「社会学講座」アーカイブ(世界史・2)

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講義一覧

2/24 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(30)
 
第3章:地中海世界(11)〜ペルシア戦争《1》 
2/12 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(29) 
第3章:地中海世界(10)〜ギリシアの盟主・アテネの成立とその歩み《続々》
2/3  歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(28) 
第3章:地中海世界(9)〜ギリシアの盟主・アテネの成立とその歩み《続》
1/29 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(27) 
第3章:地中海世界(8)〜ギリシアの盟主・アテネの成立とその歩み
1/20 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(26) 
第3章:地中海世界(7)〜軍事都市国家・スパルタの成立《続》
1/14 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(25) 
第3章:地中海世界(6)〜軍事都市国家・スパルタの成立
1/5  歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(24) 
第3章:地中海世界(5)〜ポリスの形成と発展

↑2003年分 /↓2002年分

12/15 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(23) 第3章:地中海世界(4)〜エーゲ文明に生涯を捧げた学者たち《続々》
12/8  歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(22) 
第3章:地中海世界(3)〜エーゲ文明に生涯を捧げた学者たち《続》
11/27 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(21) 
第3章:地中海世界(2)〜エーゲ文明に生涯を捧げた学者たち
11/20 歴史学(一般教養)「学校で教えたい世界史」(20) 
第3章:地中海世界(1)〜エーゲ文明

 

2月24日(月) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(30)
第3章:地中海世界(11)〜ペルシア戦争《1》 

※過去の講義レジュメ→第1回〜第19回第20回第21回第22回第23回第24回第25回第26回第27回第28回第29回 

 進行度合が遅れ気味の上、講義の間隔が開いて申し訳有りません。どう考えても3月一杯で区切りがつけられるとは思えませんが、前々から言っておりますように、この「学校で教えたい世界史」はライフワーク的に今後もジワジワと進めていくつもりですので、業務縮小後もどうぞよろしく。
 さて、今回からは、古代ギリシアで起こった最初の大戦争・ペルシア戦争のお話をしてゆきます。
 局地的な武装蜂起をきっかけにギリシア世界全体が存亡の危機に陥り、またそれを奇跡的に乗り越えてゆく様子をつぶさにご覧頂きたいと思っております。

 
 このペルシア戦争は、その名の通りギリシアとペルシアの戦争であります。ペルシアというのは勿論、この講義の第19回でお話しましたアケメネス朝ペルシアの事。あの古代オリエント史の最後を飾る大帝国に他なりません。
 当時(紀元前5世紀初頭)は東方世界の雄・中国が群雄割拠の春秋時代でありますし、後に世界の西半分を平らげるローマも未だイタリア半島統一すら覚束ない小国。ペルシアはまさに世界一の超大国だったのです。
 そんな天下のペルシア帝国と、都市国家の寄せ集めであるギリシアが20年弱にも及ぶ全面抗争を繰り広げてしまったのが、これからお話するペルシア戦争であります。しかもこの戦争を先に仕掛けたのは、すぐ後からお話しますようにギリシアの方からでありました。ハッキリ言って正気の沙汰ではありません。今で言うならば、アメリカ相手にイラクや北朝鮮の方から戦争を仕掛けるようなものです。
 しかし、史実はそのような非常識なルートを辿りました。
 ならば、一体どうしてこんな風に歴史は動いてしまったのでありましょうか? 
 その問いに答えを出す意味でも、まずは戦争に至るまでのエピソードを紹介してゆきましょう。 

 ──時に紀元前522年、物凄い勢いでオリエント世界を征服していったアケメネス朝ペルシアに新しい王が誕生しました。その名はダレイオス1世。エジプトに没した先王・カンビュセス2世の跡目を巡る戦いを制して、王座に君臨した人物だという事は、既にお話した通りであります。
 また、これも既にお話したと思いますが、ダレイオス1世は、国内の諸制度を整備すると共に大規模な遠征活動に乗り出し、エーゲ海沿岸からインドの西端までの広大な領土をその手中に収めました。そしてその中にはギリシア人が建設した植民市も含まれていたのであります。
 つまり、エーゲ海沿いのギリシア人は、本国のポリスと深い関わりを持ったままでアケメネス朝ペルシアの支配も受けていたのです。分かり易く言えば、植民市にとってギリシアのポリスは家族であり、ペルシアは軍隊内における上官のような立場にあった…といったところでありましょうか。実際、ペルシア領のギリシア植民地はダレイオス1世の遠征に兵を派遣し、偉大なる王の手足として働いておりました。

 ところが、ダレイオスの治世も半ばを過ぎた紀元前500年その“ダレイオスの手足”が突如、暴走を始めます。

 アナトリア半島の南部沿岸にミレトスというギリシア植民市がありました。そこは僭主政が採用されており、当時はアリスタゴラスという人物がペルシアの権力を背景にその座を占めておりました。
 このアリスタゴラス、ある時、エーゲ海諸島の中心部であるナクソス島を我が物にしようと企み、ペルシアの軍事援助を得て遠征に出かけたのですが、これが大失敗。ほうほうの体で逃げ帰る事になってしまったのです。
 命は助かったとは言え、アリスタゴラスが大いに焦ったのは言うまでもありません。何しろ、天下のペルシアから兵を借りてまで遠征したにも関わらず、とんでもない下手を打ってしまったのですから……。
 このままでは自分の立場が危ない。下手をするとペルシアから見放されてしまうかも知れない。アリスタゴラス、一世一代の大ピンチであります。
 こういう時、人間は2つのタイプに分かれます。非常に冷静な判断をもって窮状を打開しようとする人間と、ヤケのヤンパチになって“突撃”してしまう人間。アリスタゴラスは同時代のギリシア人たちにとって不幸な事に後者でありました。

 紀元前500年、進退極まったアリスタゴラスは突如ペルシアに反旗を翻します。アリスタゴラス本人が、果たしてどこまで事の成り行きを考えていたのかは分かりませんが、これが長い長いペルシア戦争の直接のきっかけになったのでありました。
 ……こう聞くと、アリスタゴラスはただの馬鹿だったように思われるかも知れませんが、しかし彼はなかなかしたたかな男だったようです。なんと彼は、最大の目的が自己保身と悟られないように真っ先に僭主の座を自ら退きました。そして巧みに“市民の代表”として反乱軍の領袖となり、これを指揮していったのであります。“肉を斬らせて骨を絶つ”を地で行く奇策でありました。
 これで彼は身の危険から脱する事ができましたし、その“潔さ”がギリシアの人々の心を打ち、起こした反乱を非常に幅広く展開してゆく事に成功したのであります。当時ギリシア人たちは貿易面でペルシアに冷遇されていた…というポイントがあったにせよ、ミレトス周辺の植民市は当然の事、数多くのギリシア植民市、更にはギリシア本土からさえも、アテネとエレトリア(アテネのすぐ東にある縦長の島・エウボイア島の主要ポリス)からの応援を得る事に成功したのです。

 が、奇策が通じるのはあくまでも短期決戦の時だけ。一時、ギリシア反乱軍はアナトリア半島のペルシア都市へ次々と攻め込んでいったのですが、第一波が跳ね返されると、たちまち情勢は逆転してしまいました
 完全な力勝負になってペルシア軍は息を吹き返し、またその一方で、反乱軍のリーダー・アリスタゴラスはナクソス島遠征の際に露呈した将たる素質の無さを再び発揮し、結局は戦死してしまいます。どうせ死ぬなら1人でひっそりと死んでくれれば良かったのに…と言っても、もはや後の祭りであります。また、このギリシア反乱軍に軍事大国スパルタが(恐らくは国内情勢不安のために)不参加だったのも少なからず影響していたかも分かりません。

 結局、この大反乱は5年で完全に鎮圧されてしまいます。ミレトスなど反乱を起こした植民市は再びペルシアの支配下に置かれる事になりました。ダレイオス1世は暴君ではなかったので、ギリシア人たちが表向きに懲罰的な仕打ちを受ける事は無かったようですが、かと言ってタダで済むわけでは有りません。溜めたツケは、いつかムリヤリにでも返さねばならない羽目になるのです。
 ギリシア人が反乱を起こし、少なからずペルシアとその王の機嫌を損ねたその“ツケ”は、やがて深刻な形に姿を変えて、植民市ではなくギリシア本国に降りかかる事になりました。ダレイオス1世は軍隊を一部ギリシアに派遣し、反乱に協力したポリスたちに攻撃を仕掛けていったのです。そうです。実はその単なる“ペルシア軍の一部によるギリシア遠征”がペルシア戦争というものなのです
 何だ、大戦争と言ってもそんなものなのか…と思われるかも知れません。しかし、ペルシアにとっては“軍の一部によるギリシア遠征”であっても、都市国家の集合体にすぎないギリシアにしてみれば、これは国家存亡の一大事でありました。

 このように、ペルシア戦争とは視点によって、その価値が大きく変わって来る戦争です。アケメネス朝ペルシアの歴史からすれば、たくさんあった戦史の1つに過ぎないかも知れません。しかし、少なくともこのエピソードの主役であるギリシア人たちにとって、これは“天下分け目の大戦争”であった事は間違いありません。彼らは必死に戦い、時には大勢の同朋を失いながら、それでも決して屈服する事は有りませんでした。その時のギリシア人の姿は、勇ましく、美しく、それとおなじくらい痛ましいものでした。

 ……さぁ、冗長なプロローグはここらで終わりにしましょう。いよいよ次回からは本格的に古代ギリシア史上に残る“天下分け目の大戦争”についてのお話を始める事にしましょう。 (次回へ続く)

 


 

2月12日(水) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(29)
第3章:地中海世界(10)〜ギリシアの盟主・アテネの成立とその歩み《続々》

※過去の講義レジュメ→第1回〜第19回第20回第21回第22回第23回第24回第25回第26回第27回第28回 

 全体の10%行っているかどうかだと言うのに、早くも10回目を数えてしまった「地中海世界」編ですが、今日も古代アテネ社会の変遷についてお話をします。次回からペルシア戦争という、この章におけるヤマ場の1つがやって来るため、“尺あわせ”で短縮気味の講義となりますが、ご了承下さい。

 さて、前回は僭主・ペイシストラトスと、その後の息子たちによる政治について講義をしました。ペイシストラトスの子・ヒッピアスが暴政の末に追放され、スパルタまで介入しての大混乱となった…といった辺りまで話が進んでいたかと思います。
 ここまでこの講義を受講されている方にとって、アテネの政局大混乱とニュー・ヒーローの誕生の繰り返しは、もうお馴染みになってしまっていると思いますが、今回もその例に漏れず、新たな有能の士が表舞台に登場して来ます。その男の名はクレイステネスと言いました。

