはノモスと呼ばれる部族国家があちこちに誕生します。ノモスはエジプト全体で40程度あったと言われ、それぞれに首長という統治者を持っていました。ノモス時代は、メソポタミアで言うところの、ウルクやウルなどの都市国家の時代です。
 そしてメソポタミアが都市国家の社会から領域国家の社会へとシフトしていったように、エジプトもここから400年ほどかけて部族国家の統一が進んでゆき、その結果、部族の首長たちの頂点に立った、ファラオと呼ばれる君主の支配する統一国家が誕生します。
 ファラオとは“大きな家”という意味であり、恐らくは王の住む豪華な住居からついた名前だと思われます。これは、日本の天皇が「ミカド(=御門)」と呼ばれたのと同じ理屈であります。
 ただ、このエジプトの統一国家は、古代王朝としては極めて地方分権的でありました。従来のノモスがそのまま1つの行政単位となり、かつての首長はそのままノモスを支配し、それと同時に国家の重要なポストを担ったのです。ですから、少し油断をすれば、たちまち下克上・王座交代が発生する要素を孕んでいたのです。エジプトはメソポタミアと異なり、自然の要害に囲まれているために、外敵の侵入はほとんどありませんでしたが、その代わりに絶えず内側に敵を抱えていたという事になります。またその有様は、古代エジプトの歴史を追いかけていく上で、詳しく説明する事に致しましょう。

 ……というわけで、次回からは古代エジプトの王朝史に突入して行きます。カリキュラムの都合もあり、しばらくは比較的まったりと進行していく予定です。どうぞ宜しく。(次回へ続く

 


 

9月30日(月) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(8)
第2章:オリエント(2)〜
古代バビロニア王国

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 前回は、メソポタミア文明の誕生からウル第3王朝滅亡までの歴史と、その当時の人たちの生活実態についてお話しました。今日はその続きという事になります。

 最後のシュメール統一国家であるウル第3王朝の滅亡後、メソポタミアは一種の戦国時代となります。
 この時代の主役となったのは、ウル王朝を滅ぼした勢力の1つであるセム系民族の一派・アムル人。彼らはメソポタミアに定着した後、各地の都市国家を支配下に置いて行きました。
 その都市国家の中でも、メソポタミア南部のイシンやラルサが有力となりましたが、この2つの国によるメソポタミアの再統一はなかなか果たせませんでした。その間のメソポタミアは、大小20以上にも及ぶ国々が乱立し、いつの間にか200年の月日が流れて行ったのでありました。

 しかし、この膠着した状況の中で密かに力を蓄え、新しい時代の担い手となるべく表舞台にその姿を現した1つの国がありました。それがあの古代バビロニア王国であります。
 このバビロニアの建国は、紀元前1894年頃。初めは首都バビロンを中心とするごく狭い領土しか持たない都市国家だったようです。それからは、有力な国家の隙を突く形で徐々にその領土を広げて行きますが、お世辞にもメソポタミアを統一する有力候補と言えるような規模ではありませんでした。
 ところが紀元前1792年(異説あり)、バビロニア王国にハンムラビという名の王が即位すると、それまでのムードが一変します。
 ハンムラビは、慎重さと大胆さを兼ね備えた有能な王でありました。まず彼は、即位後30年もの間、ほぼ内政に専念して国力を充実させる事だけ考えたのです。しかしそれから外征に転じるや、それまでのスローペースからは信じられないようなハイペースで、次々とメソポタミア中の国々を飲み込んでゆきました。
 何しろ、それまで200年以上分裂状態が続いていたメソポタミア南部を統一するまで僅かに2年。その後も休む事無く北へ北へと侵攻し、更に3年後にはメソポタミア地方の大半を勢力下に置いてしまったのです。まさに電光石火の早業とはこの事でありましょう。
 こうしてバビロニア王国は、メソポタミア地方で久々に現れた統一王朝となったのでありました。その後もハンムラビがこの世を去るまでの間、彼の綿密な計算に基づいた的確な統治によって、王国は大いに栄えることになります。

 そのハンムラビ王の統治については、大量に残された当時の文献資料によって、かなり細かい部分まで窺い知る事が出来ます
 普通、1人で“天下統一”を果たすような王と聞けば、我々は玉座にふんぞり返って威張り散らしている乱暴な王様…という印象を抱きがちであります。が、ことハンムラビに関しては、そんな貧困な発想をしてしまった自分に恥じ入ってしまいそうなほど、きめ細やかで行き届いた政治を行っていたようであります。
 論より証拠、ハンムラビ王が直接部下に発した命令文をいくつかご覧頂きましょう。

 まずは1つ目。今で言う民事訴訟に関する命令書であります。

 ハンムラビは、シン=イディンナム(駒木注:地方長官の名前)に以下のように命ずる。

 賦役負担者のラルムという者が次のように訴えて来た。
 「金融業者がある土地の権利を主張してきました。しかしその土地は、私が以前から所有しているものなのです。それにも関わらずこの業者はその土地の大麦を刈り取ってしまいました」

 このような訴えがあったので、宮殿内の記録を探させたところ、「2イク(駒木注:土地の広さの単位)の土地をラルムへ」と記された粘土板が今見つかった。
 もしも金融業者がラルムから借金の抵当として土地の権利を主張しているのならば、土地をラルムに返し与えるように命ぜよ。そしてその金融業者を処罰せよ。

 この命令書から少なくとも2つの事が分かります。
 まず、今で言う裁判所が設けられ、その裁判所の最高責任者はハンムラビ王本人である事
 そしてもう1つは、この頃には土地台帳のようなものが既に作成され、宮殿内で専門の係員によって管理されていたという事
 ちなみに、この命令書では金融業者を罰するようにとなっていますが、それは「賦役負担者(公共事業に従事する一種の公務員)に国から与えられた土地は、借金の抵当に入れることは出来ない」という法律がハンムラビ法典38条に定められているからです。このハンムラビ法典については後に詳しく説明します。

 次に挙げるのは、役人の不祥事についての2枚の命令書です。

 ハンムラビは、シン=イディンナムに以下のように命ずる。

 シュラマン=ラ=イル(駒木注:役人の名前)は、次のように報告して来た。
 「収賄事件が発生しました。つきましては、収賄した本人と、これらの事件について知識のある証人の身柄を確保しています」

 この報告に基づき、今からお前のもとに、このシュラマン=ラ=イルと何人かの役人を派遣するので、この粘土板を読み次第、直ちに調査を開始せよ。
 もし、収賄の事実が明らかであるならば、賄賂として贈られた銀や物品に刻印をしてこちらに届けるように。また、収賄をした本人と証人を連行せよ。

 

 ハンムラビは、シン=イディンナムに以下のように命ずる。

 商人のイリシュ=イビが次のように訴えて来た。
 「30グルの大麦を代官のシン=マギルにお貸しし、借用書も取り交わしたのですが、3年間催促しているにも関わらず、返済して頂けません」

 私はこの訴えの際に彼が提出した粘土板を検討した。その結果、シン=マギルには借りた大麦とその利息を払う義務があると判断するに至った。
 そういうわけなので、お前は返済すべき大麦をイリシュ=イビに立て替えて支払っておけ。

 役人の不始末は、為政者にとっては4000年前でも頭を痛める問題であった事だったようであります。
 それにしても、収賄をした者の取調べから滞納した借財の肩代わりまで、王という仕事も楽ではないようです。
 ちなみに、この不祥事を起こした役人の名前は、これ以降の行政文書からは一切出て来なくなるようです。彼らの運命はどうなったのか……いやいや、考えたくもありませんね。

 最後にもう1通。こんな命令書もあります。

 ハンムラビは、シン=イディンナムに以下のように命ずる。

 ダナヌム運河の近くに土地を保有する者たちを集めて、ダナヌム運河を清掃させるように。なお、この清掃は今月中に終わらせる事。

 ここまで来ると、王の仕事ではなくて町内会長の仕事であります。
 それにしてもいつも命ぜられてばかりの地方長官、相当な多忙さが目に付きます。このポジション、今で言えば知事や市長にあたるポジションなのでしょうが、この地位に就く人は相当の激務を強いられた事でありましょう。思わず過労死の心配をしてしまいます

 ……とまぁこのように、ハンムラビ王時代のバビロニア王国は、極めて安定した状態でメソポタミアに君臨していたようでありますが、やはりこの時代の行政の充実振りを示す材料として忘れてはならないのは、『ハンムラビ法典』でありましょう。
 この『ハンムラビ法典』、皆さんはまず真っ先に「目には目を、歯には歯を」という言葉で知られる“復讐法”の原則を思い浮かべられると思います。また、高校で世界史を選択された方などは、「加害者と被害者の身分差によって刑罰が違う」という事などもご存知かも知れません。これは確かに事実でありまして、傷害罪の罪は被害者に負わせた怪我と同程度の傷を負うと規定されていますし、貴族が奴隷を殺害しても罰金刑に処せられるだけであります。
 ただ、この2つのポイントだけに囚われてしまいますと、「なんだ、『ハンムラビ法典』って随分な法律だな」…などと思ってしまうのですが、これは大きな誤解であります。『ハンムラビ法典』は、当時の常識に沿った形で制定された、非常に整備された法律書なのです。一見乱暴な規定も、当時の常識が現代社会と違うだけでありまして、これは責めるに値しません。
 『ハンムラビ法典』がよく整備された法律書であるという事は、この法典の第1条から第5条までが訴訟法である事からもよく分かります。その条文によると、「殺人罪(死刑相当)の虚偽告訴をした者は死刑に処せられる」とあり、極めて厳しい法運用を国民に求めている国側の姿勢が見てとれます。決して“野蛮な原始人が作った乱暴な法律”では無い事を理解するべきであります。
 第一、加害者と被害者で刑罰の軽重が違うのは今の日本でも同じ事であります。同じ殺人でも、幼子とその母親を殺せば間違いなく死刑か無期懲役でありますが、“善良な”一般市民がヤクザを2〜3人殺した場合なら、最悪でも10年程度で出て来れます。

 …さて、この他、『ハンムラビ法典』に収録された法律を大雑把に挙げて見ますと、殺人・傷害・窃盗・誘拐・強盗に関する刑法の他、結婚と持参金・離婚と財産分与・相続・養子縁組と廃嫡・姦通などについて定めた民法に相当するもの兵士の権利と義務についての法律土地の譲渡・賃借についての法律金銭の債務・債権についての法律、賃金の規定を定めた労働基準法的なもの奴隷に関する法律など、まさに微に入り細に入り、であります。
 そんな300条近くに及ぶ法律の中でも、特に興味をそそられるのは「酒場に関する法律」というものであります。
 しかもこの法律が極めて厳しい酒場の店主が酒を水で薄めて売った事が判明すれば水死刑犯罪者をかくまったりした場合は焚刑であります。また、女性聖職者が酒場に立ち入った場合も焚刑に処されます。
 …どうしてこんなに厳しい法律ばかりなのかと言いますと、この酒場が極めて特殊な施設であったからであります。
 この施設では、酒を呑むだけでなく娼婦を買うことも出来、しかも交渉次第では娼婦に子を産ませることも出来たのです。言わば、代理母斡旋センターであります。
 法典に拠れば、非嫡出子でも相続権は嫡出子と同等のものと規定されてありますので、娼婦に産ませた子であっても後継ぎにするのに何ら支障はありません。恐らく、今で言うところの不妊カップルは酒場で後継ぎを確保したのでありましょう。常識が違うとはいえ、田嶋陽子センセイが聞いたら脳卒中で昏倒しそうな話であります。

 まぁ、何はともあれ、こうして古代バビロニア王国は優秀な王に支えられて繁栄を謳歌していたわけであります。
 そして、繁栄し、成熟した国家では学問や芸術などが発展するもの。それはバビロニアでも例外ではありませんでした。
 まず、この時代に大きく発達したのが天文学でありました。天文学は、当時の宗教を支えた占星術の発達の他、正確な暦の発明にも繋がり、また現代に至って歴史の年代を特定する際にも大きく役立っています。バビロニア王国の成立やハンムラビ王の即位年が細かく分かっているのも、その当時の星の動きが詳細に記録されているからであります。
 また、このバビロニアの天文学と占星術が、およそ1800年の時を超えてキリスト教の誕生に大きく関わる事になるのでありますが、それはその時のお話としておきましょう。

 そしてこの時代で特筆すべき物がもう1つ。ジッグラトと呼ばれる、塔のようなピラミッドのような宗教建造物であります。
 ここまで触れる機会を得てきませんでしたが、メソポタミア文明の社会では、各都市や各国家に守護神が定められており、それを祀る宗教や神殿が存在していました。ジッグラトとは、その神殿の役割を果たす建造物であります。
 ジッグラト自体は、シュメール国家の時代から建造されていましたが、特にこのバビロニア王国で建築されたジッグラトは立派なものだったと伝えられています。昔話で『バベルの塔』のお話(神様に会いに行くために高い塔を建設するが、神の怒りに触れて失敗する…という筋書き)がありますが、このバベルの塔のモデルになったのが、実はこの古代バビロニアのジッグラトだったのではないか…と思われています。どうやら、後になって荒れ果ててしまった所まで、『バベルの塔』の話とソックリなようでありますが……。

 ──さて、いつもながら冗長に話し過ぎたようであります。ハンムラビ王の時代に別れを告げて、時計の針を進めることにしましょう。

 こうしてハンムラビ王の下で大いに栄えた古代バビロニア王国でありましたが、ハンムラビの死後間もなくして、早くも王国には衰退の兆しが見て取れるようになります。またしても外部からの異民族侵入と、内政の混乱に伴う反乱の勃発であります。
 それでも、ハンムラビ王が次代の王たちに残した“遺産”が大きかったのか、王国はハンムラビ王の死んだ(紀元前1750年)後、およそ150年間その命脈を保ちますが、やがて、紀元前2000年頃からアナトリア半島に成立していたヒッタイト王国の侵攻を受けて滅亡してしまいます。
 不可解な事にバビロニアの滅亡後間もなくしてヒッタイトは本国に引き上げてしまうのですが、“空き家”となったバビロニアには、その東方の山脈で暮らしていたカッシート人が侵入し、独自の国を建国します。
 この後は、そのヒッタイトカッシートに、メソポタミア中部に侵入してきたミタンニを加えた、3つの民族による“三強時代”が訪れる事になるのですが、それはまた次の機会のお話とします。

 さて、次回はちょっと舞台を南の方へ移しまして、エジプト文明の成立についてお話をしてゆきたいと思います。(次回に続く

 


 

9月27日(金) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(7)
第2章:オリエント(1)〜メソポタミア文明の誕生

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 それでは今回から、古代から順に追って地域別の歴史を述べていくことになります。
 この大長編の大河ドラマみたいなお話をどう扱うか、こちらとしても迷うところではありますが、ここは「どの順番で話しても、結局ヤヤコシイ」と開き直りまして、せめて参考書ベースで混乱しないように、「世界史B用語集」の目次に従ってお話してゆきたいと思います。

 よって、今日からお話するのは古代オリエント史。ここから講義を始めてゆくことにしましょう。

 …さて、この“オリエント”とは、古代ローマ人が使っていた言葉で“日の昇る方向”、つまり東方世界という意味であります。現代で言えばトルコを含む西アジアとエジプト古代の四大文明でなぞらえれば、メソポタミア文明とエジプト文明の地域を合体させたものになるでしょうか。
 現代では、豊富な資源に恵まれながらも世界の中心からはやや外れた印象のあるこの地域ですが、少なくとも古代においては世界を代表する先進地域でありました。現在とは全く趣の異なった当時の雰囲気を、少しでも感じ取って頂けると幸いです。

 では、その古代オリエント史の中でも最も古い歴史を持つ、メソポタミア地方からお話をしてゆくことにします。そう、歴史の授業でまず真っ先にティグリスユーフラテスという2つの川の名前を覚えさせられる羽目になるあのメソポタミア文明があった地域です。
 中には学生時代、「なんでメソポタミアだけ川が2つなんだよ!」…などと唸った事のある方もいらっしゃるかも知れませんが、実は“メソポタミア”という言葉には「(2つ)の川の間の地域」という意味がありまして川が2つあるのはむしろ当たり前なのであります。つまり、メソポタミア文明とは、「ティグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域の文明」…ということになりますね。
 この2つの川は、現在のイラクにあるペルシア湾に流れ込む川で、上流に遡るに従ってやや東西に広がってゆき、最後はシリアを経てトルコ領内まで辿る事のできる大河であります。よってメソポタミア文明のエリアは、ペルシア湾からトルコのあるアナトリア半島(別名:小アジア)まで広がる地域となります。日本の九州と本州がスッポリ収まるほどの範囲ですね。
 ただ、厳密に言えば“メソポタミア”ではありませんが、現在のシリア〜イスラエル(パレスティナ)〜ヨルダンなどの地中海東岸地域一帯にも古代文明が誕生・発展したため、この地域もメソポタミア文明に併せて扱うのが普通です。少し複雑ですが、よく覚えておいて下さい。

 さて、このメソポタミアの地域的特徴としては、まず“雨が極端に少ないにも関わらず、灌漑農業に適した土地と水源に恵まれていた”ことが挙げられます。
 雨が少ないのに農業が栄えたのは、ティグリス・ユーフラテスをはじめとする大河のおかげです。川は養分をタップリ含んだ土を上流から運び、人々はそれをベースに畑を耕します。また、水源も川から確保できます。川から用水路を引いての灌漑農業です。これだと、中途半端に雨水に頼る行き当たりばったりの農業よりも、ずっと豊かな麦畑が出来上がるというわけです。
 前にもお話しましたように、灌漑農業は文明誕生に繋がる重要な要素の1つです。この農業の発達が大量の余剰食料を産み、それが文明の誕生に繋がったのは言うまでもありません
 そして、もう1つの地理的特徴としては、文明の中心地が天然の障害物の無い平野部中心であった”…ということも見逃せません。
 こういう土地は、人が住み易い代わりに外敵からの攻撃に弱く、そのため、この地域では頻繁に侵略戦争が繰り返される事になりました。この事は、これから歴史を追いかけていく内に嫌でも実感されると思います。

 ……さて、それでは地域の特徴について述べ終わったところで、いよいよ古代メソポタミアの歴史について述べていくことにしましょう。

 このメソポタミア地帯に人がまとまって住み始めたのは紀元前10000年前後と言いますから、まだ旧石器時代です。そこで人々は、野生の麦などの植物を採集したり、動物や川魚を捕まえて食料にしていたものと思われます。
 その内、どこでどうしたのか、紀元前7000年前後には灌漑以前の原始的な農耕や、動物を家畜にすることを覚え、それに応じて人の住む集落の規模が段々大きくなってきます。紀元前6000年前後には、場所によっては既に灌漑農業が始まっていたのではないかとも言われていて、この地域の“先進性”が窺えます。

 ちなみに、このメソポタミアの狩猟・採集〜原始農耕時代の遺跡が、各地で発見されています。特に有名なものとして、メソポタミア北部のジャルモ今のイスラエル・死海の北側にあるイェリコなどがあり、そのような遺跡では、鎌や石臼などの様々な石器土器などが発見されています。
 遺跡の中には、各時代ごとの遺構が時代ごとに層になっているものもあります。その地層ごとの分析を進めてみると、時代によって住人の文化が全く違う事から侵略戦争があった事が分かったり、土器の発達のプロセスなどが判明したりと、文字誕生以前の歴史を考察するための貴重な史料となっています。

 …ただ、この頃はまだ“文明以前”の状態であります。メソポタミア地方が文明化へ向かって大きく変革を始めるのは紀元前4000年以降、やはり灌漑農業がメソポタミア各地に普及し始めてからのことでありました。
 この灌漑農業の発達が人々の集住を促し、ついにメソポタミアのあちこちに都市国家と言えるものが完成するのが紀元前3000年代の終盤あたり。この頃には文字の使用も始まり、ここでいよいよ文明時代の到来となります。

 このメソポタミア文明の第一の主役となるのがシュメール人と呼ばれる民族です。普通、民族は使用している言語を基準にして大まかな分類をするのですが、このシュメール人に関しては詳しい事がまだ判っていません。また、シュメール人の前にメソポタミアに住んでいた先住民がいたのではないか…とも推測されています。
 で、このシュメール人が、メソポタミアの南部、ペルシア湾からおよそ300〜400km内陸に入った所に都市国家を築きました。年代はつい先程も述べましたが、紀元前3000年代の終盤です。
 この文明初期の都市国家としては、その栄えた順番にウルク、ウル、ラガシュの3都市が有名です。ウルクは世界最古の叙事詩文学『ギルガメッシュ叙事詩』の舞台として名を残し、またウルでは王の墓と見られる大規模な遺跡が発見されています。

 この頃はまだ多くの都市国家が乱立して、思い思いの発展を遂げていた時期でありますが、都市同士の交流も頻繁にあり、次第に剣を交えることも増えてゆきました。
 そして紀元前2400〜2350年頃には、ラガシュと近くにあったウンマという都市の間で大きな戦争が勃発し、最後はルーガルサゲジという王に率いられたラガシュが勝利します。また、この王は勢いに任せて周辺の主な都市国家を片っ端から占領し、遂にはメソポタミアの勢力図まで一変させてしまいました
 ルーガルサゲジが作ったのは、メソポタミア南部全域に広がる数十の都市からなる大きな国家で、このような複数の都市を含んだ国家の事を“領域国家”と言います。ちなみに規模の大小は違いますが、現代世界にある国も、バチカンやモナコなどのミニ国家を除いて、そのほとんどが領域国家であります。

 こうしてメソポタミアにはラガシュ統一王朝が完成した事になるのですが、この国は間もなくして滅んでしまいます他民族の侵略に遭ったのです。
 これ以後のメソポタミアでは、堰を切ったように侵略戦争と力ずくでの王朝交代が繰り返されます。まさにこれは、攻め易くて守り難いというメソポタミアの地理条件を証明するような出来事でありましょう。

 まず、このラガシュを滅ぼしたのは、サルゴン1世という名の王に率いられたアッカド人たちでした。
 このアッカド人は、メソポタミアのやや南、アラビア砂漠との間にある草原地帯を原住地とし、そこからメソポタミア北部に移住して来たセム系と呼ばれる民族集団の一派です。地域的な条件から考えるに、都市国家時代からシュメール人と交流があったのではないかと思われています。
 こうして樹立されたアッカド統一王朝は、有能な王・サルゴン一世に支えられて大いに繁栄します。旧ラガシュ国家の領土に加えてメソポタミア北部をも統一して領土を広げ、さらにはインドやアラビア半島東岸のオマーンからも交易船を迎えて貿易をしたと伝えられています。
 しかし、サルゴンの死後は領内で頻繁に反乱が発生し、徐々に政情が不安定になって来てしまいます。その後は「好戦的で野蛮な民族であった」と称されるグディ人の侵入が激しくなり、結局、アッカド王国は130年余りでその歴史に幕を閉じることになります
 このアッカドを滅ぼしたグディ人は、メソポタミア北部で大いに猛威を奮ったのでありますが、政治的に成熟していない民族だったようで、統一国家を作る事は出来ませんでした。それどころか、あまり混乱が生じなかったメソポタミア南部からは力を蓄えた都市国家が再び現れ、グディ人は数十年で駆逐されてしまいます。
 こうして文明が蘇ったメソポタミアでは、シュメール人の築いた古都・ウルから優れた王が相次いで現れ、再び統一王朝が成立することとなりました。これがウル第3王朝と呼ばれるものです。“第3”というのは、都市国家時代からのカウントで3番目の王朝という意味であります。
 このウル第3王朝は、あのハンムラビ法典のベースになった、世界最古クラスの法典・ウル・ナンム法典が著されるなど、非常に整った行政組織が完成されて大いに栄えたのでありますが、この地域の宿命とも言うべき外敵の侵入は防ぎようがありませんでした
 このウル王朝は、王朝成立から70年ほど経った頃から、北方からは都市国家・イシン、西方からはセム系民族の一派・アムル人、そして東方からはイラン高原に住む民族・エラム人という三方包囲に晒されて国力を失い、紀元前2004年頃に成立後約100年で滅亡します。

 この後しばらくのゴタゴタを経て、かの有名なバビロニア王国が成立するのでありますが、それは次回に譲ることにしましょう。
 ここでは、その代わりといってはナニですが、シュメール人の作り上げた古代文化の姿を紹介して、今日の講義の締めとさせて頂きます。

 …それでは文化についてですが、まずはシュメール人の生活を簡単にお話しておきましょう。

 初めに住居から。
 彼らの住居は、主に日干しレンガと呼ばれる、粘土をレンガ状に形を整えて天日で干しただけの物を材料にして建築されていました。
 勿論、粘土を固めただけですから、雨が降ると崩れてしまいます。よくそんなので平気だなぁ…と思われるかも知れませんが、この地域は雨がほとんど降らないので、これでも十分というわけです。
 ちなみにこの辺りは、現代でも日干し煉瓦造りの家が見られます。それだけこの地域に適したものであると言えますが、地震等の天災に弱いという致命的欠点を抱えています。今年イラクで発生した大地震では日干しレンガの家が多数倒壊し、多くの犠牲者を出してしまいました。

 さて、特筆すべきなのは食生活です。高度に発達した灌漑農業に支えられて、かなり豊かな生活をしていたと推定されています。

 何しろ、紀元前2300年代のラガシュ時代から遺された公式行政文書によると、大麦の収量倍率(種モミ1粒で収穫できるモミの数)76.1倍というのだから驚きであります。ちなみに、古代ローマや中世ヨーロッパでは6倍程度がせいぜいだったとされていますから、その差たるや絶大であります。
 この高収穫の秘密は、畑を耕す鍬をウシに引かせ、さらにその鍬にホースを通して効率良く種を撒く…という条播法にありました。この方法が欧米社会で導入されたのは近代に入ってからですから、どれだけこの文明の農業が高度に発達していたか、よく分かります。
 かつての学者の中には、この凄すぎる数字を認めない人もいます。「数千年前の人間がそんな事できるわけがない」という“常識”の抵抗に屈した人たちです。が、今では調査が進んでこの数字が正しかった事が証明されています。
 ただ、この高い収量倍率は、年を追うごとに下がっていってしまいます。これは、地中の塩分濃度が上がり、農作物の発育に悪影響を与えてしまう塩害のためで、最後にはこの地域も農業には適さない土地になってしまったと言います。

 しかし、この時代はまだ幸せな時代でした。高い収量倍率は、大量の麦の余剰を産み、この頃のメソポタミアでは世界初のビールブームが訪れます。公的文書によると、16種類の銘柄が記録されていると言いますから驚きです。当時のシュメール人の定番朝食メニューはパンとビールだったと聞いてしまうと、もはや羨ましい話とさえいえます。
 また、麦以外の食料も豊富でした。川からは魚が獲れましたし、ヒツジやウシなどの家畜から肉を得る事も出来ました。野菜や果物も豊富に出回っており、タマネギ、ニンニク、キャベツ、キュウリといった今の日本でもお馴染みのものや、アラビア特産の高栄養果物・ナツメヤシも食べていたようです。

 しかし、良い事ばかりでもありません
 というのも、メソポタミア文明を支える2つの大河はかなりきまぐれで、大洪水を起こして畑や家屋を押し流してしまったり、または肥沃な土と水を運ばずに凶作を招いてしまった事もよくあったようです。それ以外にも頻繁な戦争もありますし、シュメール人たちは、破滅と隣り合わせの束の間の豊かさを謳歌していた…というのが現実だったのかも知れませんね。

 人々の生活についてはこれくらいにしておいて、次は文字についてお話しましょう。
 メソポタミア文明の文字は楔形文字。まだ紙が無く、代わりに粘土板を使用しなければならないという環境の中で生まれた文字で、粘土板にヘラのようなもので“▼”と“━”の形を刻み、その刻み方のパターンを変えて様々な種類の文字を表現します。
 素人目に見ても非常に複雑な字である事は明白で、当時の人たちはさぞかし苦労しただろうなぁ…と思わずにいられないのでありますが、このスタイルの文字は、後世の歴史家・考古学者にとって非常に有益なものでありました。
 何しろ、文字が刻まれた粘土板は、火事があっても消失しないのです。しかも焼き固められて余計に頑丈になるというわけで、メソポタミア文明の遺跡からは、この時代のものとしては膨大な量の文献資料が遺されています。先程の収量倍率についても、文献資料が元になっているわけです。
 ちなみに、膨大な文献のおかげで、メソポタミア文明の文字は完全に解読がされていますが、余りにも文献の数が膨大すぎて、その全てを解読するのには最低でもあと数十年かかると言われています。これぞまさにパラドックスでありますね。