 クレイステネス貴族出身の政治家で、ヒッピアス追放後に台頭して来た有力者の1人です。彼は一時、政敵の圧力によって亡命を余儀なくされたりもしましたが、巧みに一般民衆を味方につけて勢力を挽回し、紀元前508年(ヒッピアス追放の14年後)にアテネの実質的政治指導者の地位に就きます
 前々回の講義でしたか、アテネの財産政を築いた政治家・ソロンについて「保守政党的な改革者」と申し上げましたが、このクレイステネスは「革新(もしくはリベラル)政党的な改革者」(もしくはリベラル)政党的な改革者」と言うに相応しい人物です。彼は制度疲労を起こしている政治システムに見切りをつけ、現実に即した新たな制度を創り上げました。今風に言えば、“構造改革”という言葉がピッタリ合うのではないかと思われます。

 そんなクレイステネスが行った施策は、大きく分けて2点あります。

 まず1点目は部族制の改革です。
 この講義では初登場の部族制ですが、これはアテネのみならず、多くのポリスでは建国前後から維持されていたシステムでした。
 部族の数は、もともとの民族(イオニア人、ドーリア人など)によって異なりますが、イオニア人のポリス・アテネの場合4つの部族に分かれていました。これら各部族は、それぞれ共通の祭神や血縁で結束しており、その部族から出た有力貴族を一致団結して支持するのが常でした。つまりは貴族政治の基礎となるものであったわけです。
 しかし、昔ながらの貴族政が既に時代遅れであると感じていた(事実、これより100年前から貴族政は時代遅れになっていました)クレイステネスは、この部族を事実上解散させてしまいます。かのソロンやペイシストラトスでさえ手のつけられなかった旧弊に大ナタを振るったのです。
 彼の“構造改革”は、まず旧来の4部族を解散させた上で、それとは全く別で形式的な10の部族を新たに設け、全市民をシャッフルします。そして、その10の部族は更に人口で三等分された3つのグループに分けられ、市街部・内陸部・沿岸部の三地区にそれぞれ分散させられました。すると、各地区に10ずつ、合計30のグループが出来上がる事になりますね。このグループを(デーモス)と呼びました。
 この結果、アテネは4つの血縁的な部族から、10の形式的な部族と30の単なる住所を表すだけの区に再構成されました。これによって貴族政の基盤は完全に崩壊し、実質的な終焉を迎えます。
 これ以後のアテネでは、各部族から50人の議員が選抜された500人議会(任期1年、再選は生涯1度のみ)が実質的に政治を行い、それを全男性成年市民からなる民会がサポートする形で政治が行われてゆきます。すなわち、後々まで語られる、アテネ民主政の基礎が出来上がったのであります。

  と、こうして民主政の基礎を創り上げたクレイステネスは、次にそれを守るための制度を設置します。日本語では「陶片追放」の名で呼ばれている、オストラキスモスの制度です。すなわちこれが、クレイステネスの改革の2点目となります。 
 このオストラキスモスとは、アテネの市民全体で政治家や軍事有力者を監視する制度で、端的に言えば民主政を破壊する独裁者──つまりは僭主になりそうな人物を、実際にそうなる前にアテネから追放してしまおう…という、かなりダイナミックなシステムです。
 この制度の下でアテネの市民は、「こいつは僭主になってしまいそうだ」…という人物の名前を陶器のカケラに刻み付け、所定の投票箱へ無記名で投票する事が出来ます。この投票の結果、票数が定数(“一定期間で総計6000票”、または“総票数6000の時点で開票して一定数の得票”など、諸説あり)に達した人物は、アテネから原則10年間追放され、政治にタッチする権利を失います。これによって、多数の市民に好まれざる1人の人物に権力が集中する事が避けられるようになったわけなのです。(ただし、ポリス存亡の危機があった時などは、民会の決議によって追放は随時解除されましたが)

 しかし、ここまでの内容で「おや?」と思われる方がいらっしゃるかも知れません。こんな疑問を抱かれた方もいらっしゃるでしょう。
 「アテネの僭主政って、意外と良い政治システムじゃなかったんですか?」
 ……そうです。確かに僭主政は、現代人が抱きがちなイメージほど悪いものではありませんでした。が、ここでもう一度、この当時のアテネの状況を思い返してみて下さい。クレイステネスが民主政を始めるたった15年ほど前に、アテネは僭主ヒッピアスの暴走のせいでスパルタの軍事介入を受けるという大混乱を経験していたではありませんか。
 新旧問わず、国家というものは直前に大コケした政治システムを極度に嫌悪します。例えば、現代の日本(というより東アジアのほぼ全体)では旧帝国時代のシステムが嫌悪されているのはご存知の通りですよね。
 この時のアテネも恐らくこの状態だったと思われます。直前に大コケした僭主政を嫌い、“最新トレンド”である民主政を守る気持ちが形となって、オストラキスモスという強力な“独裁者候補監察制度”が誕生したのでありましょう。

 そして実際、このオストラキスモスは数十年ではありましたが、その意図するように働き、アテネの民主政を(半ば無理矢理にではありましたが)守り抜く事が出来たのです。
 しかし時が経ち、この制度の精神が忘れ去られた後には、オストラキスモスは単なる政争の具と化し、追放されるべきでない有力者までが組織票で追放に遭うという事態になってしまいます。これはまた、語るべき時に詳しくお話する事にしましょう。

 ……というわけで、クレイステネスはアテネの社会システムに大改造を施し、それを軌道に乗せる事に成功しました。この安定した状態が今しばらく続けば、アテネの、いやギリシアの歴史も大分変わったと思われるのですが、現実はそれを許してはくれませんでした。

 ──クレイステネスの改革が始まって、まだ10年も経たない紀元前500年。ギリシア本国から地中海・エーゲ海を隔てたアナトリア半島の西端にある植民市・ミレトスから、この地を事実上支配下に置いていたアケメネス朝ペルシアに対する反乱の火の手が上がります

 ギリシアにとって長く、そして辛い戦争が、今まさに始まろうとしていました── (次回へ続く

 


 

2月3日(月) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(28)
第3章:地中海世界(8)〜ギリシアの盟主・アテネの成立とその歩み《続》

※過去の講義レジュメ→第1回〜第19回第20回第21回第22回第23回第24回第25回第26回第27回

 前回からギリシア一のポリス・アテネの歴史をお送りしていますが、今回は改革者・ソロンの引退後に訪れた混乱を収拾する人物が現れたところからお話を始めましょう。

 その混乱するアテネに現れたニュー・ヒーローは名前をペイシストラトスと言い、アテネの中でも最も貧しい人たちが住む山地部出身の人物でありました。
 彼は紀元前561年に歴史の表舞台に姿を現すや、アテネの行政を事実上1人で統括する要職に昇り詰めます。

 ……と、ここで「あれ、ちょっとおかしいぞ?」と思った方は鋭い。よく講義の内容を覚えてらっしゃいます。
 念のため、もう1度復習しておきましょう。前回でお話しましたように、当時のアテネはソロンが創始した財産政──不動産を多く所有する有力者が定員10人のアルコン(統領)などの要職を独占する制度──が導入されていました。つまり、ペイシストラトスのように貧家の出の人物が、しかも1人で行政を統括するなどという事は、当時のアテネの制度では到底不可能なのです。

 ……では、どうやってペイシストラトスは政権を奪取出来たのでしょうか? 
 何だか頭の体操みたいになって来ましたが、答えは簡単。彼はその制度を無視し、あれやこれやの手で掻き集めた兵隊を動員して力ずくでアテネの独裁者になったのでありました。
 一説によれば彼は、メガラ(古代ギリシアの代表的ポリス)との戦争に勝利を収めて名声を得た後、架空の反対勢力をでっち上げて公認の護衛兵を獲得し、その力をもってクーデターを起こしたようです。当初の政権運営は不安定で、初めて政権を奪ってから15年の間に2回短期間の失脚を経験しています。しかし、そのたびに不死鳥の如く蘇り、遂には紀元前525年に自然死するまで政権を維持したのですから、世界史上でも稀有な存在と言って良いのではないかと思われます。

 このペイシストラトスのように、非合法的手段──つまりクーデターでポリスの政権を奪い、独裁者になった人物を“僭主”と呼びます。僭主政治は、スパルタ率いるペロポネソス同盟の主要ポリス・コリントで紀元前7世紀に発祥した政治形態で、古代ギリシア世界ではたびたび見られるものであります。
 「クーデターで政権を奪った独裁者」…などと聞くと、大半の方は「そんなの暴政に違いない」と顔を歪められるかと思われますが、さにあらず。この時代の僭主独裁政治は、他の政体と比較してもなかなか優れた制度であったようです。
 よくよく考えてみれば、君主独裁政治が暴政に陥る場合、その原因の大半は「君主がアホやから」という点に帰結し、「独裁制度が間違っていた」というケースは稀であります。事実、世界史を辿ってみますと君主独裁政治の下で繁栄した国は幾らでも存在します
 要するに、独裁という政体は“諸刃の剣”であって、当たり外れの差が大きいのです。そして、この時のアテネは“当たり”を引きました。後世の歴史書では“ここからアテネの栄光が始まる”…のようなコメントがチラホラと見受けられるようになるのです。

 ではここで、そのペイシストラトスが挙げた政治上の実績を紹介しておきましょう。

 まずは農業の振興。かねてからの混乱で亡命した有力者の土地を一旦国有化し、それを無産市民や小農に再分配することで中小農民を育成しました。特に困窮する貧農には最大限の配慮をし、種子の貸し出しや税率の低減、さらには土地問題を審議するための裁判所出張サービスまでしたそうです。この辺りは“庶民派君主”の面目躍如といったところでありましょうか。
 当時の社会における中小農民とは、即ち貴重な軍事力。ペイシストラトスの農業政策とは、農業生産力と戦力を同時に高めるという正に一石二鳥の政策でありました。

 次に商業の奨励。アテネのあるアッティカ地方は、元々それほど農業に向いた土地ではありませんでした。ですので、商業の発展はアテネにとって死活問題であります。勿論、当時のアテネの有力者の多くは大商人だったわけですから、そちらの対策という意味合いもあったでしょう。
 ペイシストラトスにとって有利だったのは、彼がトラキア地方(ギリシアと小アジアを繋ぐ海岸沿いの部分)に太いパイプを持っていた事で、ここを足掛かりにしてギリシア世界の外からの穀物貿易を大いに栄えさせたとされています。彼の時代にアテネはギリシアでナンバー・ワンの商業大国となります
 半ば余談ですが、彼が成り上がる過程で所有する事になったトラキア地方の金山は、独裁者たる彼の地位を支える資金源になっていました。2度の失脚から立ち直る事が出来たのも金山のおかげだとのことです。政治家には“金脈”がつきものですが、本物の金脈を握っていた為政者も珍しい話ですね。

 そしてペイシストラトスは、更に文化の面でも功績を残していますパン・アテナイ(アテネ)や、ディオニソスの秘儀などの宗教的イベントを大々的に開催し、その祭りの中で全ギリシア規模の文化祭のようなものを催す事で、アテネの国力を周囲にアピールすると共に観光事業まで推進したようです。

 ……と、このように、ペイシストラトスの時代にアテネは飛躍的な発展を遂げました。先に紹介した後世の歴史家の筆もそんなに誇張されたものではない事がお分かりになると思います。
 しかし、これも先に述べましたが、独裁政治は諸刃の剣であります。無能な人物が君主の座に就いてしまった途端、国は大いに荒れてしまうのです。
 ペイシストラトスの死後のアテネが、ちょうどそんな感じでした。独裁制の大いなる欠点である“世襲君主制”によって、アテネの2代目僭主となったペイシストラトスの2人いた息子たちが瞬く間に国を傾かせてしまったのです。特に壮絶な兄弟喧嘩に生き残ったヒッピアスが独裁を敷いた際には「アテネは暴政と化した」とされています。

 このイレギュラーは他のポリスにとっても痛恨事だったようで、当時の全ギリシア情報センター&政治ご意見番と言われるデルフォイ神殿で、「アテネを解放せよ」という神託が下っています。
 そしてこれを受け、ギリシアもう一方の雄・スパルタが軍を率いてアテネに介入し、間もなくヒッピアスを追放させてしまいました。鎖国主義のスパルタが動いたと言う事実が、当時のアテネがどれほど強大なポリスに成長していたかを示す格好の証拠であるように思えます。

 こうしてまたもや混迷の政情となったアテネですが、ここでまたしても1人の有能な政治家が現れ、アテネを見事に軌道修正させます。度重なるアテネの浮き沈みの激しさには呆れ返るばかりですが、それ以上にその生命力の強さにはただ驚くばかりであります。
 アテネは強国とは言え、1つの都市国家に過ぎません。それなのに、この人材の豊富さはどうでしょうか? 21世紀に生きる日本人としては心底羨ましい思いがします。

 では、やや短くなりましたが今回はここまで。次回はアテネ民主政の成立まで話を進めてゆきたいと思います。(次回へ続く

 


 

1月29日(水) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(27)
第3章:地中海世界(8)〜ギリシアの盟主・アテネの成立とその歩み

※過去の講義レジュメ→第1回〜第19回第20回第21回第22回第23回第24回第25回第26回

 前回はスパルタの社会制度が確立されるまでを見届けたところまでをお送りしましたが、スパルタとはひとまず別れを告げまして、今回からは古代ギリシア世界でスパルタと並び称される大型ポリス・アテネの成立と社会制度の変遷をお話してゆきます。
 アテネというポリスは何度となく政体がダイナミックな変遷を遂げた事で知られ、その様は政治学の実験教材と言っても良い程であります。色々な社会の形に注目して、当時のアテネの姿を垣間見て頂きたいと思います。

 アテネアッティカ地方──ギリシア中部の東に出っぱった部分に位置したポリス。地理的条件の関係で暗黒時代の混乱があまり見られなかった…という事を第24回にお話しましたが、覚えていらっしゃるでしょうか。
 ただし、暗黒時代に人口流入が激しかったためか確固たる共同体の成立は遅れ、都市国家・アテネの成立はスパルタよりも遅い紀元前8世紀頃ではないかと言われています。伝説上の建国者は、あのミノス宮殿のミノタウロスをやっつけたテセウス王子だと言われていますが、これは時代が全く合いませんので、どうもフィクションに限りなく近い話というのが妥当な線のようです。

 建国当初のアテネに関しては、文献資料が非常に乏しいために詳細は漠然としていますが、他のポリスがそうであったように王政からスタートしたようです。そして、数十年して貴族政(寡頭政)に転換していったのも同じであったとされています。
 アテネの貴族政は、由緒の確かな家柄から1年任期で選び出された9人のアルコン(統領)が行政・軍事・祭事を統括するもので、それを他の貴族から成る議会・長老会議が補佐したと言われています。後にアテネを象徴する存在となる一般平民による民会は、まだ当時は権限が与えられていませんでした。
 当時は貴族と平民の間には確かな身分格差があり、それは特に司法分野で強く見られました。この頃のアテネには成文法(=文書の形で詳細が明記された法律)が存在せず、裁判は不文律を規定する権限のある貴族側へ極めて有利に展開していました。つまり、この時代における平民にとっての裁判とは、W杯サッカーで名を馳せた悪徳レフェリー・モレノ氏に裁かれるアウェイ試合のようなもの。逆転を許すまでロスタイムが続行する試合のような裁判であっては、平民たちにまず勝ち目は無かったのです。

 ……アテネでは、このような社会システムがしばらくの間機能していたわけですが、これが数十年すると、現在の日本と同様に構造的な問題を抱えるようになりました。
 この時代に起こった最も大きな変化は、商業の発達による貨幣経済の発達でした。それまでの貴族政社会は農業を社会の根幹とした現物経済でしたので、これはまさにコペルニクス的転換でありました。これまでの貴族は大きな土地を所有する事で経済的優位を保ち、それを基盤にして権力を発揮していたのですが、ここに至って経済的優位も権力の基盤も大きく揺らぐ事になってしまったのであります。要は家柄がモノを言った時代から「世の中ゼニ」の社会へと変わっていったわけです。
 そんな社会の同様がストレートに現れたのが、それまでの貴族優位を象徴する存在だった司法分野でした。“法の下の不平等”に不満を持った平民勢力──特に経済的に力をつけた富裕層が貴族たちを激しく突き上げ、紀元前620年頃、遂に成文法の成立となります。これを制定者の名を取って「ドラコンの成文法」と呼びます。
 この出来事は貴族政社会の崩壊と民主政社会誕生に至る過程の第一歩というわけですが、この時点では政治的権力はまだ貴族たちの手にありました。政権は彼らにとって既得権益。そう簡単に手放せるものではないのあります。

 ただ、社会の変革がそれだけならば害は少なかったのですが、商業と貨幣経済の発達は平民、特に貧困層に致命傷と言うべき打撃を与えてしまいました。輸出用農作物を確保したい富裕層が、カネにモノを言わせて土地を買い漁ったり、そのために農民への融資の利息を釣り上げるなどしたために、破産する中小農民が続出する惨状となったのであります。
 破産した中小農民は債務奴隷(財産奴隷)と呼ばれる身分に堕ち、貸主の下で文字通り“借金を体で払う”立場となります。借金相当額を“返済”すれば自由身分に戻れましたが、そうなっても既に彼らには土地は無く、何の力も持たない無産市民として食うや食わずの暮らしを強いられたはずであります。いや、それならまだマシな方で、中には他のポリスに売り飛ばされてしまった人々もいたでありましょう。事実、この時代には債務奴隷による人口流出で軍事力が減退したとの説もあるくらいなのであります。

 経済と権力の地盤を失いながら、既得権益にしがみついてこれを離さない貴族
 そんな貴族を凌ぐ力を確保したものの、依然としてイニシアティブを握れない平民富裕層
 そして、同じ平民身分でありながら、そんな富裕層のワリを食う形で虐げられている平民貧困層

 ……紀元前7世紀後半のアテネは、このような歪んだ三極分化の真っ只中にありました。有り体に言って暴発寸前の社会であります。一刻も早い抜本的な改革が必要なのは誰の目を見ても明らかでありました。
 そこへ1人の貴族出身の政治家が登場し、このアテネに大ナタを振るいます。時に紀元前594年、その政治家の名はソロン世に言うソロンの改革の始まりでありました。

 ソロンは極めて現状把握感覚に優れた政治家でありました。社会の中で修正しなければならない部分についてはキッチリと修正し、逆に無理に変えてはマズい部分に関しては、現実にあわせて制度の方を改正させてゆく…という手法を採用しました。近現代で言えば保守政党的な改革者といったところでしょうか。

 彼がまず手をつけたのは、先ほど述べたところの破産した中小農民が債務奴隷となってしまう問題の解消でした。既に債務奴隷になっていた人々は、借金が棒引きされると共に自由の身へ。また、貸主が新たに借主を債務奴隷にする事を禁じる法律を明文化しました。これにより、債務奴隷を原因とするアテネの国力低下を食い止める事に成功したのでありました。
 また、ソロンは司法改革を進めた事でも知られています。それまで死刑だらけで「血で書かれた法律」と言われていたドラコンの成文法を大幅に改訂し、殺人罪を除く罪の刑罰から死刑を原則撤廃したり、あるいは第三者による告発制度を設けたりなどしました。この他にも家長が保護下の女性を売却する事を禁ずる法律を定めるなど、ソロンは現代で言うところの人権派政治家であったようです。

 そしてもう1つソロンが手をつけたのは、先述した歪んだ身分制度・政治制度の改革であります。権力基盤を失ったものの既得権益にすがりつく貴族と、その逆の立場にある平民富裕層の対立が深刻なものになっていたのは既にお話した通りですが、彼はこの問題に真正面から立ち向かって構造改革を進めたのでありました。
 ソロンはこの複雑な問題に対して、画期的な新制度を設ける事で対応しました。後に財産政と呼ばれるものであります。
 この財産政とは、不動産を中心とする財産の額に応じて市民を4つのクラスに分け、クラスが上がるにつれて政治的権力が増す事を制度化するものでありました。
 具体的に言えば、最要職のアルコンをはじめとする主要官職に就くのは富裕層である第1、第2のクラスに属する者に限られ、いわゆる中流層からなる第3のクラスには下級の行政職が振り分けられました。そして最下層の第4のクラスにも民会における投票権が与えられたのであります。
 それまで貴族が独占していた要職が平民富裕層に解放され、彼らを補佐する議会での投票権は全面解放に。これにより、時代遅れの貴族政は名実共に崩壊する事となったのであります。
 また、バランス感覚に優れていたソロンは財産政を導入するにあたって、財産に応じた兵役制度も確立させます。第1、2身分には騎兵として、第3身分には重装歩兵、第4身分には軽装歩兵か軍艦の漕ぎ手としての軍役が義務付けられ、その経費は自弁とされました。つまり、財産と政治的権力に応じた額の軍役負担が義務付けられたわけであります。このあたりは近世以降のイギリスにおける“ノブレス・オブ・リッジ”を思わせる要素でもあり、アテネの、そしてソロンの先見性が窺えるところであります。

 この他の分野でもソロンによって改革が進められています。その中には、土地を失った農民の失業対策として新植民市を建設したり他のポリスから商工業者を好条件で誘致するなどの、後の資本主義の導入を思わせるほどレヴェルの高い施策まであり、21世紀の人間としても「よくぞここまで」と唸らされる思いであります。

 こうしてソロンによって大改革が施されたアテネはたちまち立ち直りを見せ、大混乱はみるみる内に収束しました。
 しかし、ソロンの改革は余りにも的確過ぎ、また現実的過ぎたためか市民の間での支持率は低かったようです。現代でもそうでしょうが、誰もが「世の中ゼニ」だと分かっていても、それを大っぴらに肯定されるとムカつくものなのでありましょう。
 なるほど、ソロンの改革は「貧乏人は麦を食え。麦なら思う存分食わせてやる」というようなものであり、近代社会で導入されて非常に不評であった制限選挙制度に似たところがありました。
 実は「麦じゃなくて米が食いたい」と思っている貧困層にとっては我慢出来ないところも多々あったことでしょうし、貨幣を軽んじて不動産を重視した財産政の制度が“貨幣成金”の大商人に不評を買ってしまったという側面もありました。
 そういうわけで、一度は安定を取り戻したかに思えたアテネではありましたが、ソロンが政治の第一線から引退した後は再び混沌とした情勢に引き戻されてしまったのであります。