 また、文字と共に数字も発明されています。ただ、メソポタミアの数字は変形60進法というべき複雑怪奇なもので、必ず計算間違いが起こると思えるほど煩雑です。
 何しろ、数字の単位が1、10、60、600、3600、36000……といった具合なのです。例えば10万を表現するためには、36000を現す数字を2つ、3600の数字を7つ、600の数字を4つ、60の数字を6つ、10の数字を4つ書く事になります。これでは四則演算すら覚束ないはずで、当然の事ながら、メソポタミア式数学は後世の文明には一切の影響を与えていません。

 この他には、この頃には既に太陰暦週7日制があったとされています。ただ、天文学についてはバビロニア王国時代に発達するものですので、そちらでお話することにしましょう。

 ……というわけで、最後はとりとめが無くなってしまいましたが、このような社会で人々は時には楽しみ、時には苦しみながら生活していたわけです。
 それでは今回はここまで。次回はバビロニア王国とハンムラビ王の治世を中心にして講義をしたいと思います。それでは、また次回に……。(次回へ続く

 


 

9月23日(月・祝) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(6)
インターミッション1
偉大なる発見者たちの苦悩(後編)

 ※過去の講義のレジュメはこちら→第1回第2回第3回第4回(以上第1章)/第5回

 今日も前回に引き続き、非常に貴重な考古学上の発見に携わりながらも、学会から正当な評価がされずに不遇をかこった人たちの話をお送りします。

 さて、今回お話するのは、旧石器時代の洞窟壁画にまつわるエピソードです。洞窟壁画といえば、本編ではごく簡単に、「アルタミラやラスコーといった遺跡に、現代人顔負けのリアルな絵画が描かれ──」…といった感じで述べていただけだったと思います。
 その時は、話の流れ上致し方なかったのでありますが、せっかくこうしてわざわざ時間を割いたのでありますから、ここで少しばかり、洞窟壁画そのものについての解説をしておきましょう。

 この洞窟壁画は、西ヨーロッパ──特に現在のフランス南部からスペイン南部──で多数発見されており、人々が文字を持たなかった時代の貴重な文化遺産として、大変高い評価を受けています。
 これらの洞窟絵画は、文字通り洞窟の、それも普段は人が住んでいなかったような奥深いエリアに描かれているケースが多く、また、その題材には動物がよく選ばれていました
 そのため、洞窟壁画はただの芸術ではなく、何らかの儀式的・呪術的な意味合いを持っていたはずである…とする説が優勢です。題材に選ばれている動物が、狩猟の対象になっていたウシやシカである事もまた、その説の信頼性を高めさせています。つまり、「今年はウシやシカがよく獲れますように…」という願掛けをするためのモノだというわけですね。いかにも、不安定な食糧事情を強いられていた旧石器時代らしい話だと言えそうであります。

 …では知識も深まったところで、話を“洞窟壁画の発見”の方に移しましょう。
 しかし先に述べましたように、これらの絵画というのは普段人目につかない所に描かれているのが常でありまして、なかなか発見できるものではありません。特に、「人目につかない所に(洞窟壁画が)ある」という事実すら知られていなかった頃などは、計画的な探索と発見などはほぼ不可能であります。
 そのため、洞窟壁画は偶然に発見されるケースが非常に多いです。まさにヒョウタンから駒、洞窟から壁画といったところでありましょうか。
 …そして、世界で初めて発見された旧石器時代の洞窟絵画もまた、全くの偶然から発見されたものでありました。

 ──時は1879年、場所はスペインのアルタミラ。同国の北部に小さな領地を持つ田舎貴族・ドン=マルセリノ=デ=サウトゥオラ子爵は、5歳になる娘を伴って、領地内にある洞窟を訪れていました。
 …と、ここで、どうして貴族であるサウトゥオラが洞窟などに足を踏み入れているのか疑問に思われた方もいらっしゃるでしょう。
 実は彼、前年のパリ万国博覧会で旧石器時代の石器や骨角器を見て以来、すっかり旧石器時代オタクになってしまっていたのです。で、石器を眺めている内に自分も石器を掘り出してみたくなり、遂には自分の領内から洞窟を探し出し、暇を見つけては石器を発掘しに出かけるようになったという次第。日曜大工ならぬ日曜考古学者といったところでしょうか。

 その日の探索は先に言いましたように、子供を連れての家族サービスの一貫だったわけですが、自分の興味の有る事に没頭し始めると子供の事なんてそっちのけになってしまうのが世の父親の常。気がつけば娘は、一心不乱に石器を探す父親の側から離れ、好き勝手に洞窟内を走り回るようになりました。
 やがて、どれくらいの時間が経ったでしょうか、突然娘が父親を呼びつけました。

 「パパ! パパ! こんな所にウシさんがいるよ!」

 勿論、洞窟にウシなどいるはずがありません。サウトゥオラ子爵は、娘を適当にあしらいながら石器探しを続けます。
 しかし、娘はしきりに父親を呼んでききません。

 「パパ! 本当よ! ウシさんがいるんだってば!」

 その娘の余りのしつこさに根負けした子爵は、やれやれと腰を上げて娘の側へ向かい、娘が「ここ! ここ!」と指さす方向へランプを掲げました。すると──

 そこには、確かにウシがいました洞窟の天井いっぱいに写実的なウシの絵が描かれていたのです。しかも色鮮やかなカラー彩色で。

 これこそが、史上最年少の“考古学者”によって見つけられた遺跡・アルタミラの洞窟壁画でありました。

 ……ところで、洞窟壁画の発見は、この例に限らず子供によるものが多いのが特徴です。好奇心旺盛な子供たちが、大人が入ろうとしなかった洞窟に紛れ込んで大発見をしてしまう…というわけです。
 実は、受験参考書などでアルタミラと並んで紹介される事の多いラスコーの洞窟壁画も、発見者は4人の少年たちでした。

 さて、5歳の子供によるアルタミラ洞窟壁画の大発見です。
 ……この出来事、これは確かに微笑ましい出来事ではありました。が、学会はあくまでもシビアに判断を下します。それを発見したのが誰であろうと、疑問を挟む余地が有るならば容赦なく指摘をぶつけて来ます。それは、このアルタミラ遺跡も例外ではありませんでした

 この遺跡に対して、学者たちが大きな疑問を抱いたのは、洞窟に描かれた壁画の完成度が余りにも高かった事でした。
 何しろ、この手の旧石器時代の絵画が見つかったのは、これが初めての事でありましたので、この洞窟壁画を判断する確固たる基準が存在しないのです。手探り状態の中で決め手になるのは、その時代なりの“常識”でありました。そう、ネアンデルタール人やジャワ原人を闇に葬り去ろうとした、あの“常識”であります。

 アルタミラの洞窟壁画について学会の下した結論は、「旧石器時代の人間に、こんな高度な絵など描けるはずが無い」…というものでした。単刀直入に言いますと、現代人がイタズラで描いたニセモノだというわけです。
 しかも遺跡の“共同発見者”であるサウトゥオラ子爵にとって都合の悪い事は(逆に学会にとっては都合の良い事は)、子爵の家にお抱えの画家が住み込んでいたことでした。しかもその画家は言語障害で口がきけない人間で、どんな秘密を抱えていようと決して他人に口を割る事は無かったのです。

 余りにも揃いすぎた不利な材料。サウトゥオラ子爵は、一転して窮地に追い込まれました──。

 ここで、この哀れな地方領主の名誉の為に弁解しておきますと、件の画家は完全な“シロ”でありました。
 何しろ、彼が言語障害に至ったのは、幼い頃に洞窟で生き埋め事故に遭って、大きな精神的ショックを負った為だったのです。そんな彼が洞窟に足繁く通って、精微な絵を描く事など出来るはずがありません

 ただし、彼はこの騒動が持ち上がってから、「自分が描いたと噂されている絵とはどんなものだろう?」…と思い、勇気を振り絞って問題の洞窟に足を運んでいます。そして壁画を見るや、その絵の素晴らしさに驚愕し、
 「これは上手い! 壁の凹凸を巧みに利用しているぞ。なんて素晴らしいんだ!」
 …と、無意識のまま絶叫し、弾みで言語障害が治ってしまったという、壁画の発見以上に信じ難いエピソードが残されています。 

 しかしそんな事など顧みられる事も無く、結局、サウトゥオラ子爵は、学会やマスコミから猛烈なバッシングを受ける事になってしまいました
 そんな子爵の名誉が回復されたのは20年余り後1900年代に入ってからアルタミラと同様の洞窟壁画遺跡が続々と発見されたのが決め手になりました。当時の研究者たちは、その時になってようやく20年前の己の無知を恥じたと言いますが、最早、詫びなくてはならない相手は、とうの昔に天に召された後でありました……。

 
 ……さて、世界史の陰に隠れた“悲劇”の数々、いかがだったでしょうか? 
 ちょっとスッキリしない話ばかりで恐縮ですが、普段何気なく参考書等で目にしている歴史用語に、実は色々な人の人生模様が内包されているんだという事を知って頂けると幸いです。

 それでは、次回からは再び本編に戻って歴史の講義を続けます。
 その次回は、メソポタミア文明の発祥について色々な話をしてみようと思います。(次回へ続く

 


 

9月20日(金) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(5)
インターミッション1
偉大なる発見者たちの苦悩(前編)

 ※過去の講義のレジュメはこちら→第1回第2回第3回第4回(以上第1章)

 
 ……さて、前回まで4回にわたって、先史時代の人類の歴史について述べて来ました。

 この“先史時代”とは、文字による史料が存在しない時代のこと。即ち、この時代に関する史料は、遺物や化石といった考古学的な物に頼らざるを得ません。駒木が数百万年〜数万年前の人類の歴史について色々な事を述べることが出来るのも、多くの考古学者さんたちが遺物や化石を掘り出してくれたお陰なのです。

 そういうこともありまして、先史時代の歴史を特定できるような考古学的発見をした人は、その事によって歴史にその名を遺すことになります。歴史学上の功労者、というわけです。
 が、今現在“功労者”として名を残す人たちの中には、過去において様々な理由で、長い間不遇をかこって来た人も多く見受けられます。酷いケースになると、死後しばらく経ってからようやく名誉が回復された、まるでジャンヌ=ダルクのような人までいる始末であります。
 どうしてそんな事になってしてしまうのかと言いますと、それはその人が発掘した歴史的発見が余りにも凄過ぎたためであります。人間、自分の理解を超えた出来事に出会った場合は、それを否定する事で処理してしまうもの。その発見が成された当時の常識を根底から覆す歴史的大発見が成された場合、その発見に対しては正当な評価が成されることは滅多にありません。それどころか、その発見はデタラメなものとして葬り去られてしまうのです。
 そしてまた、葬り去られるのはその大発見をした人も同じであります。挙げた成果が“デタラメ”になってしまう以上、その大発見者は“世の人を惑わすインチキ野郎”という事になってしまうのであります。そんな哀れな偉人の名誉が回復されるのは、然るべき時間が経ち、“常識”がその大発見に追い付いて来るのを待たなければならないのであります。

 ──今日の“インターミッション”では、そんな“凄すぎる大発見”をしてしまった、哀れな偉人たちとそのエピソードをいくつか紹介してみたいと思います。いつもとは趣向の異なる「学校で教えたい世界史」を、どうぞお楽しみ下さい。

 

 さてさて、先史時代に関わる考古学上の発見といえば、やはり人骨や人骨化石がメインという事になりましょう。
 人類はどこから現れ、どのような道筋を通って、今の我々に辿り着いたのか──? …この疑問は、歴史学・考古学にとってまさに“見果てぬ夢”。永遠の研究テーマなのであります。
 21世紀の今日、私たちは、この講義の第1回と第2回でお話しましたように、霊長類の誕生から現生人類の誕生までの大まかな進化のルートを知るまでに至りました。しかしそれでも現時点では、どの種の猿人が我々の直接の祖先であるのか…ということすら、分かってはいません。推理モノの小説に喩えてみるならば、殺人事件の犯人が大阪から東京まで行った事は分かっているが、どの乗り物で、どういうルートを通って行ったのかが全く掴めていない段階…といったところでしょうか。
 とはいえ、今から200年前の時点では、そんな大まかなルートどころか、人類誕生の手がかりすら全く見えない状態でありました。そこから我々は、考古学上の発見から大きなヒントを得、それを基に現在の“大まかなルートは分かっている”状態にまで漕ぎ着けたというわけです。そこまでに要した期間を考えると、それはそれで大したものだと言えるのではないでしょうか。
 が、先に述べましたように、そんな“大躍進”の原動力となった考古学上の発見、またはその発見をした功労者には、必ずしも正当な評価が下されて来たとは限りませんでした。新発見があると、とりあえず新聞記事になって賞賛されるようになったのは、ごく最近になってからの話なのです。

 それでは、話を始めましょう。まずお話するのは、先駆者ゆえに悲劇の主役となることを強いられた、1人の男の話であります。

 先史時代の人骨化石が初めて発掘されたのは、1856年のこと。世界史的にはナポレオン戦争の傷痕が癒え、ヨーロッパ世界の再構成が進んでいるあたり。我が日本では歴史的な開国からまだ2年、ハリスが日本に着任した年ということになります。
 そんな世界的に“激動期”という言葉を当てはめるに相応しいその年に、ドイツのデュッセルドルフからやや離れた渓谷から、少なくとも1万年以上は以前のものと推測される原始人類の人骨が発掘されました。その原始人類──後に、化石が掘り出された渓谷の名を取ってネアンデルタール人と名付けられる事になる──の骨は、地元の高校教師・フールロットの元に届けられ、翌1857年、彼の手によって「現生人類とは異なるタイプの、原始人類の骨」ということで学会に発表されます