 混沌した社会は新たなリーダーを要求し、生み出します。そしてこの時のアテネにもまた、新たなリーダーが彗星の如く現れるのであります。
 ソロンの改革から50年弱。アテネにまた新たな政治制度が確立されようとされていました── (次回へ続く

 


 

1月20日(月) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(26)
第3章:地中海世界(7)〜軍事都市国家・スパルタの成立《続》

※過去の講義レジュメ→第1回〜第19回第20回第21回第22回第23回第24回第25回

 前回から古代ギリシアのポリス(都市国家)の全体像についてお話をしていますが、今回のテーマも、前回に引き続いてスパルタの国家システムについて。前回お話したメッセニアの大反乱(紀元前7世紀後半)が起こってから、スパルタはどのような都市国家に変遷していったのでしょうか。今日はそこにスポットを当ててお話をしてみることにしましょう。

 ──奴隷階級・へロットを中心とするメッセニアの反乱を辛うじて鎮圧したスパルタ人たちですが、ここに至って彼らも、自らを取り巻く状況がのっぴきならない所まで来てしまった事をしみじみと痛感するところとなりました。
 支配する側よりも支配される側の人口の方が10倍以上多いという、バランスを著しく欠いたスパルタの国勢。異常な国を統治するためには、もはや異常な手段を採る事しか手段は残されていませんでした。世界史上に残る超厳格な軍国主義国家システムの開始がそれです。彼らは、他の全てを犠牲にしてでも、少数のスパルタ市民によってへロットたちを支配し、ポリスの“国体”を維持する道を選んだのでありました。
 この、紀元前7世紀から始まるスパルタの軍国主義システムの事を、伝説上の改革者の名前をとって“リュクルゴス体制”と言います。

 リュクルゴス体制になって、まず大きく転換されたのが対外政策でありました。
 先述したように、それまでのスパルタの対外政策は、隣接するポリスを征服して新たなスパルタ領にしてしまう“膨張主義”でした。しかし、それは領土だけでなくへロットという反乱分子まで膨張させてしまうという欠点が有った事も既にお話した通りです。
 そこでリュクルゴス体制下のスパルタでは、戦争で他のポリスを破ったとしても、領土と人民を直接支配下に置く事はしませんでした。その代わり、スパルタに敗れたポリスは、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟という連合体に加盟させられ、絶えず監視下に置かれると共にスパルタが戦争をする時の支援を義務付けられました。これによって、スパルタは人口バランスを狂わせる事無く実効支配地域を広げる事に成功したのであります。これがやがて、アテネ率いるデロス同盟との間に始まることとなる大戦争で絶大な威力を発揮する事になるのですが、それはまた別の機会にお話する事としましょう。
 また、スパルタは文化交流や貿易の分野では徹底した“鎖国”主義を採りました。これは後に詳述する厳格な軍国主義が、他のポリスの「退廃的な」文化に触れて堕落するのを避けるための措置。質素にして剛健な国家を作るためには、芸術品やぜいたく品、さらには学問でさえも不要であったのです。闇貿易すら出来ないように、スパルタでは鉄などの卑金属でしか貨幣を鋳造しなかったと言いますから、本当に徹底しています。

 このようなスパルタの学問嫌いについて、こういうエピソードがあります。
 あるアテネの弁論家が「スパルタ人は無学だ」と馬鹿にした際、それを聞いたスパルタ王・プレイストアナクスはこう応えたそうです。
 「貴殿の言葉は正しい。そう、我々はギリシア人の中で唯一、貴殿たちから(学問などという)悪い事を学ばずに済んだのだよ」
 ……文武両道ですら邪道と見なしたというスパルタ人の気質を見事に表現した言葉であります。

 そして、リュクルゴス体制で変わったのは対外政策だけではありません。国内の政治システムも大きく様変わりをしました
 中でも特筆すべきものは、監督官(エフォロイまたはエフォロス)を中心とする直接民主政の導入でしょう。これは、それまでの貴族政的な長老制に代わって導入された、民会で選出された1年任期の5人の監督官が中心となって軍事や政務にあたる制度です。
 この制度における監督官は極めて立場が強く、いわゆる三権の全てが軍隊の統帥権も含めて全て委ねられましたが、重大な失政が行われた場合などは任期終了後に民会から訴追される責任も負いました。ある意味、現代の民主主義国家よりもチェック・アンド・バランスが行き届いた体制と言えるでしょう。もし、今の日本でこのシステムが採用された場合、何人の元首相が退任後も無事でいられるでしょうか?
 この新しいシステムは、貴族政に特有である政策の硬直化と身分間の断層を防ぐ事ができ、また、1年ごとにリーダーを入れ替える事で、極めて時勢に合った政治を実現させる事も可能となります。まさに一石二鳥の優れモノでありました。

 ──このように、スパルタ人は古代としては極めて合理的かつ機能的である国家体制・リュクルゴス制を完成させ、膨大な数のへロットたちを屈服させると共に他国との接触を絶ってまででもそれを維持しようとしました。
 しかし、スパルタ人たちが最も重視していたのはリュクルゴス制そのものではありませんでした。彼らが何よりも腐心していたのは、その制度を支える人材──強い愛国心を抱きいた団結力のある軍人の育成でありました。
 社会というもの、いくら優れたシステムを備えていたとしても、それを期待された通りに動かす人材が欠けていては何の意味も為しません。この事は、“世界史上最も民主的な憲法”を擁した第一次大戦後のワイマールドイツにおいて、徹頭徹尾民主的かつ合法的な手段でナチス独裁政権が成立してしまった事でも明らかでありましょう。
 そういう意味からすれば、スパルタ人の国家運営に関するセンスは極めて高いレヴェルにあったと言えます。彼らは確かに無学でありましたが無能ではなかったのです。

 そんなスパルタ人の人材育成は、産まれた赤ん坊が産声を上げた瞬間から始まります。支配階級たるスパルタ市民の出産には必ず長老や監督官が立会い、産まれたばかりの赤子が成人した後に勇敢で頑健な兵士になれるかどうか、または丈夫な子を産む母親になれるかどうかを判断するのです。
 もし、虚弱児であると判断された場合、その子はそれ以上生命を保つ余地はありません。赤ん坊はその場で母親から剥奪され、ポリスの側にある山に捨てられる事になります。当時は子供の“間引き”が公然と行われている時代ではありましたが、ここまで徹底されているケースはやはり珍しいでしょう。

 長老たちのお眼鏡に適った子供は、その後7歳まで親元で育てられますが、それからは男子と女子で進む道が異なります。
 まず男子は、7歳になると親元から引き離されて集団生活に入ります。要は寄宿制の国立軍学校に“入学”させられるわけです。そこでは冬でもマント一枚で生活する事を強いられ、厳しい訓練にも関わらず満足な食事も与えられない日々を送る事になります。これは、将来戦争で厳しい環境に置かれた場合を想定してのもので、苦痛に耐える事や飢えや寒さに慣れると共に、「足りない物は自分で調達せよ」というメッセージの現れでもあります。事実、少年たちがペリオイコイやヘロットから食料等を盗む事は公認されていたそうで、「狐を盗んだ少年が、その狐が暴れて腹を食い破られてもジッと我慢し、呻き声の一つもあげないまま死んでしまった」…といった逸話が残っています。
 この過酷な訓練は成人年齢の20歳まで続き、成人した後もなお、軍務に服しながら30歳になるまで集団生活が義務付けられます。スパルタ人男性の多くは成人になって間もなく結婚して子をもうけるのですが、例え世帯持ちであっても30歳までは妻子と共に一夜を過ごすことは許されませんでした。せいぜいが夜コッソリと抜け出して密会する程度です。
 また、齢30を過ぎて第一線から退いても、夕食だけは指定された食材を持ち寄って軍隊で食事を摂りました。とにかく生活の中心は軍隊であり、その全てにおいて一致団結する事を求められたのであります。軍務の前には家族の団らんなど取るに足らないモノだったのです。

 余談ですが、この軍隊で摂る食事というのが、栄養価だけは十分ながらメチャクチャ酷い味の料理だったそうで、他のポリスの人間にはとても食べられるものではなかったそうです。
 ある時、とある国の王が“スパルタで一番の料理”を所望したのは良いのですが、やはり不味くて食べられない。その王が「スパルタで一番の料理と聞いたが、これではとても食べられん」と不満を漏らしたところ、給仕をしたコックは平然と、
 (スパルタを流れる)エウロタスの川で産湯を使った人間にしか、この料理の味は分からないものなのです」
 ……と言ってのけたとのこと。スパルタ人のプライドが垣間見れるエピソードであります。

 一方、男子と違って女子は7歳以後も家庭にとどまって“花嫁修業”に勤しんだそうでありますが、この“花嫁修業”もやはりスパルタ式。丈夫な子を産むために、女子も頑健な体を作るために過酷な肉体トレーニングを積み、男子に混じってスポーツ競技会に参加する事さえしたそうです。
 家庭に入った後も、参政権こそないものの女性の地位はなかなか高く、事実上不倫まで公認されていたというから驚きです。史料の中には、「スパルタでは姦通は一切見られなかったらしい」とする文献もあるそうですが、そりゃそうです。姦通とは「男女間の不義の交わり」。不倫が不義で無い以上、スパルタに姦通が存在しないのは当たり前の話です。もっとも、このような不倫の公認は、長い戦役で夫が何年も不在となった時でも子の誕生を激減させないようにするための緊急措置だったようではありますが……。

 
 ──と、このように厳しい掟でがんじがらめになりながらも、スパルタ人は逞しく生き抜いていました。そうやって、反乱の危険性が絶えない国内を厳格に統治し、あまつさえ国外にすら睨みを利かせていたのであります。
 そしてそんな窮屈な思いをした甲斐あって、スパルタはやがて古代ギリシアの盟主にまで上り詰めることになるのでありますが、それはまた例によって別の機会にお話する事としましょう。

 では、スパルタについての話は一旦ここで区切りを入れまして、次回からしばらくの間は、古代ギリシア・ポリス社会のもう一方の雄・アテネの歴史についてやや詳しく紹介することにしましょう。 (次回へ続く

 


 

1月13日(月・祝) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(25)
第3章:地中海世界(6)〜軍事都市国家・スパルタの成立

※過去の講義レジュメ→第1回〜第19回第20回第21回第22回第23回第24回 

 前回は古代ギリシア時代の都市国家・ポリスについて概略を述べてゆきましたが、いよいよ今回からは視点をややミクロなものに切り替え、1つのポリスに的を絞った話をしてゆきます。
 しかし、ポリスは膨大な数に及びます。全てのポリスについて語る事は勿論、ソコソコ有名なものについて話すだけでもどれくらいの時間を要するか分からないくらいです。
 そこで、この「学校で教えたい世界史」では高校世界史Bや各種通史の例に従って、ギリシアのポリスの中でも一際規模が大きく(現在の日本の県1つ程度)、また古代ギリシア史の中でも主導的な存在であった2つのポリス──スパルタとアテネの成立過程や、それぞれのポリスの姿に絞ってお話する事とします
 そして、まず今回からお話するのはスパルタの歴史成立過程や行政システムの変遷、そして人々の生活などを可能な範囲で追いかけてみましょう。

 
 ──都市国家・スパルタがあったのは、ギリシア南部のペロポネソス半島という巨大な半島の更に中南部、周囲を山で囲まれたラコニアと呼ばれる平原地帯でした。この閉鎖的な地理条件が、後に他のポリスに無い独特の文化を形成する1つの要因になったのは言うまでもありません。
 この地方において、「スパルタ」という国が初めて登場するのは半ば伝説上の出来事である例のトロヤ戦争でのこと。実はかの戦争は、スパルタ国の王妃がトロヤに誘拐されたところから始まったのであります。
 しかし、このスパルタはミケーネ文明時代の王国で、これからお話するスパルタとは地理的条件以外は全くの別物。言わば“旧スパルタ”であります。ここで言うスパルタとは、この“旧スパルタ”がミケーネ文明と運命を共にした後に、北方から移住して来たドーリア人がラコニア地方を征服して建設した、正式名称をラケダイモンというポリスなのです。実は「スパルタ」というのは都市名であって国名では無いらしいのです。ただし、それでは余りにも紛らわしいので、この講義の中では原則的に国名も「スパルタ」で統一する事にします。
 また、建国の年代ですが、これは性格には把握できていないものの、恐らく紀元前800年前後である事は間違い無いようです。

 さて、スパルタと聞いてまず真っ先に連想されるのは、「スパルタ教育」に象徴される厳格かつ鎖国的な軍国主義システムでありましょう。しかし意外な事に、少なくとも建国当初から紀元前7世紀末までの間は、後に比べてもっと開放的で規律も緩やかなポリスであったようです。このスパルタが文字通りの“スパルタ式”に変わっていった理由については後に追って説明しましょう。
 このスパルタの政治システムは、まず建国以前・集落時代から引き継がれた2人の王による君主制から出発し、やがて“長老制”と呼ばれる一種の貴族制・寡頭制へと変化しました。古代ギリシアでは少数の人間が土地や権力を独占する事が出来なかったので、君主は存在し得ない社会でありました。恐らくスパルタもその例外ではなかったのでありましょう。
 で、その長老制ですが、これは従来の王2人と60歳以上で終身任期の“長老”が所属する元老院(定員30人)によって事実上政治全般を執り行うシステム。一応は全男子市民による民会がありましたが、民会の持つ権限は極めて限定されており、元老院から提示された法案等に賛否の意見を表明するだけだったようです。

 ところで今の説明の中で「市民」という言葉が出てきましたが、都市国家・スパルタに住む人間全てが「市民」とされたわけではありません。スパルタは明確な3身分制を採用しており、3つの身分の中で最上位に属する者しか「市民」である事を許されなかったのであります。
 先に述べたように、スパルタはドーリア人がラコニア地方を征服して建設した国家だったわけですが、当然の事ながらそこには先住民が暮らしていました。彼らはスパルタの建国と同時に先住民から被征服民になり、また同時に征服民から差別の対象となりました。ここが身分制度の原点であります。
 まず征服民であるスパルタ人は当然身分制度の最上位となり、「スパルタ市民」となります。「市民」の内、男子には兵役の義務と民会での参政権が与えられ、功績を残して長生きすれば長老への道も開けるかも知れません。女子「市民」は兵役義務や参政権とは無縁でしたが、親や夫の保護下に置かれ、丈夫な子供を産む事で国家に貢献する義務を負います。彼らの生活については、また次回の講義で詳しく述べる事にしましょう。
 この「市民」の下にあたる第2身分は“ペリオイコイ”──周辺の民という意味──と呼ばれる人々です。ここにはドーリア人の中で部族時代に地位の低かった人たちや、逆に被征服民族の中でも比較的地位の高かったグループが属したとされていますが、未だ詳細は不明です。
 ペリオイコイは「スパルタ市民」ではないので参政権はありませんが、“ラケダイモンの国民”ではあるとされていたので、国家のために兵役に参加する義務は負いました。また、一応は財産を持つ事を許されましたが、様々な面でハンデを負わされた事は言うまでも有りません。ペリオイコイを現代の日本でムリヤリ喩えるならば、参政権は無いが国民の義務は負う在日外国人の立場に近いでしょうか。ただし、現代日本では全ての人に基本的人権が与えられていますので身分差は存在しません。念のため。
 そして、スパルタの身分制で最下位に置かれたのが“へロット”と呼ばれる奴隷身分でした。この身分に貶められたのは元・先住民かスパルタが建国された後に征服された土地の被征服民で、彼らには参政権どころか人権のカケラすら有りませんでした。へロットたちは「市民」の財産として私有され、農作業や家事労働に従事する毎日を過ごしましたが、ちょっとした事で死に至るような体罰を受けるような酷い立場に置かれていました。完全な奴隷制社会であった古代ギリシアでも、ここまで奴隷の立場が弱いポリスは珍しいはずです。

 ……と、こうして都市国家・スパルタは、説明したような政治システムと身分制度の下で繁栄を勝ち取り、着々と領土を増やしてゆきました
 しかし、スパルタがそうやって領土を広げ、被征服民を次々とへロットに合流させている内に、いつの間にかスパルタの社会は大きく身分別の人口バランスを失うようになってしまいました。唯一の支配階級である「市民」と、彼らに生殺与奪を握られ絶対の服従を強いられるへロットとの人口比が1:10以上にまで歪んでしまったのです。
 こうなると、当然のように反乱が発生します。特に紀元前7世紀後半に起こったメッセニア(スパルタの西隣にある一地方)での反乱は強烈で、スパルタそのものを揺るがす大規模なものとなりました。
 結局はこの反乱も鎮圧され、スパルタは生き延びる事になるのですが、この出来事は「市民」たちの意識を大きく変えさせる要因にもなりました。これ以後のスパルタ人たちは、いかに膨大な数の奴隷たちを支配するかという事を第一に考えるようになり、社会システムもそれに従って大きく転換してゆきます。そして、その一端こそが、あの「スパルタ教育」というわけなのです。

 では次回は、メッセニア大反乱を受けて、いよいよ厳格な軍国主義国に生まれ変わったスパルタの姿についてお話したいと思います。どうぞよろしく。(次回へ続く) 

 


 

1月5日(日) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(24)
第3章:地中海世界(5)〜ポリスの形成と発展

※過去の講義レジュメ→第1回〜第19回第20回第21回第22回第23回 

 前回の講義から約3週間の間隔が開いてしまいました。
 この歴史学講義、ゼミ(「現代マンガ時評」)と並んで、受講生の皆さんから最も反響の大きい講義の1つではあるのですが、他の講義に比べてのエネルギー消費量がハンパでなく(苦笑)、どうしてもブランクが開き気味になってしまいます。
 とりあえず何とかモチベーションが持ち直せたので、今回からしばらく週1〜2ペースで続けてみたいと思います。いつまた音を上げるか分かりませんが、どうかしばしの間お付き合い下さいませ。

 ──さて、前回までの3回は半ば番外編のようなサイドストーリーをお送りしていましたので、今回お話する内容は第20回の続きという事になります。1ヶ月以上も前の講義ですので、どうぞ面倒臭がらずに復習して頂きたいと思います。
 で、その第20回はエーゲ文明時代を中心に、紀元前1200年頃から始まる文字や文化が酷く衰えた“暗黒時代”と呼ばれる謎の時代までのエピソードを紹介しました。よって、今回はその“暗黒時代”が終わりかける辺りのお話から始めることとします。

 この“暗黒時代”、先に述べたような事情で詳しい事は全く分かっていません。が、どうやらこの間、ギリシアの内外では複数の民族が激しく衝突・移動し、結果として民族が麻雀で牌を混ぜた後のようにシャッフルされてしまったのは間違いないようであります。
 ただ、そのシャッフルの度合いは地域によって大きく異なっていたようです。例えば、争奪戦が極めて激しかったのは土地が豊かで農作物の収穫が望める場所。限られたキャパシティを求めて数多くの人たちが戦いに明け暮れたと推測されています。
 この現象は逆もまた然りで、作物の収穫が望めない地域では激しいシャッフルは行われず、そこでは古くからの民族が土着化していったとのこと。更にそこには他の地域の領地争奪戦に敗れた人々が流れ着いたために、そのような地域では、やがて土地資源の貧しさに似合わない繁栄を謳歌する事になったのであります。実は、後に古代ギリシアを代表する都市国家となるアテネも、そのような理由で強大化していったという裏事情が有ったりするのです。

 結局この“暗黒時代”は約400年ほど続きました。ごく一部ではかつての文明時代を思わせる規模の遺跡が見つかっていますが、ほとんどの地域では村落程度の小規模な集団が無数にひしめき合っていたのではないかと言われています。
 そこでは、エーゲ文明時代の王や貴族の一族は完全に没落し、替わって権力と経済力を手にした新興のエリート層が台頭。政治や軍事の面でリーダーシップを発揮して集団(村落)を率いるようになったとの説が有力です。
 ただそのエリート層にしても、総量の限られた資源や土地を反映してか、それ程飛び抜けた力をもっていたわけではなかったようです。まぁ今の感覚で言うならば、土建屋から市会議長に昇りつめ、数キロ一円でブイブイ言わせてる小金持ちみたいなものでしょうか。
 そして、そのようなエリート層に率いられた村落がまた離合集散を繰り返し、それらの多くが紀元前8世紀前半頃から次々と都市国家化してゆきます。この離合集散現象を“集住(シノイキスモス)”と呼び、出来上がった都市国家の事をポリスと呼びます。このポリスが、異民族に侵略されるまで領域国家が存在しなかった古代ギリシアにおける行政組織の基本単位となります。なお、ポリスの中には“集住”を経ずに成立したものもありますが、そのようなポリスについてはまた追って説明する事としましょう。
 古代ギリシアに領域国家が存在しなかった理由は、これもまだ現在のところ定かではありません。一応の有力な説としましては、ギリシアでは灌漑農業による大規模穀物農業──領域国家の形成に大きく影響する──の実施が不可能であったからではないかとするものがありますが、これもいわゆる“ワン・オブ・ゼム”の域を出ないものでありましょう。この点に関しては、今後の研究の成果を待ちたいところであります。