 しかし率直に言って、この発見は早すぎました
 と、いいますのも、当時のヨーロッパではまだ、1万年以上も昔に人類が、しかも自分たちと異なるタイプの人類が存在したという説が受け入れられるだけの土壌は、まだ出来上がっていなかったのです。

 これは、他の何よりもキリスト教の影響が大きいと思われます。キリスト教の教典である2冊の聖書では、地球と人類の誕生とその歴史についても詳しく言及しています。キリスト教の信者ではない方でも、アダムとイヴの話や、ノアの方舟のエピソードを耳にした事があると思いますが、まさにそれであります。
 当時のヨーロッパでは、一部の例外を除き、ほぼ全ての人がキリスト教の信者でした。ということは、ヨーロッパ社会の大多数の人々は、聖書による人類の誕生とその歴史を何ら疑う事無く信じている…という事になります。それは学者だろうと誰だろうと関係はありません。学問と信仰はこういう時でも無関係なのであります。
 キリスト教の教えに従うと、人類は今の姿のままで神によって創造されたもの。ですから、当時のキリスト教徒にとっては、何万年も前に今の人類と違う種の人類がいた、なんてことは“あってはならない”事柄なのです。

 それでもしも、聖書やカトリック教会の決定事項に反する説を唱える“不届き者”が現れた場合、その人物は異端の人間として迫害されても文句は言えない状況でした。
 まぁ19世紀の近代社会ともなると、ガリレオ=ガリレイのように“地動説を唱えるだけで異端審問の末、火刑”…なんて事にはなりませんが、キリスト教に反した主張をする事がヤバいのは変わりありません。事実、この時代の人であるダーウィンも、自身の進化論を大っぴらに発表する事なく、著書もコッソリと本屋の片隅に並べているような感じでした。彼と彼の説が世の中に大きく広まったのは、彼の力よりも彼の説を支持した人たちの功績の方が、実は大きかったりするのです。

 そして科学万能の時代である現代でも、今もってキリスト教の教義を忠実に守ろうとする方もいらっしゃいます
 これは駒木が教育実習の際に、恩師T先生からお聴きした話なのですが、とあるミッション系の高校で、人類の進化について授業をした世界史の先生が、その日の放課後シスターに呼び出されたそうです。そして、そのシスターはおっしゃられました。
 「先生が何を教えられようが、私たちは関知いたしませんが、この世界は神様がお創り給うたものでございますので、それだけはお忘れなきよう」
 ……いや、皆さん笑ってはいけません。少なくとも駒木は笑えないのです。というのも、実は、駒木自身も似たような経験があるのであります。
 それは奇しくも件の教育実習。他の先生たちに授業を見ていただく研究授業の時に、駒木が「キリスト教やイスラム教もそうだが、大抵の宗教は死んでからの御利益を求めるものなので、熱心な信者は進んで殉教できるんだ」……なんて事を喋りましたところ、現世利益の思想が教義に組み込まれている仏教の某宗派を信仰されている先生から、後でお叱りを受けてしまったのであります。いかに宗教がデリケートなものか、身をもって体験させられたエピソードでありました。

 ……さて、話を戻しましょう。
 そんな状況下で、人骨の実物と共に学会に提示された、フールロットの「数万年前には我々と異なる種の人類が存在した」とする新説は、当時の大物学者たちから、猛烈な勢いで否定されます。

 とある学者の曰く、「これは確かにサルに似た動物の古い骨ではあるが、人類とは断定できない」
 別の学者の曰く、「これはナポレオン戦争の時に戦死した、ロシア軍コサック兵の遺骨だろう」
 また別の学者曰く、「新大陸かどこかから連れて来られた未開民族の人骨だ」
 そして歴史学会に引っ張り出されて来た、病理学の権威・ウィルヒョウがトドメを刺します。彼曰く、「これはクル病にかかって骨が変形した老人の遺骨である」

 ……学者の中には革新的な発想の出来る人もいましたが、それはごく少数派。ましてや唯一の物証である人骨が却下されてしまったとなっては、この新説が認められる余地は全く無くなってしまいました。フールロットは、門前払いの形で学会から放り出されてしまったのでした。
 その後、彼の説が再評価され、学会によって認められるのは1901年まで待たなくてはなりません。それは、フールロットが学会で敗れて44年後、そして彼がこの世を去ってから24年後の事でありました。

 ──ちなみに、ネアンデルタール人のケースとは対照的に、比較的スンナリと学会にその存在が認められたのは、かの有名なクロマニョン人でありました。その現生人類の祖先にあたる人間の骨が発見されたのは1868年。ナポレオン3世治下のフランスにおいて、鉄道工事の最中発見されました。
 見つかったのは、現生人類の特徴を持った5体の遺骨。骨はフールロットの時と同じように、現地の地質学者の元に届けられ、彼の手によって学会で発表されます。
 初めはこの時もまた、当然のように学会の猛反発を浴びたのですが、この時は折り良く、ヨーロッパ各地の旧石器時代遺跡から同様の人骨が多数見つかったために、“逆転勝訴”を勝ち取る事ができたのでした。ネアンデルタール人と違い、発掘される人骨の数が圧倒的に多い現生人類だったが故の勝利と言えましょう。しかし、それにしてもフールロットは悲運でありました。

 さて、次のエピソードに移ります。
 今度の話は、ジャワ原人発見にまつわるストーリー。その主人公となるのは、オランダの解剖学者・ウジェーヌ=デュボアであります。
 未だネアンデルタール人の存在が学会で否定されていた1887年まだ29歳であった彼は、大学講師の職を辞してまでして現在のインドネシアに乗り込み、原始人類の人骨化石発掘に挑んだのでありました。
 デュボアの行動は、客観的に見れば、ただの若さに任せた蛮行であります。しかし歴史というものは、往々にしてそんな無鉄砲な人間たちによって築かれて来たものでもあるのです。

 ところで、彼をそこまでインドネシアでの発掘に駆り立てたのは、ダーウィンの進化論信奉者として既に有名であったドイツの生物学者・ヘッケルによる1つの仮説でありました。その。当時にしては余りにも独創的過ぎる仮説は以下のようなものでした。

 「地球上に現れた原始生物が人間に進化するまでの過程は、24の段階に分けて考える事が出来る。
 その24段階の内、22番目がゴリラなどの類人猿で、24番目が人類である。両者の中間に当たる23番目には、サルとヒトとの中間的生物である“ピテカントロプス(直訳すれば『直立猿人』。しかし、20世紀に猿人の存在が認められてからは『原人』とされる)が該当する
 “ピテカントロプス”は(デュボアがジャワに渡る以前の時点で)発見されていないが、その化石は東南アジアのスンダ列島(スマトラ島、ジャワ島、バリ島、ロンボク島)のいずれかの島において発見されるはずである」

 当時の学者たちのほどんどは、この仮説を「全く根拠のないもの」として一笑に付します。
 事実、この仮説は間違いだらけでありました。ただ1箇所、『ピテカントロプスの化石がスンダ列島から発見される』という所を除いては──。

 デュボアによる発掘作業は、全く手がかりの無い中、スマトラ島を出発点に、あちこちと場所を変えながら5年にも及びました。そしてようやくジャワ島のトリニールという場所で、人類の物と推測できる大腿骨と歯の化石の発掘に成功したのでした。
 しかし5年かかったとは言え、スンダ列島の中からジャワ島を発掘場所に選び、さらに形の整った人骨化石を発掘するなど、奇跡以外の何物でもありません。それを証拠に、その後100年余りの間に、デュボアと同様にジャワ島に乗り込んで人骨化石発掘に挑んだ学者の中で、その思いを遂げる事が出来たのは僅か数人に過ぎないのです。何というか、運命めいた何かを感じさせるエピソードでありますね。

 …と、そんな少年マンガの主人公が起こすような奇跡に恵まれたデュボアでありましたが、ネアンデルタール人すら葬り去ろうとした歴史学会は、相変わらず冷淡でした。
 1895年、満を持して学会でピテカントロプスの存在を発表したデュボアに、またも痛烈な非難が浴びせ掛けられます。この時の反・デュボア派の大将格は、かのフールロットにトドメの一撃を喰らわせた、あの病理学者のウィルヒョウでありました。
 結局、デュボアはこのゴタゴタで業界全体に失望したのか、その後は第一線から身を引いてしまいます。彼の説が公に認められたのはそれから約30年も後の事。フールロットとは異なり、自説の勝利を目の当たりにすることは許されましたが、単身ジャワ島に乗り込んでいった血気盛んな29歳の青年は、もう還暦を過ぎた老人になってしまっていました。この時、彼の胸に去来したのは喜びだったのか、悔しさだったのか。今となっては、その真実を知る由もありません。


 この後20世紀に入ると、考古学会は猿人発掘の時代に入り、現在に至ります。
 猿人の人骨化石発掘に際しては、その第一発見者であり、アウストラロピテクスの名付け親でもあるレイモンド=ダート最大の“被害者”ということになりましょうか。
 ダートが猿人の化石を発見し、それを公の場で発表して以来、彼の元には狂信的なキリスト教の信者から脅迫状が殺到したそうです。彼らにとって“ヒトとサルのあいの子”など、存在してはならないものだったのです。
 その脅迫状には、「お前は今、地獄の業火に焼かれようとしている」という物や、さらには「お前に授かる子供はサルみたいな醜い生き物に違いない」…などというもの。赤ん坊なんて、生まれた時はどれもサルみたいじゃないか…とは思うのですが、脅迫状を出す方も必死だったのでしょう。
 ただ、ダートには有能な理解者が多く、程なくして次々と猿人の化石を発掘して、自力で反対派の抵抗を封じ込める事に成功します。運命のいたずらに思うところはありますが、ここは三度悲劇が繰り返されなかった事を素直に喜ぶべきなのでしょう。


 ──さて、こうして人骨やその化石の発掘にまつわる悲劇をについてお話して来ましたが、世界史における考古学上の悲劇は、人類の進化に関するものだけではありません。
 しかし、それを語るには今回の話が長くなりすぎました。とりあえず今回はここで中断し、続きは次回の後編に譲りたいと思います。次回はそれほど長くない範囲で収まると思いますので、どうぞよろしく。(次回へ続く) 

 


 

9月16日(月・休) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(4)
第1章:先史時代(4)〜文明の誕生まで

※過去の講義のレジュメはこちら→第1回第2回第3回

 7000万年前から始まった、この「学校で教えたい世界史」も、前回で4万年前の現生人類による“天下統一”まで辿り着きました。おお、なんと全体の99.95%がもう終わってしまったのですね(ぉ)。
 今回は、我々の直接の祖先、現生人類たちが文明時代に辿り着くまでの進歩の歴史をお送りしたいと思います。

 
 さて、旧人を“吸収合併”した、我らが現生人類たちは、ますます発達した知恵と生存能力を駆使して、文字通り世界中へと散らばって行きます。
 これまでも人類が分布していた地域は勿論の事、気候の厳しい極地周辺や、アフリカから陸伝いで行くには余りにも遠すぎたアメリカ大陸、さらには海を隔てたオーストラリア大陸にも人類が住むようになりました。つまり、この時代から人類は船を作り探検をしていたわけですね。
 よく世界史では、15世紀のヨーロッパ人の海路開拓“大航海時代”などと言いますが、それは世界史学における過剰なヨーロッパ中心主義の産物であります。“大航海時代”など、身近な例で喩えてみるならば、ド田舎に住む高校生が夏休みに1泊2日の東京旅行で原宿に行った事を、始業式の日に同級生を集めて自慢ぶっこいてるのと同じようなものであります。

 …と、このように人類は世界中に散らばって行ったため、現生人類の人骨や人骨化石が発見された遺跡は、世界各地でかなりの数が確認されています
 全てを挙げるとキリが無いので、高校の世界史教科書レヴェルに限定して紹介しますと、恐らく受験世界史では最も有名な新人の種である、南フランスのクロマニョン人北京原人と同じ地域の違う地層から発見された周口店上洞人北西イタリアのグリマルディ人アフリカ東南部のボスコップ人…などなど。また、日本でも静岡県の三ヶ日(みつかび)などの新人が存在していた事が判っています。

 また、人類が全く環境・気候の違う地域に分布し、それぞれの場所で代を重ねる内に、元々は同じ種の人類でも、環境に合わせて徐々に肌の色や顔の特徴が異なって来るようになりました。いわゆる人種の誕生です。
 人が人を差別する格好の“材料”になり、大量の血を流し、かけがえのない人命を失わせる事にもなった人種の差ですが、要は、より環境に適応していこうとする自然の摂理だったわけです。いかに人種差別が馬鹿馬鹿しいものか、これだけでもよく分かろうというものです。
 主な人種としては、ユーラシア大陸西部、アフリカ大陸北部が“原籍”のコーカソイド(=白人)ユーラシア大陸北部・東部、東南アジア諸島部、アメリカ大陸“原籍”のモンゴロイド(=黄色人種、ネイティブ・アメリカン)アフリカ大陸中・南部“原籍”のネグロイド(=黒人)、そしてオーストラリア大陸とその周辺部“原籍”のオーストラロイド(=アボリジニーなど)…が挙げられます。また、ポリネシア人や、いわゆるピグミーなども独立した人種とされています。
 ちなみに、我々の属するモンゴロイドの特徴としては、一重まぶた胴長短足といったヴィジュアル的にイケてないものが多いのですが、これは極寒の中でも体温を極力下げないための構造だったりします。ですから我々モンゴロイドは、デザイン的にはアレでも頑丈で機能重視の業務用電化製品のような、実用的なタイプの人種だと思って開き直っておきましょう。

 
 こうして世界各地に散らばった人類たちは、各地の環境に応じて各々の生活をして行くようになります。
 本来ならば、ここでも世界各地の人類の生活を追いかけていくのがベストなのですが、これも全部話しているとキリが無いですので、いかにも世界史的な、いわゆる“原始人”の生活の平均像的なものを紹介してみようと思います。

 現生人類が“天下統一”を達成し、世界中に散らばって行った約4万〜1万年前頃には、まだ農耕や牧畜は発明されていません。人々は狩猟・採集、または漁労などをして食料を得ておりました。このように自然の恵みから生きる糧を得ている状態を獲得経済と呼んだりもします
 この頃には、人々が使っていた道具も更に高度なものに進歩しています。当時はまだ打製石器しか存在しない旧石器時代なのですが、それでも現代の職人が作ったかのように精巧な石器が作成・利用されていたようです。また、石器だけではなく、動物の骨から作られた釣り針や刃物などの骨角器や、小型動物を仕留めるための弓矢も使用されていました。 
 また、洒落たところでは洞窟絵画なんてものもあります。有名なものにスペインのアルタミラや、フランスのラスコーなどが挙げられます。当時の絵画を見てみると、これが数万年前のものだとは思えないくらい、写実的で芸術的なものが多くあり、思わず唸らされます。
 そして人々は、いくつかの家族ごとにまとまってホルドと呼ばれる群を作り、そのホルド単位で食料の豊富な場所を求めて、移動しながら生活をしていたようです。20代後半以上の年代の人には、『はじめ人間ギャートルズ』に出て来るグループみたいなものがホルドだ…と思ってもらえれば良いと思います。

 ところで余談ですが、共産主義思想の基本となるマルクス主義的唯物史観では、獲得経済期の人類社会は身分差が無く平等であった…とされています。が、しかし、本当にそうであった事を示す根拠は何一つありません
 しかもよく考えてみれば、山で暮らすニホンザルの群を見ても分かるように、原始人類と同じく獲得経済で生活する類人猿の群には、ボスや幹部クラスのポストが存在するのが普通です。なので、むしろ原始時代の人間のホルドでも、サルなどと同じような上下関係があったと考える方が自然なような気がしないでもありません
 勿論、「サルからあらゆる面で進歩した人間は、そのような全人類的な身分制度を破棄した」…と考える事も可能ですが、“平等社会の中にボス的存在がいる”という設定の方が、現実的な共産主義社会に近くて興味深いですよね(笑)。

 ……さて、こうして世界各地でたくましく生き抜いて代を重ねていった人類たちは、ますますその生存能力を高めて行きました。現生人類までの人類は、環境に合わせて進化して自らの肉体を変化させていきましたが、それに対して現生人類は、己の発達した知能を活かして道具や生活様式を改良し、進化ではなく進歩するようになってゆきます

 まず進歩したのは道具、特に石器でした。
 現生人類の登場以来、相当に高度なレヴェルまで改良が進められていた打製石器は、約1万年前に至って、非常に細かい加工の施された剥片石器である細石器と呼ばれるものが作られるようになりました。この細石器が主に使われた時代を中石器時代と言います
 そして約9000年前になると、打製石器を砂や砥石で磨き上げた磨製石器が登場します。この磨製石器を主な道具として使用された時代を、石器時代の最終段階として新石器時代と呼びます
 この他に、この時期に発明された物として有名なものに、土器織物が挙げられます。特に土器は、生活のバリエーションを豊かにするかけがえのない道具となりました。

 そして道具の発達と並行して、不安定な狩猟・採集生活から、より安定した生活への移行が図られます。そう、農耕と牧畜の発明です。
 農耕・牧畜の発明は、考古学上の発見では約1万〜9000年前とされていますが、ある日突然農耕と牧畜が発明されたという事は考え難いですよね。ですから、恐らくそれ以前から原始的な“農耕っぽい植物の栽培”や“牧畜っぽい動物との共同生活”が行われていたと考えた方が良いでしょう。ただ、それは今後の研究の成果を待つ事になりますが……。

 さて、今から農耕・牧畜の発生についてのやや具体的な話をしてゆくわけですが、ここでも例によって一般的・平均的な話をします。実際には、農耕や牧畜が始まった年代にしても、地域によってまちまちですし、現代でもほぼ純粋な獲得経済で食料を得ている人々だって存在しているのですので、これを世界共通のお話だと誤解するのは止めて頂きたいと思います。

 まず、牧畜の話をしましょう。
 またここで注意してもらいたいのは、牧畜で食料等を生産する社会というのは、決して農耕社会よりも後進的な社会ではない…という事です。
 後でお話しますように、確かに農耕社会の方がダイレクトに文明や高度に発達した社会の誕生に繋がってはいくのでありますが、それはあくまで結果でありまして、スタート地点は全く同じであります。ただ単に、牧畜に適した環境に住む人々は牧畜をし、農耕に向いた土地では農耕社会が築かれた。ただそれだけなのであります。(それを考えると、未だに狩猟・採集で生計を立てている人たちを不当に低く扱うのも考え物でありましょう。彼らは、農耕・牧畜に適さない土地に住んでいるケースがほとんどなのです)
 ……とまぁ、そういう理屈からも分かりますように、牧畜社会は農耕に余り適さない、砂漠のオアシス地帯や大陸北方の寒冷地域から発生し、定着したと思われています
 どのような課程で野生動物を家畜化したのか、そのプロセスには謎が多いものの、とりあえずは信憑性の高い推測は成り立っているようです。
 まず砂漠オアシス地帯。ここでは、少雨によって水場や草の繁茂地を失ったヒツジやラクダが、“助けを求めて”人間の生活地域にやって来たところで、そこの住人たちに段階的に餌付けされたとの説が有力です。
 そして北方。この植物の生育が望めない地域では、狩猟が生命線であります。なので、北方の社会ではいくつかの集団が集まって、それぞれの集団の“狩猟用の縄張り”を取り決めるルールがあったのではないかと推測されています。そして人々は、その“縄張り”に棲む動物をマークしながら生活していく内に、その動物たちが狩りの対象から餌付けを経て家畜に転化していったのではないか…というわけです。
 この2つの説が本当に正しいかどうかは確かめようがありませんが、どちらにしろ農耕に適さない地域において、何らかのきっかけと手段によって牧畜が始められたのは事実であります。

 一方の農耕でありますが、これは当然、植物の生育・栽培に適した地域で始められたというのは想像に難くありません。
 “農耕”と言うと堅苦しく考えてしまいがちですが、種を埋めて適当に水をやれば、曲がりなりにも植物は育つわけでして、そんなに難しい話ではありません
 何しろ、人間だって何万年も植物の実を採集して食ってるわけですから、種が埋まった所から芽が吹き、さらには花が咲いて、再び実を成らせるという事くらいは早かれ遅かれ気付いているはずであります。要は、それらの事をある程度計画的に、そして家族やホルドを養える位の規模でもってやるようになれば“農耕社会の誕生”となるわけです。
 大昔の学者さんは、農耕は世界のどこかから発生して、それが世界中に広まっていった…と考えていたようですが、今では、大きく分けて4つの農耕文化が発生し、それらがバラバラに広まっていった(そして世界各地でそれらが融合していった)のではないかと考えられているようです。
 では、話ついでに、この4つの農耕文化も簡単に紹介しておきましょう。
 まずはタロイモバナナなどを育てる、東南アジア発祥の根栽農耕文化
 次に、アフリカやアラビア半島のサバンナ地帯発祥の、ゴマヒョウタンなどを育てるサバンナ農耕文化
 そして、地中海東岸からユーラシア大陸全体に広まって、後の文明社会を支えることになる小麦大麦などの地中海農耕文化
 さらにはアメリカ大陸で独自の発展を遂げた、ジャガイモトウモロコシなどの新大陸農耕文化
 ……現代社会では、ほぼ完全に融合しているこれらの農耕文化が、バラバラに発展、伝播していったというのは実に興味深い話でありますね。

 こうして農耕と牧畜を習得した人間たちは、これまでとは違い、食物を自らの手で生産する事が可能になりました。この事を生産経済への移行、または食糧生産革命と言ったりします。
 あ、言い忘れておりましたが、文化の伝播が進むにつれて、農耕と牧畜を両立して実行していた人たちも現れ、増加していきました。
 農耕にも牧畜にもそれぞれのメリットがあるわけですから、人々は自分が生活している環境に合わせて、農耕と牧畜を併用するのは、ある意味当然の事であります。また、農耕・牧畜両手段の併用だけではなく、交易や、時には略奪という乱暴な手段で農作物を得る牧畜民や、肉や乳を得る農耕民がいたことも間違いないでしょう。

 ……と、こうして獲得経済から生産経済への移行について話をして来たわけですが、ここからの更なる社会的な発展、つまり文明の誕生へ話を持っていくとなると、牧畜社会よりも農耕社会の方をクローズアップしなければなりません。逆に言えば、文明を誕生させるためには農耕社会でないといけない理由があるのです。
 この理由を説明するには、ストレートに“文明の定義”を紹介するのが一番だと思います。ここに、オリエント考古学者・ゴードン=チャイルドが示した、「文明とは次のような特徴を持つ」とする定義を箇条書きの形で挙げていきましょう。

 ・効果的な食糧生産をする能力を持ち、実行している。
 ・大きな人口が集住している。
 ・様々な職業が存在し、階級社会が成立している。
 ・都市社会が成立している。
 ・金属器を製造する技術力がある。
 ・文字を有する。
 ・記念碑的な公共建造物(エジプトのピラミッドや日本の古墳など)がある。
 ・ある程度の合理化学の発達が見られる。
 ・支配的な芸術様式が存在する。

 ──これでも分かり難いと思いますので簡単に言いますと……
 多くの人口がまとまって定住し、それだけの人々を養うだけの食料があり、それらについて管理・支配する権力者がいて、その中で政治システムや文化がある程度高いレヴェルまで発達した状態──これを文明と呼ぶのです。

 そして、文明誕生の第一条件である、大量の食糧生産と多人数による定住を実現させるためには、農耕、それも灌漑農業が必要不可欠でした。
 灌漑農業とは、河川などから用水路を引いて来て、作物を栽培する農法です。この農法は、安定して大量の収穫が望める一方で、用水路を作ったり維持するために多くの人手を必要とします
 つまり灌漑農業とは、食料大量生産と多人数の集住が同時に実現するという、文明誕生にとっては“一石二鳥”的なものなのであります。いわゆる“四大文明”が、いずれも灌漑農業の可能な大きい河川の流域に成立したのも、偶然ではないわけです。

 で、多くの人々が住む農耕社会が成立し、その運営が軌道に乗り始めますと、次第に余剰の生産物が蓄積されていきます。
 そしてこの余剰生産物は、宗教的・政治的な指導者や、農作物を略奪するために襲撃してくる外部者から人々を守るための戦争指導者、または精巧な道具や衣類などを作る事のできる職業的スペシャリストに分配されてゆきました。社会全体で特殊な才能を持つ人々を養うシステムの成立ということです。
 このシステムにより、彼らは農業から解放される替わりに、自分たちの仕事に専念する事が出来るようになりました。身分社会の成立と、職業の分化の始まりであります。

 ここまで来れば、もう後はトントン拍子です。人口は増え、生産高も更に増し、文化は発達し、社会システムは成熟して行きます
 そうして文明化が完成された状態になると、各々の社会は、城壁という国境線を持った小さな都市国家となります。今や“国民”となった人々は、土器や金属器を含む道具を使って生活をし、才能に応じて様々な職業に就き、文字を用いて記録を残す事も始めます。また有事の際には、王や貴族などの支配者階級の指導により、整然と軍隊が召集されて戦争へ向かうようになるのです。
 これらの都市国家は、各地域ごとに次第に統合され、やがて統一国家となっていくのですが、それらについては各地方の古代史に譲る事にしたいと思います。

 ……さて、ここまで4回を費やして、人類の進化から文明の発生までのお話をして来ましたが、次からはいよいよ世界の各地域で成立した古代国家についてお話をしてゆくことになります。
 が、そこへ話を進める前に、“インターミッション”として、先史時代の遺跡や遺物を発見した人たちについてのエピソードを1〜2回の予定でお送りしたいと思います。どうぞご期待ください。(次回へ続く

 


 

9月13日(金) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(3)
第1章:先史時代(3)〜原人から新人まで

 ※過去の講義のレジュメはこちら→第1回第2回

 前回はサルからヒトになったばかりの人類である猿人についてお話をしました。今回はその続き、原人から我々の直接の祖先である現生人類(=新人)までの事についてお話をしてゆきたいと思います。

 ……前回の講義の最後で、今から約150万年前にアフリカ大陸東部でホモ=エレクトゥスという、原人の祖先にあたる人類が誕生した事をお話しました。

 この新しいタイプの人類は、従来の猿人よりも脳容量が大きく猿人の500cc前後に対して800〜1000cc)体格も一回り以上大きかったと推定されています。その容姿はと言えば、頭蓋骨の形は未だ類人猿的だったものの、下半身の形は驚くほど現代人的であったようです。
 また一説によると、この原人の祖先は、猿人の中で最も進化していたホモ=ハビリスから進化した姿ではないか…とも言われています。その場合は原人の起源は180万年前くらいまで遡る事になるそうですが、詳しい事は分かっていません。
 
 さて、原人の最大の特徴は、やはり脳容量に比例して発達した知能だったと思われます。
 石器にしても、猿人時代は簡単な礫石器を作るのがせいぜいだったのに対し、原人はそこから更に細工を加えた握斧(ハンドアックス)と呼ばれる石斧や、握斧を作る時に出来た石の破片を利用した剥片石器を作り、利用したと言われています。
 特に剥片石器は、削る・穴を開ける・切る・刻む・突き刺す…など様々な用途に使えるため、彼らの行動のバリエーションを広げるのに大きく貢献したのは間違いないでしょう。
 また、原人の脳容量は、現代人の幼児の脳容量と遜色ないレヴェルに達しており、それを考えると言語(喋り言葉)を操っていたのも間違いないとされています。もっとも、文字として遺されていない言語の存在などに確証は得られないのでありますが……。

 こうして猿人に比べて大きなアドバンテージを得た原人は、あっという間にそのテリトリーを広げて行きます。これも確証は持てませんが、原人の登場からしばらくして猿人がアフリカから姿を消したのは、この原人が猿人たちを片っ端から駆逐して行ったのではないか…という説もかなり有力です。
 もし原人と猿人が戦ったとするならば、現代人で言えば中学生と小学校低学年が殺し合いをするようなものですので、猿人がコテンパンに負かされてしまうのは必然とも言えるでしょう。
 そうする内に、やがて原人たちはアフリカ大陸を飛び出して、何十万年もかけて世界中に散らばって行きます。逆に言えば、アフリカ以外の土地にも適応できるくらいに進化が進んだとも言えますね。