 ──それでは今から、そんな都市国家・ポリスの特徴を皆さんに紹介する事にしましょう。勿論、ポリスの姿はそれぞれに異なりますが、ここでは数多くの特徴の中でも最大公約数的なものを採り上げたいと思います。

 まずポリスの中で最も重要かつ象徴的なものとして挙げられるのが、アクロポリス神殿です。
 アクロポリスとは“高い所にある町”という意味の語源を持ち、その名の通り丘や山を切り崩した高所に建築された施設で、神殿やその他建築物がありました。地理的条件を考えると、有事には防衛基地として機能していたと思われます。
 神殿は、あの有名なアテネ・パルテノン神殿に代表されるような豪華な造りをしていて、ほとんどの場合はそのポリスの“市神”を祀っていました。時代によって建築様式は微妙に異なりますが、元々の形はエジプトなどのオリエント文化の影響を色濃く受けています
 ところで、ギリシアの宗教は“市神”という言葉からも分かりますように、数多くの神が存在したとされる多神教です。神々の世界については、今なお数多く存在する神話からも窺い知る事が出来ます。
 ただし、例外的にギリシア全域で信仰された神もいくつか存在しました。ギリシア中のポリスから選手を集めて開催されたオリンピアの競技会(古代オリンピック)は、ゼウス神を祀る宗教的なイベントの性格が色濃いですし、後の古代ギリシア史に度々登場する事になるデルフォイの信託所は、近隣のポリスが隣保同盟と呼ばれる共同管理体制で維持されたものでありました。

 ややズレた話を戻しましょう。そんなアクロポリスの麓には市民の家屋やアゴラと呼ばれる公共広場が広がっていました。
 このアゴラ、通常は市場が開かれたり有閑市民が集って時事談義などをする社交場であったのですが、時には市民議会の議場や裁判所に趣を変える事もありました。まぁ要は市民生活には欠かせない多目的スペースであったということでしょう。

 ──このような各種の施設や建造物を取り囲むようにして城壁が築かれ、その枠内がポリスという事になります。
 ……ということは当然、ポリスには収容人員の限界が存在する事になります。自然の摂理に任せて人口が増えつづけると、人口密度が増し、やがて“定員オーバー”ということになるわけです。
 そんな場合はどうなるかと言いますと、ポリス内から独身の若者を選抜、または無作為に抽出して移民団を組織させます。間引きを兼ねた海外植民です。その移民団は船に分乗して小アジアや北アフリカなどへ行き、そこで植民市を建設します。当然、出先には先住民がいますが、友好関係を築いたり武力で服従させたりして、その地をギリシア人の土地にしてしまうわけです。
 もし植民市の建設に失敗しても、なかなか本国には帰してもらえません。大抵の場合、出航から5年を経ずに帰国した場合は問答無用で死刑に処せられたそうです。命からがら逃げ帰って来たかつての親族や仲間の命を容赦なく奪う姿には寒気すら感じますが、これも人口問題という切迫した事情があったが故の話であります。
 それでも中には本国を凌ぐほど栄え、後の時代にも要地として生き残った都市もありました。代表的なものとしてはビザンティオン(現在のイスタンブール)、マッサリア(現在のマルセイユ)、ネアポリス(現在のナポリ)、シラクサ(シチリア島の主要都市)などがあります。これらの都市は、厳密にはギリシア都市とは言えませんが、ギリシア人の都市であった事は確かなのであります。

 さて、今“ギリシア人”という言葉が出ましたが、ここでギリシア人について簡単に説明して、今日の講義を締め括りたいと思います。
 ギリシア人は大まかに分けて3つの民族から成っています。
 1つ目がアイオリス人。ミケーネ文明時代の主要民族であるアカイア人とも、それを滅ぼした“海の民”の末裔とも言われている民族で、主にギリシア北部を本拠地とし、小アジアの北端へ植民をしていました。ただ、ギリシアを代表するようなポリスを築き得なかったために、この古代ギリシア史の中では脇役に甘んじています。
 2番目に紹介するのがイオニア人ギリシアの東部、中部に本拠地を築き、小アジア西岸や他の地域に幅広く植民活動を行っていました。彼らは“暗黒時代”の激動の中でも土着化して力を蓄えていた民族であり、アテネテーベなどギリシアの盟主となるポリスを築き上げた、古代ギリシアの主役と言うべき存在です。
 そして最後にドーリア人。つい最近までミケーネ文明を滅ぼした“主犯”と言われていた民族ですが、今では“暗黒時代”にギリシア南部に住み着いた民族であるという事になっています。彼らの植民活動の舞台はエーゲ海の諸島が中心だったとされています。次回の講義で説明する事になるスパルタは、このドーリア人のポリスであります。
 彼ら3民族からなるギリシア人は、自らを“ヘレネス”と認識し、その住地を“ヘラス”と呼んで他の民族や地域と区別していました。特に異民族の事は“バルバロイ”と呼び、後には差別の対象にまでなってゆきます。
 ちなみに、この“バルバロイ”の語源は、「『バル、バル』という言葉を発する者」という意味で、ギリシア語を使えない、マケドニア人のような近隣の民族を指したものであるようです。後にギリシアがこの“バルバロイ”たちに征服される運命にあると考えると、世の無常さを嫌でも痛感させられる話であります。

 ……というわけで今回はポリスの成立過程やその姿についてお話をしました。次回からは、そのポリスの中でも代表的な存在であるスパルタやアテネの歴史について、やや詳しくお話をしてゆくことになります。では、また次回に。(次回へ続く

 


 

12月15日(日) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(23)
第3章:地中海世界(4)〜エーゲ文明に生涯を捧げた学者たち《続々》

 ※過去の講義レジュメ→第1回〜第19回第20回第21回第22回 

 今回も引き続き、エーゲ文明の解明に人生を捧げた人たちのエピソードを紹介します。
 前回までで、ハインリヒ=シュリーマンがトロヤ文明を発掘したところまでお話しましたが、今日はその続きです。

 
 ──トロヤ文明の遺跡を発掘したシュリーマンでありますが、その発掘作業を一時中断せざるを得ない時期がありました。発掘された“お宝”の帰属を巡って、遺跡のあるオスマン=トルコ帝国(当時)の政府と訴訟沙汰になってしまったのです。
 普通の人がこんなトラブルを抱えては発掘活動どころじゃなくなるのですが、そこは人生七転び八起きを地で行くシュリーマン。トルコが駄目ならギリシアだとばかりに、今度はギリシア南部にターゲットを定めてトロヤの再現を図りました。
 そして恐ろしい事には、この時にもシュリーマンは次々と遺跡を発掘し、トロヤ発見以上の歴史的発見を連発してしまったのであります。
 その新たに発見された遺跡のあった場所は、ミケーネ、ティリンス、オルコメノス。──そう、彼が発見したのは、あのミケーネ文明だったのです。

 この時に発掘された遺跡・遺物は、5人分(!)の王族の墓と、その墓の主が身に着けていたおびただしい数の黄金の装飾品などなど。現在、発掘された遺物はギリシアの国立博物館に納められていますが、それらを見た誰もが驚嘆の声をあげるほどのシロモノであるそうです。何だか、徳川埋蔵金を発掘すべく9桁後半とも10桁とも言われる大金と果てしない労力を注ぎ込んだTBS関係者と糸井重里氏が、秘孔を突かれた小悪人のように顔を歪めながら羨ましがりそうなお話でありますね。
 勿論、この発見にシュリーマンは「これでまたホメロスの伝説は正しいことが証明された!」…と大喜び。まぁ、実際には“ホメロスが描いた話の元ネタ”程度のお話なのですが、歴史の解明に重大な意義を持った発見であった事は言うまでもありません

 こうして2度目の成功を収めたシュリーマンは、次なる候補地をクレタ島に見定めて(なんて勘の鋭い!)、発掘予定地の買収まで取り掛かったのでありますが、ここでまたしてもトラブル発生。地主との金銭上の交渉が紛糾し、結局発掘開始には至りませんでした
 これがもしトロヤ発掘の頃のシュリーマンならば、それこそ全財産を叩いても発掘に漕ぎ着けたでしょう。しかし、発掘活動開始から既に20年。さすがの“鉄人”も、ここに来てモチベーションが鈍っていたのでしょう。

 結局、シュリーマンが何も為さぬままクレタ島をあとにしてから約10年後、彼が果たすはずであった偉業はイギリスの考古学者・アーサー=エヴァンズによって遂行される事となりました。この講義でも少し紹介した、ミノタウロス神話のモデルであろうと言われるクノッソス宮殿などの大発見がそれであります。
 その発見があった頃(1900年)は、シュリーマンが亡くなってから既に10年が経過していましたが、もし彼にその報せを知る術があったとすれば、もう1度死ぬ勢いで悔しがった事でありましょう。
 ただ、歴史学に携わる者の観点から一言言わせて頂けるならば、遺跡を見つけたら闇雲に掘り返してしまうシュリーマンよりも、ちゃんとした計画を立てて“遺跡に優しい”発掘をしてくれる専門家であるエヴァンズが掘ってくれた方が助かったのも確かだったりするのです(笑)。

 ……こうしてエーゲ文明の遺跡は全て出揃いました。が、1つの文明の全貌を明らかにするためには、遺跡や遺物の発見だけでは不十分です。エジプトやメソポタミアのそれがそうであったように、当時に記されたまま遺されている文献資料を出来るだけ多く見つけ、更にその内容を解読して初めて当時の社会の実態が分かるようになるのです。
 以前お話したように、エーゲ文明には3つの言語が使用されていました。そして中でも「線文字B」と呼ばれる言語はサンプルも多く、何人もの言語学者が解読に挑んでいったのであります。
 ところが、この「線文字B」はなかなかのクセモノで、誰が解読を試みても、その手掛かりすら掴む事が出来ない難読の文字でありました。解読に挑んで失敗した学者の中には、ヒッタイト文字の解読で業界の第一人者の座にあったフロズニーもいて、まさに死屍累々の有様といったところだったのです。

 ところが1952年、そんな閉塞した状況を、颯爽と現れ出でた1人の天才青年が鮮やかに打ち破って見せました。その青年の名はマイケル=ヴェントリス。エーゲ文明の歴史解明は、彼の登場をもってクライマックスを迎えることになりました。

 ヴェントリスのエーゲ語解読にまつわるストーリーは、1936年から始まります。この時、彼はまだ14歳の少年でありました。
 この年、少年の住むイギリスはロンドンで、エーゲ文明についての一般向け講演会が開催されました。演壇に立ったのは、クレタ文明の発掘者・アーサー=エヴァンズ。彼は既に80歳を超えていましたが、未だにエーゲ文明研究の第一人者として現役にありました。
 この講演会の客席の中に、ヴェントリスが座っていたというわけです。彼もシュリーマンと同じように、幼い頃から歴史や考古学について興味を持っていたのでありますが、この少年が変わっていたのは、その好奇心のベクトルが伝説や歴史ではなくて、古代の難読文字に向かっていた事でありました。
 既に7歳にしてエジプト絵文字に関する書物(しかもドイツ語!)を読了していたという彼は、エヴァンズの語るエーゲ文字の世界に瞬く間に魅了されてしまいました。何しろ彼は14歳。人生の中で最も感受性が剥き出しになっている年頃であります。この講演会をきっかけに、彼の生涯の夢は「エーゲ文字を解読すること」に決定付けられたのでありました。