 現在のところ、原人の人骨化石が発見されている地域は、アフリカ以外では西ヨーロッパと東および東南アジアに偏っています。特に有名なのは、中国の北京原人インドネシアはジャワ島のジャワ原人、そして原人としてはかなり進化したタイプと言われているドイツのハイデルベルク人で、いずれも約70万年〜40万年前に存在していた人類ではないかと推定されています。東南アジアの島から人骨化石が発見されるというのは不思議に思われるかも分かりませんが、ジャワ原人がいた頃のジャワ島は大陸と地続きだったんですね。
 ちなみに我が日本でも、数十万年前に原人がいたのではないか…などと言われていたのですが、人骨化石の年代特定が進んだり、認められていた遺跡が捏造されたものだと判明したり(あの“ゴッドハンド”藤村氏の事件です)で、今ではそれを示す物証は皆無になってしまいました。“明石原人”と呼ばれていた人骨化石も、今ではもっと後の時代のものであろうと言われています。

 原人の頃の人類の生活実態を知る上において、最も参考になるのは、中国東部の周口店で発見された北京原人が暮らしていたと思われる洞窟の遺跡です。
 他の地域の原人は草食傾向が強かったようですが、北京原人の遺跡からは様々な動物の骨が残っています。しかも彼らは道具や言葉だけでなく火の使用も習得していたようで、遺跡には焚き火の跡があり、肉を焼くなど簡単な調理をして食事をしていた事が分かっています。しかもご丁寧に骨髄まで道具で掻き出していたと言いますから、相当なグルメであったようです。
 …あと、これはちょっと余談になるのですが、北京原人の遺跡からは、他の動物と同じように食された北京原人の頭蓋骨が発見されています。この食人の風習を“野蛮な”ものとするか、一種の儀式的なものであるとするかで識者の意見が分かれているようです。駒木が偉い学者先生に混じって意見するのは僭越に過ぎますが、それでも敢えて意見をさせてもらえるなら、「腹減って死にそうになったら、そりゃ食ったんじゃないの?」…と言いたいところではありますが。

 …で、この原人たちの消息は、約30万年前を最後に杳として知れなくなります。恐らく猿人の時と同じように、原人のまま滅亡していったり、更に進化を続けていったりしたものだと思われます。
 進化を続けていった人類の方は約20万年前になって、やがてまた新しいタイプの人類となってその姿を現します。これが旧人です。
 旧人も原人と同じように様々なタイプがありますが、特に有名なのは、ヨーロッパから中央アジアまで幅広く分布していたネアンデルタール人です。

 ネアンデルタール人は、容姿などに現代人と多くの類似性を持ちます筋肉が著しく発達し、脳容量も現生人類とほぼ同じかそれ以上になるまで発達しています。もう完全に“人間”と呼ぶに相応しい存在と言えるでしょう。
 ネアンデルタール人の使用した石器は、原人時代に比べてさらに精密さを増し、弓矢の矢尻に使われるような、先のとがった石器(尖頭器)なども作られるようになりました。これらが彼らの狩猟・採集技術の向上に役立った事は言うまでもありません。
 このネアンデルタール人の風習の中で特筆すべきものが、死者の埋葬です。どうやらこの頃には、死者を弔うという発想が完成されていたのではないかと思われます。宗教の原型のようなものが、既にこの時点で形成されていたという事になりますね

 さて。
 こうしてネアンデルタール人ら旧人が、ユーラシア大陸中でそれぞれの生活をしていた約10万年前、人類発祥の大陸・アフリカの西北部から、旧人同様に高度な進化を遂げた、それでいて旧人と全く違う種の人類が現れて、やがてユーラシア大陸に足を踏み入れます。これがホモ=サピエンス=サピエンス。我々現生人類の祖先となる人類──いわゆる新人ということになります。
 彼らの容姿について多くを説明する必要はないでしょう。何しろ、彼らは我々そのものなのですから。勿論、現代人ほど大柄ではなかったでしょうし、未発達な部分も多々残されているでしょう。しかし、確かに彼らは我々と全く同じ種の人類だったのです。

 彼ら新人は、ユーラシア大陸に進出するや、瞬く間にそのテリトリーを広げて行きます。それまでの住人であった、ネアンデルタール人ら旧人は、新人に駆逐されたり、または混血して、“吸収合併”される形で姿を消してしまいます約4万年前には、地球上の人類は全て現生人類に占められるようになっていました。ここに現生人類による“天下統一”が成ったのでありました──。

 ……さて、ここから我々の祖先である新人たちについて述べてゆく所でありますが、今日は残念ながらここで時間となりました。
 次回は、この新人たちによる進歩の歴史──旧石器時代から新石器時代における農耕・牧畜の発明、そして文明の発生までを述べてゆきたいと思います。それではまた、次回をお楽しみに。(次回へ続く

 


 

9月9日(月) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(2)
第1章:先史時代(2)〜人類誕生

 ※過去の講義のレジュメはこちら→第1回

 前回は思い切って“歴史のスタートライン”を7000万年前まで下げ、霊長類が地球上に登場してから、現在のアフリカ大陸で人類が誕生するまでの歴史を述べてゆきました。
 そして今日からは、そうしてヒトと呼ばれるようになった、直立二足歩行をする知能の発達したサルが、我々の直接の祖先である現生人類になるまでを追いかけてゆきたいと思います。

 ……さて、前回の講義の中で「人類が誕生した年代を特定するのは、未だ難しい」と述べました。これは、人類誕生の年代が考古学上の発見とその検証結果に大きく左右されるためであります。
 事実、今から10〜20年前の学校の歴史教科書には、
 「今から約200万年前から猿人が地球上に現れ──」
 …などと書かれていたりします。

 実は20年前には既に、300万年以上前のものと推測される人骨化石が発見されていましたが、その発見から間が余りなかった事(当時で発見後10年弱だった)や、日本では教科書に最新の学説が反映されるのが極めて遅いという事などから、このような話になってしまったのでした。
 余談ですが、最新の学説が教科書に反映されるまで時間がかかるのは社会科・歴史学だけの話ではないようです。駒木の予備校生時代の話ですが、大学教員もしている英語の先生から、
 「最新の解釈が辞書に反映されるまでに5年から10年、そしてそれが教科書に反映されるまでにまた5年から10年。
 せやから、今の君らは、自分が生まれる前の英語を勉強しとる事になるんやで」
 ……などと話してもらったのを思い出します。まぁこれもある意味詮無き事ではありますが、学校で教えてもらった事をそのまま正しい事だと認識していると、大恥をかくことになり兼ねないという事だけは知っておいてもらいたいと思います当講座で習う歴史学もまた、「脚色付のノンフィクション・大河ドラマ」みたいなものだと認識しておけば間違いないでしょう。

 閑話休題。
 ……そういうわけで、人類の誕生については、まだ曖昧な部分が多い事は否めませんが、その希少な史料を拠り所にして、講義を続けてゆく事にします。

 受講生の皆さんも、恐らく中学・高校で学習したように、人類は進化の段階によって4つに分けて語られます。即ち、時代の古い方から“猿人”、“原人”、“旧人”、“新人”…とされる分類であります。この講義でも、この4分類に沿ってお話を進めて行きたいと思います。

 まず初めに“猿人”文字通り、類人猿に近い人類というわけですね。このタイプの人類についてお話をしてゆきましょう。
 猿人はこれから述べますように、様々なタイプが存在した事が分かっていますが、どのタイプにも共通しているのは、全体的な体格や頭部がサルに近い一方で、下半身の骨格は極めて人間的という事。そのため、知能は未発達でありますが、立ち姿や歩き方に人間らしさを漂わせている…まぁ、こんな感じでありましょうか。
 「おいおい、そんなの人間って言えるのか?」…という疑問はもっともではありますが、「ヒトとは、直立二足歩行が可能な、類人猿から進化した動物である」という定義に則ると、猿人もまた人類…とまぁこうなるわけなのです。まぁ、おすぎとピーコも男である、みたいなものでありましょうか。

 …さて、件の700万年前の物と思しき“猿人化石と言われている霊長類の化石”など、未だ検証中のモノはとりあえず扱いを保留して考えますと、現在発見されている中で最も古い人骨化石は約450万年前の物であります。
 この450万年前の人類は、化石が発見された現地(エチオピア)の言葉で「根(=ルーツ)」を意味する言葉「ラミダス」から、ラミダス猿人と命名されています。身長120cm前後、頭部や歯は人間よりチンパンジーに近いものの、骨格上の特徴から人類の絶対条件である直立二足歩行を行っていた事は間違いなく、極めて原始的な人類として認められるものでした。そのため、このラミダス人は、人類と類人猿との進化の枝分かれの直後に誕生したものではないか…などとも言われています。

 さすがに400万年以上前の人骨化石となると、ラミダス猿人の他に人類と確証の持てるものは発見されていませんが、これ以降の年代のものとなると、これはかなりの種類が発掘されています
 発掘された場所は、いずれもアフリカ大陸南部からアフリカ大陸東部。最近になって、猿人と原人の境界線上にあるような人類がアフリカの外に出ていた…とする発見がありましたが、少なくとも人類はアフリカで誕生し、約200万年前くらいまではアフリカにのみで生活していたと思われます。
 ちなみに、最も早く発掘された猿人の化石は、南アフリカのタウングで解剖学者のレイモンド=ダート(鬼籍に入った研究者は呼び捨てで記すのが業界内のルールだそうです)が1920年代に発見したもので、ダートが“タウングの子供”と呼んだ子供の人骨化石です。そして、この人骨化石を学会で発表する際に命名された学名がアウストラロピテクス・アフリカヌス(直訳すると、「アフリカの南のサル」)。そう、我々が中学・高校時代にバカの一つ覚えのように暗誦させられた、猿人全体を表す言葉・「アウストラロピテクス」の名称はここから生まれたというわけです。

 …で、この猿人たちなのですが、どうやらこの猿人たちは1つの種としてまとまっていたわけではなくて、それぞれ各地で異なる種の猿人が独自の進化を遂げつつ代を重ねていったようです。つまり、進化の枝分かれは人類になってからも続いていて、猿人の中には猿人のままで滅亡していった種も多数あったという事になります。
 そうして数百万年に及ぶ、気の遠くなるような猿人同士の進化競争が繰り広げられ、やがて約200万年前になって、猿人の中でも画期的な種が現れます。ホモ=ハビリスです。化石が発掘された場所から、今のタンザニアやケニアの辺りで誕生し、やがて北へ北へと移動していったものと推測されています。(注:「世界史B用語集」には400万年前の種と書かれていますが、誤りです)
 このホモ=ハビリスは、これまでの猿人に比べて脳容量が大きい(約500cc)のが特徴とされ、それ相応の知能の発達が認められています。
 ホモ=ハビリスが猿人の中でも画期的とされる最大の理由は、この猿人が石器を作って使用していた事が分かっているからです。ホモ=ハビリスとは、「器用なヒト」という意味。名は体を表すという典型例であります。
 ただ、石器と言いましても、サルに毛の生えたような脳しか持たない猿人でありますから、複雑な物は無理であります。その石器は、手ごろな石英質の石ころを互いにぶつけ合って石の一端を打ち欠き、そうやって鋭利な刃をつけさせた…という簡単な物でした。これを「礫石器」と言います。ですから、学校で習う「猿人は簡単な石器を作り云々…」という部分は、このホモ=ハビリスについて述べたものであると考えて良いでしょう。

 こうして人類はゆっくりとした歩みながらも、確実に進化を続け、より人間っぽい動物へと変わってゆきました
 そして今から約150万年前、まだ猿人たちが多数生活するアフリカの東部で、明らかにこれまでとはタイプの違う人類が登場しました。
 150万年の時を経て、ホモ=エレクトゥスと呼ばれることになるこの新しい人類こそ、猿人から次の段階へ進化した、原人の祖先にあたる人類だったのです──。

 ……と、今日は猿人の歴史だけで時間を費やしてしまいましたが、次回は少しペースを上げて、原人から新人までの歴史をお話してゆきたいと思います。(次回へ続く

 


 

9月4日(水) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(1)
第1章:先史時代(1)〜人類以前 

 お約束どおり、いよいよ当講座開講以来のロングラン・シリーズ・「学校で教えたい世界史」のスタートとなります。
 このシリーズに関しては、既に開講前から受講生の皆さんには大きな期待を寄せて頂いており、大変有り難く思っています。皆さんの期待を裏切らないよう、一生懸命頑張りますので、どうぞよろしくお願いします

 昨日のガイダンスで言い忘れていたのですが、現在の駒木研究室はスキャナすら無いという悪環境に置かれており、そのため皆さんには地図を含んだビジュアル資料の提示が出来ない状況にあります。
 深刻な予算不足の折、なかなか環境改善までの道は遠いのですが、それでも何とか出来るだけ早く環境を整えたいと思っておりますので、どうぞご理解下さいませ。(もし、不要になった型落ちのスキャナを寄贈して頂ける方がいらっしゃるなら、是非ともメールでお知らせ下さい。ご相談の上、送料当方負担で引き取らせて頂きます
 つきましては、当講座をスムーズに受講して頂くためにも、お手元に世界地図か学校で使用されている地図帳などを置いて頂ければ…と思います。高校世界史の資料集や受験参考書をお持ちなら、勿論そちらの方が受講に適しております。
 また、多分いらっしゃらないと思いますが、「高校の教科書と資料集を新たに揃えて受講してやろう」という方は、教科書を取り扱っている書店に行かれて、帝国書院の教科書と資料集、さらに山川出版社の「世界史B用語集」(こちらは大手書店ならどこでも売ってます)をお求めになって下さいませ。3冊合わせて2000円程度になると思います。駒木は別に帝国書院さんの回し者ではありませんが、書かれている内容に最近の学説が多数含まれており、当講座には最も適していると思われるのです。