 それからのヴェントリスは、情熱の全てをこのエーゲ文字解読に捧げて少年・青年期を過ごします。公刊された書物から独学で研究を進め、その過程で仮説を立てては同人誌的な物を刷り上げて本職の言語学者に批評を仰ぐまでしました。ド厚かましい話ではありますが、大体この業界で成功を収める人と言うのはこの種の神経の太さを天然で持ち合わせているような気がします。
 しかし、時は既にベルリン=ローマ枢軸が成立しようする激動の時代。間もなく開始された第二次世界大戦のために、世界中あらゆる分野の学究活動は一時中断。ヴェントリス少年も、ナチスドイツの空爆に怯えながら仮の職業として建築家を志し、やがて訪れるであろう平和を待ち焦がれる日々を過ごしました。

 戦争とその後の混乱期が終わった1950年青年となったマイケル=ヴェントリスは遂に研究活動を再開します
 そしてこの頃、既にエーゲ文明研究の至宝・エヴァンズは現世の人ではなくなっており、彼の主張していた仮説にとらわれない新しい研究が進められようとしていました
 例えば、エヴァンズはミケーネ文明をクレタ文明がギリシア本土へ伝播したものであると考えていたのですが、実はそれは逆ではないかと言われるようになったのです。つまり、末期クレタ文明はミケーネ文明の勢力が進出して来たものではないのか…というわけです。何でも、ミケーネ文明にあった、男性が髭をたくわえる風習がクレタ島に伝播していたのが決め手になったという事です。たかが髭、されど髭であります。
 この発想の転換はヴェントリスの「線文字B」解読に大きな影響を与えました。「線文字B」はクレタ文明の末期に使用されたとされる言語。という事は、この言語はクレタ島で使用されていた文字でありながら、ギリシアに本拠地を置いていた人々が使用していた可能性が非常に高くなるからです。
 それまでに、「線文字B」の大まかな特徴は解明していたヴェントリスは、新しい説を受けて、この文字をギリシア語文法に当てはめてみる事にしました。すると、どうでしょうか。それまで文字の羅列に過ぎなかった「線文字B」が、まるで木に命が吹き込まれてピノキオになったように、意味の理解できる古代ギリシア語へと姿を変えてゆくではありませんか!
 西暦1953年この年こそが、ヴェントリスの少年からの夢が現実のものとなった年でありました。「線文字B」解読成功のニュースは世界中を駆け巡り、この年の他の大ニュース──スターリン死去、ヒラリーのエベレスト登頂など──と共にイギリスにおけるその年の世界十大ニュースの1つとして数えられることになりました。

 しかし残念ながら、ヴェントリスがその後、更なる成功を収める事は叶いませんでした。何故なら、1956年10月に彼は自動車事故によって34年余の短い生涯に幕を閉じてしまったからなのです。
 まるで「線文字B」を解読するためだけに生を受けたような早熟の天才・マイケル=ヴェントリス。その早逝はあまりにも惜しまれる出来事でありましたが、彼の遺した功績はその後も全く色褪せる事はありません。彼によって解読された「線文字B」こと超古代ギリシア語がエーゲ文明の実態解明にとっての大きくて確かな足がかりとなった事は言うまでもないところであります。

 ……さて、長々とエーゲ文明の実態解明に尽力した人々の話を続けて来ましたが、ここで一区切りとし、再び話を歴史の概説に戻してゆきたいと思います。
 次回からは、暗黒時代の明けたギリシアにおける都市国家・ポリスの成立について、いくつかのお話をさせて頂くことにします。(次回へ続く

 


 

12月8日(日) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(22)
第3章:地中海世界(3)〜エーゲ文明に生涯を捧げた学者たち《続》

※過去の講義レジュメ→第1回〜第19回第20回第21回

 前回からエーゲ文明の遺跡発掘や文字解読に関わった人物のエピソードをお話しています。前回はトロヤ文明の発見者・ハインリヒ=シュリーマンが発掘活動を開始するまでのお話をしましたが、今回はその続きから始めましょう。

 1868年、日本では徳川幕府政権の退陣に揺れ動くその頃、シュリーマンの発掘活動が遂に開始されますが、これに先立ち、シュリーマンは念願のギリシア語習得を果たしています。
 かねてから「ギリシア語を学び出したら生業が疎かになる」と公言していた通り、彼は貪るように現代・古代の各種ギリシア語をマスターしてゆきました。そして、憧れのホメロスの著書を、今度は絵本ではなくオリジナルのギリシア語詩で次々と読破していったとのこと。これが彼のモチベーションに影響を与えた事は言うまでもありません。

 しかし、そんなシュリーマンも考古学者としては全くの素人です。初仕事となったイタカの島での発掘活動では目ぼしい発見はなく、完全な失敗に終わります。
 また、彼がその発掘場所を選んだ理由が、「ホメロスの詩などによると、英雄オデュッセウスの館がここにあるらしい」…といった“トンデモ”なものであったことから、本職の考古学者各氏の嘲笑を浴びてしまうことになりました。

 とはいえ、シュリーマンもこれで引き下がるような生き方はしていません。苦い経験から3年後、いよいよ彼は生涯の目標でもあるトロヤ発掘に乗り出します。
 実はこの当時、考古学者の間でも既にトロヤ文明の実在が囁かれており、「おそらく遺跡があるのはここであろう」という“候補地”が決められていたのでありますが、シュリーマンはこれを敢えて無視します。理由はまたも「ホメロスの詩によると、トロヤはもっと海に近いところにあるはずだ」…というもの。どこまでもシュリーマンはシュリーマンでありました。そして、その愚直なまでの熱意は奇跡的に実ります彼はホメロスの叙事詩の内容をそのまま信じてトロヤの遺跡を発見してしまったのであります! 
 この発見に際しては、その現場に立ち会ったシュリーマン(と、ひょっとしたら妻・ソフィア)以外の全ての人間が心底驚いたに違いありません。何しろ、この発見は言うなれば、『浦島太郎』の内容から竜宮城跡を海底から掘り当ててしまうようなものだったのですから……。

 発掘されたトロヤの遺跡は、時代別で9つの階層に及ぶ大きなものでありました。ただ、残念な事にそれらの遺跡は十分な記録が採られる事無く掘り進められてしまい、完全な再現は今では不可能なものとなっています。
 これは、シュリーマンが考古学の素人だった事も大きく影響しているのですが、それよりも彼が「この遺跡がトロヤ文明の跡である」という証拠を探す事に焦ったためだと言われています。
 ……確かに大人気無い話ではありますが、何しろシュリーマンは、この件で幼い頃から馬鹿にされて来た暗い過去がある事を忘れてはいけません。藤子・F・不二雄先生のSF短編で、口下手な大物政治家が妻に思う存分文句を言いたいがために、持ちうる全ての権力を駆使して(通信にタイムラグが発生する)宇宙へ旅立つ話がありますが、彼もまた、その類の強い執着があったのでありましょう。
 ですが結局、そこまでしてもシュリーマンが発掘した遺跡から、そこが「トロヤ」という地名である事を証明する物は発見される事はありませんでした。それどころか彼は遺跡の年代確定を誤っていて、死んでからその功績にミソをつけてしまう事になってしまいました。この辺りが素人の限界だったようです。
 しかしそれでも、彼が遺跡を発掘したという功績は素晴らしいものですし、その後に研究を引き継いだ人たちのお蔭で、今ではこの遺跡はトロヤ文明であると断定されています。また、ホメロスの詩にあった出来事も、全てが事実では無いにせよ、事実を元にしたセミ・ドキュメンタリーのようなものではなかろうか…という感じで理解されています。

 ……こうして、シュリーマンは歴史に名を遺す偉大な発見者となる事が出来たのでありました。

 が、彼の活躍はここでまだ終わりません。なんと、ここから更に“ダメ押しの一撃”をブチかますことになるのです──

 やや短いですが、今日はこれまで。次回は、そんなシュリーマンの更なるエピソードのお話と、その他のエーゲ文明に関わった人物について、いくつかの話を述べてゆきたいと思います。(次回へ続く

 


 

11月27日(水) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(21)
第3章:地中海世界(2)〜エーゲ文明に生涯を捧げた学者たち

※過去の講義レジュメ→第1回〜第19回第20回

 いよいよ古代ヨーロッパのエピソードに入ったこの講義、前回は地中海世界の黎明期・エーゲ文明時代の歴史について概説してゆきました。
 本来ならば、今回からいよいよ古代ギリシア史に話題を進めてゆくのでありますが、ここでやや寄り道をさせて頂きまして、エーゲ文明の遺跡発掘や文字解読に生涯を捧げた人たちの人生の軌跡について、いくつかのサイドストーリーをお話してみたいと思います。

 エーゲ文明時代の遺跡発掘に携わった人の中で、一番の有名人と言えば、これはもう、ドイツ出身の大富豪・ハインリヒ=シュリーマンをおいて他に出ないでありましょう。
 彼の波乱万丈の人生は1822年1月6日、ドイツ帝国(当時)北部のノイエ・ブコーなる小村から始まります。プロテスタントの牧師を父に持つシュリーマンは、幼い頃から伝説や昔話が大好きな夢見がちの子供だったそうで、実際、その人生を決定付けたのも1冊の昔話の絵本でありました。
 その本とは、父親が8歳(7歳の説もあり)の誕生日のプレゼントに買い与えてくれた、「子供のための世界史」という古代史や伝説をモチーフにした子供向けの本。シュリーマン少年はその本を貪るように読みふけり、やがて、その中に収録されていたトロヤ戦争のエピソードに深く心を魅了されるようになりました。そして、シュリーマン少年は心に決めました。
 「大人になったら、トロヤの城跡を掘り当ててみせる」
 …それを聞いた大人は勿論のこと、昔話と現実の区別がつき始めていた周囲の子供たちも彼をバカにしました。しかし、そんな中でただ1人、ミンナという少女が、「私も将来、一緒にトロヤに行ってあげるから」と、シュリーマンの味方をしてくれたこともあり、彼は「今に見ていろ」とばかり、ますます情熱を燃やしたのでありました。