 前置きは以上。それでは本題に入ります。


 さて、世界史を語るにおいて、まず語り手を困らせるのは、そのスタート地点をどこから置くのか…という事であります。

 一番簡単なのは“有史以来”、つまり信用するに足る文献資料が残されている時点から語る事でありますが、これだと多めに見積もっても紀元前3000年頃からの5000年程度にしかなりません。旧約聖書等の半ば神話的な史料を用いても1万年は下らないでしょう。
 しかし、人類が地球上に現れたのは、従来の定説に拠れば約500万年前であります。そんな人類の歴史を語るのにスタートラインが1万年前では、いくらそれ以前の歴史史料が極めて貧弱な物であるとは言え、さすがに寂し過ぎる印象が否めません。
 そういうわけで、世界史を語る時は、大抵は約500万年前、最古の人類とされる猿人の登場した時点にスタートラインを置くのが普通であります。確かにこれならば、世界史、即ち人類の歴史を全て語る事になるわけで、正しい認識であると言えるのではないかと思われます。

 しかし、人類はいきなり人類として地球上に姿を現したわけではありません。現在の人類とは似ても似つかないような祖先から長い年月をかけて進化を繰り返した末に辿り着いた姿、それが人類なのであります。(注:一部の宗教には、人類は人類として誕生したとする説をとるものもありますが、ここでは一般的、科学的な観点から話を進めます)
 歴史を辿っていくという作業をしていく以上、遡れるところまで遡ってから話を始めるべきでありましょう。しかし、かといって話を地球の誕生にまで遡ってしまっては、それは歴史学ではなくて科学の話になってしまいます。やはりある程度の妥協点は必要であります。
 そこで、このシリーズでは、そのスタート地点を人類の直接の祖先である霊長類の誕生、即ち7000万年前に設定し、そこから話を始める事にしたいと思います。そして今日の第1回では、霊長類(つまりサルの仲間)からどのようにして人類に辿り着いたのか…という事をお話してゆくことにします。

 ──7000万年前に現れた霊長類の祖先は、サルというよりも、むしろネズミのような極めて原始的な姿をしていたと思われます。そしてそれは、住む環境に合わせて体の一部、または大部分を特殊化してしまった他の哺乳類とは異なり、原始哺乳類から極めてバランス良く進化した姿でありました。馬のように走り易いように四肢の指を退化させる事無く、象のように体の一部分を著しく変形させる事も無く、牛のように消化器の構造を変えてしまう事も無かったのです。
 そして、霊長類のもう1つの特徴としては、熱帯・亜熱帯の樹上で生活するのに適応していた…という事が挙げられます。嗅覚はやや衰えたかわりに視覚が発達し、さらには握力が発達して、指を使った細かい作業が出来る可能性が生まれます。この発達した手先を使った作業は脳を刺激し、これが霊長類が進化するたびに知能も発達してゆく直接の理由となりました。

 …こうして全哺乳類の中のエリート的存在として誕生した霊長類は、さらにバランス良く進化を続けてゆきます。当然、この徐々にネズミからサルに近付いてゆく原始動物の中に、我々人類の直接の祖先がいた事になります。
 しかし、全ての霊長類が全く同じような進化を続けていけたわけではありませんでした。霊長類の中には、より環境に適応するために、やや特殊な進化をしてしまうアウトローな霊長類もいたのです。そんなアウトローたちは、バランスの良い進化を続けていった他の霊長類とは段々違う姿になってゆき、やがて明らかに違う動物になってしまいました。これが進化の枝分かれです。
 霊長類としての最初の大きな枝分かれは、約5300万年前から長い年月をかけて緩やかに進行しました。この時、アウトローとして枝分かれしていった霊長類がさらに独自の進化を続けて行ったものが、現在のメガネザルやキツネザルにあたります。これらのグループを原猿亜目と言い、バランスの良い進化を続けていった他の霊長類──真猿亜目と区別されます。

 こうしてかつての仲間・原猿亜目に別れを告げた真猿亜目に属する霊長類は、やがて明らかにサルと言って良いような容姿にまで進化を遂げます。体長も大きくなり、2本の前足は手としての用途を果たすように発達。木の枝を掴んで、枝から枝へと移動してゆく“枝渡り”が出来るようになりました。
 ここからまた、徐々に進化の枝分かれが始まります。約3500万年前から、例によって緩やかに分化されてゆきます。
 ここで“アウトロー”になったのは、木の上の生活に適応するために、前足(腕)が長くなったり、手の形が縦に長く発達するサルたちです。これが今のクモザルなどに分類されるものの祖先となりました。
 この枝分かれでもアウトローとならなかったサルたちは、“ヒト上科”、つまりは類人猿に分類されることになります。“ヒト上科”に分類されたサルたちは必要性の薄れた尻尾が退化し、より人間に近付いてゆきます。
 
 そうして誕生した高度にバランス良く進化を遂げた霊長類、いや類人猿も、やがて住んでいた環境によって分化が始まります。1つは主に樹上で生活をしていた類人猿で、もう1つが地上でも生活するようになった類人猿でした。ここで“アウトロー”の第3弾として人間に近付くのをやめた類人猿の子孫は、樹上生活するサルでした。今のテナガザル科オランウータン科に分類されるサルたちになります。
 一方、地上生活が可能になるまでに進化した類人猿は“ヒト科”に分類されます。いよいよ人類まであと一歩。ついにリーチです。

 このヒト科の類人猿が進化を続けてゆく中で、アフリカに住んでいた一部の連中が、ある時から樹上生活を放棄して、完全な陸上生活を始めます。いや、正確に言えば、自然環境の変化で住んでいる地域が草原になってしまい、樹上生活が難しくなっただけだったのですが。
 この完全陸上生活を始めた類人猿は、その生活に適応するために、代を重ねるごとに樹上生活用の機能を退化させ、また、陸上生活に最も適した直立二足歩行を身につけることになりました。そして、この直立二足歩行が人類へ進化する決め手となったのです。
 直立二足歩行という姿勢は、脊椎とそれに連なる頭蓋骨を地面に対して垂直になるように変化させてゆきます。これは脳を収める容量を飛躍的に大きくしてゆくという事を意味します。さらに二足歩行は、前足、つまり手を細かい作業に専念させる事にも繋がり、それは脳の成長を促す刺激を生み出す事にもなったのでありました。こうして直立二足歩行を身に付け、それに付随して脳と手を極めて高度に発達させた類人猿は、もはやサルではありませんでした。霊長類の新しい種“ヒト亜科”、つまり人類の誕生です。
 その一方で、人類になり損ねた類人猿は、やがてチンパンジーやゴリラへと姿を変えてゆきます。これが人類誕生以前最後の進化の枝分かれとなりました。

 この進化の枝分かれが人類誕生の瞬間となるわけなのですが、これがいつ起こったかというのは未だ正確に把握できていません
 DNAの分析によると、人類と最も人類に近い類人猿であるチンパンジーとの枝分かれは約500万年前とされていますが、今年になって約700万年前の人骨と思われる霊長類の化石が見つかりまして、この説の信憑性も大きく揺らいでいます。
 そういうわけで、人類誕生の瞬間を正確に知る事が出来るようになるまでには、まだまだ随分と時間がかかりそうです。この件に関しては、当講座としても将来の楽しみとして取っておく事にします。

 ……何はともあれ、こうしてアフリカ大陸に原始的な人類が誕生し、人類の歴史が始まりました。この極めてサルに近い人類が、どのような歴史を辿って我々現生人類にまで至ったのでしょうか。次回の講義はこれをテーマに話を進めてゆきたいと思います。 

 それでは、今日の講義を終わります。(次回へ続く

 


 

7月19日(金) 歴史学(一般教養)
「短期集中企画・駒木博士の歴史覚え書き(4・終)」

 採用試験直前の苦し紛れで始めたこのシリーズですが、一応今回でひとまずの区切りとさせて頂きます。
 いや、講義そのものは楽で良いんですけどね(笑)、でも楽するために講義をしたんじゃ本末転倒ですので、戒めの意味もこめて封印とします。ただ、運良く採用試験を1次通過してしまったら、2次対策のために復活する可能性もあります。心有る受講生の方は、8月上旬の今シリーズ復活を祈ってくださいませ(苦笑)。

 覚え書き4・ギリシア正教がロシアの宗教になった理由とは?

 日本のように宗教色の薄い国は別にして、大抵の国には国教や、国民の多くが入信している宗教なんてものがあります。アメリカやイギリスにとってのそれは勿論キリスト教ですし、イスラエルを除く中東のアラブ諸国の多くはイスラム教が国教とされています。
 そして、それらの国が自国の宗教を持つようになった契機というものも当然あります。イギリスは中世初期のローマ教会によるゲルマン布教がきっかけですし、アメリカは、そのイギリスからの移民が作った国ですから、当然キリスト教の国になるわけです。中東各国は、もちろんイスラム教の教祖・ムハンマドのお膝元であった事が大きく影響していることでしょう。まぁ、大抵はマトモな理由で信仰を始めています。当たり前ですけど。
 しかし当然、物事には例外がありまして、中にはとんでもないというか、「これでいいのか?」という理由で、宗教を決めてしまった国もあります。今日はそんな国・ロシアのお話を。

 
 今はロシア共和国と呼ばれている国が、少し前まではソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)と呼ばれていた事は受講生の皆さんもご存知でしょう。ソ連は共産主義国家でしたので宗教はご法度。そのため、全くと言っていいほど宗教文化は発展しなかったわけですが、さらにその前身であるロシア帝国には、ちゃんとした国教が存在していました。それは東ローマ生まれの宗教・ギリシア正教です。
 ギリシア正教という言葉に耳慣れない方もいらっしゃるかも知れませんが、簡単に言うと、ローマ=カトリックと仲違いした兄弟のような存在の、キリスト教の一派です。
 そんなギリシア正教がロシアの国教になったのは、まだロシアが領土も小さく、キエフ公国と呼ばれていた10世紀末〜11世紀初頭の頃のお話です。

 当時の君主であるキエフ大公・ウラジミール1世は、我が手によって着実に成長しつつある自分の国を誇らしく思いつつも、1つだけ気になって仕方ない事がありました。
 それは自国の宗教というものが存在しない事。「信じている宗教が無い=野蛮」という印象が否めない時代でしたので、自分の国が野蛮人の国と思われる事が嫌で仕方が無かったわけですね。
 そこで大公・ウラジミールは考えました。自分の国も1つ、国教とすべき宗教を採用しよう。で、どうせ1つ決めるのなら、多くの宗教を比べてみて一番信じて都合が良さそうな宗教にしよう、と。合理的ではあるんですが、何だか苦笑いしてしまいますよね。

 で、一度決めたら話は早い。ウラジミールは様々な宗教の宣教師と面会してセールストークをさせる一方で、自分からも各国へ使いを出し、どの宗教の国が反映しているかリサーチを掛け始めました
 ウラジミールがお触れを出すや、1つの国の国民丸ごとが信者になるチャンスとあって、様々な宗教の宣教師がやって来ました。しかし、どの宣教師もなかなかウラジミールの心を打つまでには至りません。まぁそれもそうです。何せ、ウラジミールには宗教心がほどんど無いのですから。「どれ、自分の国に箔をつけるためだ。ナントカ教とかいうヤツを採用してやろうか」…ってノリなのですから、苦戦するのも必至であります。
 特に可哀相だったのはイスラム教で、宣教師役を務めたイスラム教徒が切々とイスラム教の素晴らしさを説明するのですが、ウラジミールは有り難い言葉など耳に入らない様子。挙句の果てにはこんな問答になってしまいました。

 「お前の話を聞いておると、イスラム教を信じてしまうと豚肉と酒を口にする事が出来んようだが、それは真か?」
 「はい、そうでございます」
 「ワシはな、美味い豚肉を肴に酒を呑むことが楽しみなのじゃ。それが出来んのであればイスラム教など信じる甲斐はないのう。もうよい、退がれ」
 「しかし大公様、我らの宗教の素晴らしさを…」
 「いいから退がれ!」

 ……というわけで、ロシアはイスラム教国にならなかったんですね(苦笑)。

 結局決め手になったのは、東ローマ帝国の首都・コンスタンティノープルとその宮殿が非常に華やかで豪華絢爛だったこと。そのリサーチ結果を聞いたウラジミールは、
 「そうか、ギリシア正教とやらを信じれば、そんなに国が繁栄するのか!」
 …と、ギリシア正教の採用を決めてしまったそうです。なんて単純……いやいや(苦笑)。

 結局、キエフ公国はロシア帝国に名を変えた後もギリシア正教の国として栄え、総本山の東ローマが滅亡した際には、最後の東ローマ皇帝の姪をロシア皇后として迎え、東ローマとギリシア正教の正統な後継者となることになったのでした。世の中、何がどうなるか分からないですね…というところで、今日はこれまでにしたいと思います。ではでは。

 


 

7月17日(水) 歴史学(一般教養)
「短期集中企画・駒木博士の歴史覚え書き(3)」

 覚え書き3・もう1つの歴史教科書問題!?

 学校現場で歴史に関わっていると、時々思いがけない事態に遭遇してしまったりします。
 今年、駒木が身をもって体験したのは、
 「教科書によって書かれてる内容が大きく違う分野がある」
 ……ということでした。いや、あの某右翼チックな団体が作った教科書の事を言ってるのではありませんよ。あれは中学の歴史教科書で、今回のテーマは高校の世界史の教科書です。

 「世界史用語集」をお持ちの方はご存知でしょうが、現時点で刊行されている世界史B(普通の世界史と考えてください)の教科書は、全部で18冊もあります
 しかし、これらは同一基準の検定を通過していますので、ほとんどの内容は似たり寄ったり。相違点を挙げるならば、写真や挿絵などが違ったり、分野ごとのまとめ方が違ったりする程度でしょうか。
 だから、原則的にはどの教科書を使っていても、覚える内容には大差はありません。いや、あったら大事です。
 だって、学校の教科書は大学受験用の虎の巻でなければならないのですから。教科書ごとに内容がバラバラだったら、どの教科書を信じて受験勉強をすれば良いのか、はたまた大学側もどの教科書を参考にして問題作りをしたらいいのか分からなくなってしまいます。

 ところが、教科書によって、内容が大きく違う歴史の一分野が存在するんです。年号、登場人物、歴史上の出来事、もう全てが大違い。どっちを覚えれば受験に対応できるのか、非常に頭を悩ませる羽目に陥ってしまってます。

 そんな人騒がせなのはどの分野かといいますと、それは中世モンゴルの歴史なんです。そう、チンギス某とかフビライ某とかが出て来るモンゴル帝国の歴史です。
 例えば、「モンゴル帝国」という国の存続した年号からして教科書によって違います。一方は「1206〜1271(年まで存続)」と書いてあるのに、別の教科書には「1206〜1388とか書いてあったりします。また他にも、一方の教科書では歴史上の大事件として扱われている「ハイドゥの乱」という内乱が、別の教科書では、まるで無かったかのように扱われていたり…なんて事も。
 一番極端な例としては、「モンゴル帝国内はモンゴル人第一主義と呼ばれる厳格な身分制度があった」という教科書と、「そういう風によく言われてるけどなぁ、そんなの本当は無かったんだよ」という旨が明言されている教科書があったり。歴史に詳しくない人が両方の教科書を見比べたら、一体どっちが本当なんだよって混乱する事間違いナシです。

 どうしてこんなヤヤコシイ事が起こったのかというと、それには深いようで結構単純な理由が潜んでいたりします。

 理由をごく簡潔に言うと、実は今、モンゴルの歴史は大胆に書き換えられている真っ最中なんです。

 おそらくここ10〜20年くらいの話だと思うんですが、日本の歴史学界でモンゴル史を深く研究しようという気運が高まり、しかもその中で重要な史料が次々と研究対象になっていって、これまでは全く知られていなかった事実が色々と判明して来ました。
 しかもその新たに判明した事実というのが、ことごとく旧来の定説とは全く違っていたり相反する内容だったりしたので、歴史業界は大混乱になってしまいました。それがモンゴル帝国の年号だったり、ハイドゥの乱の有無であったり、身分制度の有無であったりするわけです。

 しかしこうした混乱も、モンゴル史学者の先生方の頑張りのおかげで、新発見された事実が歴史業界内に浸透したためようやく終息へ
 最新の通史シリーズ『世界の歴史』中央公論新社版でも、モンゴル史学研究の大将格の先生がモンゴル史を執筆されていて、旧来の定説が完全に覆された事が印象付けられました

 でも、それで「メデタシメデタシ」にならないのが歴史業界の辛いところ。これだけモンゴル史が見直されたりしても、一部の教科書は未だに旧来の定説がそのまんま載っていたりするんですね。だから冒頭で述べたようなイタい出来事が起こったりするんです。
 しかも、タチの悪い事に、最も多くの学校で使われていると思われる山川出版社の教科書が旧説が満載なものですから、余計に話がややこしくなるわけです。

 あまり知られてませんが、歴史教科書って結構いい加減に作られてるんです。
 著者には歴史学会の重鎮・長老が名を連ねていたりしますが、先生ご自身がペンを執るなんて事は稀大抵は自分の研究室の院生に書かせたり、時にはロクに調べもせずに前の教科書本文をそのまま転用しちゃったり。その結果、実はもう学会では古臭すぎて使いようの無い説が堂々と教科書に掲載されていたりするわけです。
 で、キャリア30年とか言って、実は30年前の知識をそのまま授業で披露しているだけのベテラン高校教員がそんな教科書を使って授業したりすると、間違ったモンゴル史を垂れ流すだけで終わる…という最悪の事態になってしまうわけです。

 駒木は幸いにも大学時代に新しいモンゴル史を1年間受講していたので、旧説の教科書を使って新しい説のモンゴル史を教える…なんていう力技も出来たりします。ただ、それにしても「受験用には教科書の内容も覚えておけよ」なんて注意もしなきゃいけないんですけどね。いやはや、全くムチャクチャな話ですよ。

 ……ところで、新しく塗り替えられたモンゴル史の中で、特に旧来の説から大転換されたものがあります。

 それは、西欧からやって来た大商人・マルコ=ポーロについてのお話です。

 皆さんもご存知ですよね? マルコ=ポーロと彼の著書である『東方見聞録(世界の記述)』。知らないとは言わせませんよ。義務教育ですからね。
 彼の経歴を簡単に説明すると……

 マルコの父と叔父(共に商人)が、仕事中のアクシデントのためにモンゴル支配下の中国へ流れ着き、そこで中国の素晴らしさに目覚める。
 ↓
 彼らは帰国するなり、当時まだ少年のマルコに中国の素晴らしさを切々と語る。それを聞く内、マルコは中国への羨望を抱くようになる。
 ↓
 成人したマルコ、お供を連れて中国へ。そこでフビライ=カァンに面会し、大層気に入られて大元王朝の役人となる。
 ↓
 役人としての仕事は、東南アジア貿易の顧問や都市の太守など。10数年間にわたってフビライに仕えた後、彼の反対を押し切ってヨーロッパへ帰還。
 ↓
 帰国後、戦争とそのトラブルに巻き込まれて投獄される。そこで中国やアジアについての体験談等を口述筆記で記録してもらう。これが本になったのが『東方見聞録』。

  ……というもの。そのリアルな経歴の内容に加え、マルコの精密な肖像画まで残されていたため、長年にわたってマルコ=ポーロと『東方見聞録』に関する話はマジ話として伝えられて来ました

 しかししかし、最近の研究で、大元王朝時代に残された大量の歴史資料(中国において歴史編纂は国家事業なので史料は掃いて捨てるほどある)を調べてみたところ、意外な事実が判ったんです。
 なんと、どの史料をあたってみてもマルコ=ポーロ、またはそれに相当する西洋人が当時の中国に存在した痕跡が無いのです。
 そう、マルコ=ポーロは実在しない(または実在が著しく疑われる)人物だったのです。我々は長い間、まんまと騙されてしまっていたわけなんですね。

 じゃあ、“マルコ=ポーロ著『東方見聞録』”とはどんな本なのかといいますと、これはどうやら当時の旅行家たちが掻き集めてきたアジアの情報や見聞をまとめた本のようなのです。つまり、マルコ=ポーロとは合作のペンネームだったわけですね。今で言えばCLAMPさんみたいなものですか。
 多分、マルコ=ポーロの経歴なんてのは、当時の『東方見聞録』編集スタッフがシャレで作ったギミックだったんでしょうね。まさか設定を作った人も、数百年後に自分が作った偽設定が歴史事実と認定されていたとは思わなかった事でしょうね。

 …と、とりとめもなくダラダラとお話しましたが、今日はこれまで。このシリーズはとりあえずあと1回くらいで一区切りにしたいと思います。ではでは。(次回へ続く

 


 

7月14日(日) 歴史学(一般教養)
「短期集中企画・駒木博士の歴史覚え書き(2)」


 覚え書き2・700万年前の人類化石発見!?

 さて、ちょっと今日はタイムリーな話題を。

 先週の新聞紙面でも大きく採り上げられました通り、アフリカで700万年以上前の人骨化石と思われるものが発見されました。
 普通、新聞紙上で採り上げられる“歴史上の大発見”なんてのは、1人の学者が発表した確定前のただの新説だったりしますので、全くアテにならなかったりするんです。けれども、今回の発見は現物が公開されてますし、ある程度議論を重ねた上での発表ですので、ある程度の信憑性はあると思います。学会でそれが定説になるまでには、まだしばらく時間がかかると思いますが、恐らくそうしないうちに人類の歴史の1ページが塗り替えられるのではないかと思われます

 ところで受講生の皆さんは、人類と類人猿はどこで区別するのかご存知でしょうか?
 実のところ我々が「猿人」と呼んでいる原始的な人類は、知能や容姿など見ても、どちらかと言えばヒトよりもサルに近いのです。
 猿人の容姿、特に顔貌は明らかにサルっぽいですし、脳の大きさも我々現生人類とは比べものにならないほど小さいです。当然、言葉を使用する事は出来ませんし、石器と言うには余りにも原始的過ぎる道具を使えただけと言われています。

 では何故、猿人はサルではなくて人類の仲間に入れてもらえるのか?

 それは、猿人には類人猿に無くて人類だけにある特徴を持っているからなのです。

 ん? ちょっと誰ですか、「それ四十八手だろ?」とか言ってる男子校の高校生みたいな困った人は(笑)。
 原始人類の性生活を研究してる学者さんは皆無に近いでしょうけど、猿人が松葉崩しとかしてたらギャグででしょ? それは。その手のバリエーションってのは現生人類の大脳新皮質が為せるイマジネーションの産物でしょう。
 ていうか、実はゴリラには四十八まではいきませんが四手か五手はある事が報告されています河出文庫版「世界の歴史」1巻図解入りで解説されてますので、興味を抱いてしまった人は一度見てみてください。

 脱線はこれくらいにして、正解を発表しますね。
 答えは直立二足歩行です。まっすぐ背筋を伸ばして、前足(手)を一切使わずに歩行する事ができる類人猿は、実は人類だけなんですよね。
 そうして前足を、歩行ではなくて道具を扱う手をしてのみ使用するようになると、脳が刺激されてゆき、徐々に人間らしい脳に進化していくようになるんですね。また、直立姿勢というのは、大きな脳が収容できる頭蓋骨になりやすいんです。つまり、直立二足歩行が人間らしい進化を助けるという事になるわけですね。
 そして、今回発見された700万年以上前の人骨化石も、直立二足歩行の証拠があるというわけなんですね。発見されたのは頭蓋骨の化石だけなんですが、首の骨との繋ぎ目を見ると、どうも直立姿勢をとっていたようなのです。もっとも、これは首より下の骨の化石が見つからない限り、疑いの目を向ける反対派の学者が絶えないでしょうけれども。

 そう言えば今回の大発見で、気になる事がもう1つあるんです。
 それは何かというと、実は現生人類の遺伝子を分析した結果では、人類と最も進化した類人猿であるチンパンジーの分岐点は、約500万年前にあったとされているのです。つまり、遺伝子レヴェルでは700万年前の時点で人類がいたというのはおかしいという事になるわけです。
 もっとも、今回は人骨化石の現物という動かぬ証拠が出ていますので、その化石の年代測定に誤りが無い限りは、遺伝子分析の方が間違いである、という結果になりそうなんですが、これってちょっと興味深いですよね。
 ひょっとしたら、今回発見された人類の化石は、“早く生まれすぎた人類”の化石かもしれません
 今の人類に繋がる原始人類がチンパンジーと分岐する200万年ほど前に、突然変異的に現れた原始人類で、それが何らかの理由で滅亡し、結果的に今の人類の祖先にはなり得なかった
……そういう考えだって出来るんですよね。ちょっとしたSFみたいな話ですけれども──。

 とりあえず、ここから先は一生懸命研究されている考古学・人類学者さんたちのお仕事ですので、歴史学の講師としての無責任な詮索はやめておきましょう。でも、ちょっと無責任ながらもワクワクする想像をしてみる、これも歴史学の1つの魅力でもあるんですよね。

 とりとめのない話になりましたが、今日はこんなところで失礼します。(次回へ続く

 


 

7月9日(火) 歴史学(一般教養)
「短期集中企画・駒木博士の歴史覚え書き(1)」

 皆さんもご存知の通り、教員採用試験が近付いて来まして、ここ最近は、なかなか講義に時間が割けなくなってしまいました。
 それでも簡単に休講としてしまうのは忍びないですので、採用試験で改めて猛勉強中の歴史学から、少しばかりマニアックな話を受講生の皆さんに提供してみようかと思い、この企画を立ち上げました。とりあえずは今週一杯、今日含めて2〜3回の予定です。ボリューム面でも短縮授業になりますが、どうぞご了承を。


 覚え書き・1 金庫番たちのマル秘訓練

 これは中国最後の王朝・清王朝(1636〜1911)でのお話。
 この王朝、前半に才能豊かな君主が連続して長期間在位した事もあって、中国史上でも指折りの存続期間を誇る王朝となりました。
 しかし、長い間の安泰が続いてしまいますと、段々と平和ボケしてタガが緩んで来るものであります。これはそんな頃のお話。

 普通、兵士たちにとっての栄誉といえば、軍功を挙げ、それを認められて将軍へと出世する事でありますが、平和が続き、兵士たちに厭戦ムードが漂い、戦争に価値が見出せなくなって来ますと、そういう出世欲も失せてしまったりします。
 そういった状況下で、兵士たちに一番人気のあった役職は将軍などではなくて宮廷の金庫番。何のことはありません。要は金庫の中身である金塊をチョロマカす特権があるからなんですね。
 勿論、国の金庫ですから、そう簡単に中身を拝借する事なんて出来ません。仕事終わりには全裸にさせられて綿密な身体検査を受けます。普通に考えたら金塊を持ち出すことなんて不可能です。
 しかし、どれだけ検査を厳しくしても、国の金庫からはかなりの量の金塊が流出してしまうんですね。しっかりと兵士たちが持ち出して行ってしまうんです。

 さて、どうやって持ち出したんでしょう?

 答えは正にコロンブスの卵。体の中に金塊を隠して出て来たんです。
 …とはいっても口の中じゃありませんよ。それじゃあ一発でバレてしまうじゃないですか。胃の中でもありません。さすがに金塊は丸呑みして吐き出すのは困難でしょう。

 隠した場所は、なんと尻の中なんです。そうです。尻の穴からズブズブと金塊を埋め込んでいったんですね。タチの悪いホモビデオみたいな話ですが…。
 なので、当時の兵士たちは、一生懸命尻の穴をユルくするうように研究・努力をしていたそうです。何せ拝借するのは金塊ですから、一度成功してしまえば見入りも大きいですからね。果てには指南書のようなモノまで出回って、「油を塗れば良い云々……」とか。

 戦い方の訓練よりも、尻の穴を緩める訓練。
 こんな軍隊を抱えた国の前途が明るいはずはありませんよね。正に「尻をギュッと締めんかい!」といったところです。

 というわけで(?)、こんな風潮が蔓延してから間もなく、清王朝は近代化が遅れていた事もあって、ヨーロッパ諸国との戦争にボロ負けするようになってしまいます。そしてやがて、それまで歯牙にもかけていなかったアジアの小国・日本に日清戦争で完敗し、半植民地化への道を転がり落ちてゆくことになるのです


 ……と、こんな感じでお送りしてゆきます。次回もどうぞよろしく。(次回へ続く


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