 しかし、そんなシュリーマン一家に不幸が訪れます。牧師の父親が不祥事を起こし、一家離散の上、村から立ち退かなければならなくなったのです。シュリーマン少年は、唯一の理解者・ミンナとも離れ離れとなり、オランダの雑貨屋へ奉公に出されることになったのです。当然のことですが、彼の「トロヤ遺跡を掘る」という夢も中断を余儀なくされました
 余談ですが、皆さんが恐らくご想像した通り、シュリーマン少年にとって、唯一の理解者・ミンナは初恋の相手であったようです。
 彼は人生設計のメドが立った24歳になって、純情にも長らく音信不通になっていた彼女にプロポーズをしたのでありますが、折悪しく彼女はその数日前に別の男と結婚した後だったそうです。その時のシュリーマンの落胆振りは見るに見かねる程であったようです。ただし、彼は後に人生最大の理解者・ソフィアと出会い、幸せな家庭を築く事になりますが──。

 それからのシュリーマンの人生は、まさに波乱万丈としか言い表せない程の起伏に富んだものでありました。
 雑貨屋の丁稚修行で辛い少年期を過ごし、その後も病気に倒れたり失業したりで貧困に苦しんだりもしました。しかしその後には、独立して個人で始めた商売が大成功して、最後には巨万の富を築き上げる“一発逆転”を実現したりもします。(もっとも、その間も船の難破事故で奇跡的に助かったり、全財産を注いで買い入れた商品を危うく全焼させる羽目になりかけるなどの酷い目にも結構遭っているのですが……)

 ところで、この商売の成功には裏がありました。彼は多くの国で貿易を成功させるために、独学でヨーロッパだけでも7ヶ国の言語(英語、オランダ語、ロシア語、イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語)を習得していたのです。特に、西ヨーロッパ人の大半が喋れなかったロシア語が堪能であったことが有利に働いたようです。
 彼の語学学習法は全くのオリジナルなものでした。
 まず、学習したい言語で書かれた本を購入します。安くて出来るだけ分厚い本を古本屋で買って来ることが多かったそうです。
 で、本を買って来ると、その本を何度も何度も大声を張り上げて音読し、それを何週間も何ヶ月も、本の文面を全て暗誦出来るまで続けます。それがあまりにも熱心だったため、近所迷惑のカドで下宿を追い出される事も度々だったと、後にシュリーマンは語っています。また、ただ暗誦するのは張り合いがないので、わざわざ耳の不自由な人を雇って来て、誰かに聞いてもらっているつもりになって暗誦の練習に勤しんだとのことであります。今なら眉をひそめられるような話でありますが、それくらい熱心だったということは間違いありません。
 そうやって読む方が完全になると、今度は本の中の文章について単語を入れ替えて別の文を作り、それをネイティブの人に添削してもらって正確な語法を学習してゆきました。この学習法によって、シュリーマンは多くの言語の読み書きを完全にマスターしただけでなく、類稀な記憶力を手に入れる事ができたそうです。最後には1つの言語をマスターするのに6週間かからなかったと言いますから凄い話です。
 と、そうやって数多くの言語を習得したシュリーマンでしたが、「この言語にだけは手を出すまい」と心に決めていたものがありました。
 その言語とはギリシア語。そう、トロヤ文明に関する文献を読むためには欠かせない言語です。彼は「ギリシア語を勉強してしまったら最後、自分はトロヤに関するギリシア語文献を片っ端から読みふけってしまい、商売が疎かになってしまうに違いない」と考え、我慢に我慢を重ねてギリシア語には手を出さずにいたのでありました。流浪の人生を歩んでもなお、彼はトロヤ文明の発掘を諦めていなかったのです。

 1864年、一生の裕福な生活が保証されるほどの富を築いたシュリーマンは、42歳にして実業界から身を引いて、己の夢のために余生を捧げる決心をしました。
 まず彼は、妻・ソフィアと共に3年間の世界漫遊旅行に出てゆきました。そのコースの中には開国間もない幕末の江戸も含まれていたそうですから、正に世界一周旅行だったようです。
 そして1868年、ついにシュリーマンは遺跡発掘に乗り出します。彼の波乱万丈の人生も、いよいよ最終段階を迎えていたのでした──。

 こんないい所で切ってしまうのは心苦しいのですが、今回はここまで。次回はシュリーマンの遺跡発掘と、その他の功績者たちのエピソードも紹介したいと思います。(次回へ続く

 


 

11月20日(水) 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(20)
第3章:地中海世界(1)〜エーゲ文明

 ※過去の講義レジュメ→第1回〜第19回

 お待たせしました。今回から歴史学講義を再開します。
 今後は週1〜2回の、ややゆったりしたペースで進行させてゆきたいと思います。ただ、お約束していた来春までの講義完結は、どう考えても無理な状況になってしまいました。まさかオリエントまででこれほどのロングランになるとは予測していませんでしたので……。
 春以降、このサイトがどうなるかは全く未定なのですが、この企画は何らかの形でライフワーク的に続けてゆきたいと考えていますので、どうかご理解下さい。

 さて、今回からは舞台を地中海世界に移し、古代ギリシアアレキサンダー大王の事績、さらには古代史最大のトピックとも言える古代ローマの歴史についてお送りします。
 そしてまず今日は、古代ギリシア世界の成立に先立って、ギリシア南部と、その更に南に浮かぶクレタ島に成立したエーゲ文明のお話をしてゆきましょう。

 まず、現在のギリシア及びエーゲ海地方に、農耕・新石器文化を持った人々が定住し始めたのは紀元前7000〜6000年頃だと言われています。ただし、その文化を構成していた人々は、後のギリシア人の直接の祖先ではなかったようであります。
 そのギリシア人の祖先がこの地方に姿を現したのは、紀元前2000年前後と言われていますが、最近の研究では、そこから最高1000年程度遡って考える事も可能である…とされているようです。恐らく、確定までには相当の検証の余地が残っているのではないかと思われます。
 彼らは恐らくアナトリア半島から時間をかけて移り住んで来た人々で、各地で青銅器文化を築き上げてゆきました。ギリシア地方では青銅器の材料である銅と錫は調達出来ませんので、アナトリア半島や、その近くに位置するキプロス島まで船を出して輸入していたのでありましょう。後に地中海世界一帯に植民都市を建設してゆくギリシア人ですが、その萌芽はこの時代に認められるということになりますね。

 この文化が文明と言える段階まで発展したのが紀元前20世紀でした。オリエント史で言えば、ウル第3王朝の滅亡があった時期やエジプト中王国時代の初期にあたります。
 まず、文明が成立したのは、ギリシアから100キロほど南にあるクレタ島でした。そして、この文明を島の名前からクレタ文明と呼びます。
 大陸から隔絶された島で文明が開かれたというのは意外かも知れませんが、エーゲ地方のすぐ近くには航海技術を持ったオリエント人住んでいましたし、この地域における青銅器文化に航海技術が必要不可欠であった事を思い出してもらえれば納得して頂けるでありましょう。
 クレタ島は東西に細長い(約270km)の島で、四国の半分程度の面積をしています。この文明では、その初期からいくつもの宮殿が建てられましたが、特に有名なものは、この文明の最盛期(紀元前1600〜1400年頃)に栄えたクノッソス宮殿で、クレタ文明のあらゆるエッセンスが凝縮された建造物になっています。
 クノッソス宮殿は城壁らしい城壁が無くこの時代には文明を脅かす外敵が存在しなかったことを現しています。
 そして、そんな平和の恩恵でしょうか、この時代の文化は極めて開放的。数多く描かれ、遺されている絵画なども、写実的かつ躍動感に満ち溢れた素晴らしい物が多いのであります。ここで資料をお見せ出来ないのが残念ですが、壷一面に描かれたタコの絵や、魚やイルカが伸び伸びと泳いでいる壁画などが大変印象的です。戦争にまつわる絵が皆無だというのも“お国柄”を体現しています。
 ちなみに専門家によると、これらの絵は古代エジプト文明の影響が色濃いとの事。クレタ文明に、先発のオリエント文明が与えたものは少なからずあったようです。
 このクノッソスは、宮殿の他に、一説によれば人口10万人弱の大きな都市が築かれて大いに栄えたと言われています。島国ゆえ、産業の発展は限られていましたが、それを補って余りある対外貿易による利益のお蔭で非常に豊かな都市経営がなされていたようです。
 使用されていた文字は、後に“絵文字”“線文字A”と分類される事になる象形文字ですが、余りにもサンプルと対訳のための資料が少ないために未だ解読が為されていません。ただし、最近の研究成果では、この文字も絵画同様、古代エジプト文明の影響を受けているというところまでは判明しています。
 
 ところで半ば余談になりますが、このクノッソス宮殿はとにかく部屋の数が多く(300程度)、それも大・小デザインが不規則なのが有名であります。その、どう考えても住人を迷わせるためとしか思われない設計は、まさに“迷宮”と呼ぶに相応しく、また事実、この宮殿はギリシア神話に登場する「ミノタウロスの住む迷宮」のモデルとされています。
 ここではこの神話の内容を詳述する事は避けますが(検索エンジンで『ミノタウロス/ギリシア神話』などと検索すれば、駒木よりその手の分野で博識な方の話がいくらでも閲覧できますので)この神話に出て来るクノッソスの王・ミノスの名を取って、この文明をミノス文明と呼ぶ事もあるという事だけは言い添えておきます。

 さて、過去の講義でも散々述べました通り、どれだけ栄えた国や文明も滅びる時がやって来ます。クレタ文明にも崩壊の時がやって来ました。

 紀元前16〜15世紀頃でしょうか、先にギリシア地方に定住していたアカイア人がクレタ島にも進出し、やがてこの文明の内部に深く根を張っていきました。
 そして遂に紀元前1400年頃このアカイア人の手によってクノッソス宮殿は戦火に焼かれ、姿を消してしまうのです。これ以後、クレタ島は地中海世界の辺境に過ぎなくなります。

 クレタに変わってこのエーゲ文明の中心地になったのは、現在のギリシア中南部、アテネから西に100kmほど離れた場所にあったミケーネという都市でした。ゆえに、この地方に栄えた文明をミケーネ文明と呼びます。
 ミケーネ文明は、クレタ文明の滅亡より以前、大体紀元前1600年頃に形成されたアカイア人の文明で、ミケーネの他にもギリシア南部一帯に、ティリンス、ピュロス、オルコメノスといった都市が建設されていました。
 この文明は、クレタ文明とは対照的に軍事色が濃く、城は堅固な構造で、高い城壁によって敵の侵攻を阻むように設計されていました。また、クレタ文明の技術をベースに、これらの築城で培われた高度な建築技術は大変に素晴らしいもので、それは、各種の遺跡──獅子門と呼ばれる城門や石造りの墳墓など──から窺い知る事が出来ます。
 ミケーネ文明の栄えた地域では、(これ以後の時代でもそうなのですが)麦などの主食となる作物が育ち難い替わりに、オリーブブドウなどの商品作物が栽培できる、いわゆる地中海式農業が盛んでした。ですから、やはりこの時代も貿易が盛んで、かなりの荒稼ぎをしていたようです。それは各地の遺跡で発掘された黄金製の財宝によって証明されています。
 ただ、軍事色の強かった彼らですから、貿易とは言っても平和的なものではなく、時には恫喝、略奪まがいのこともやってのけたようです。そのため、時代が経つにつれてミケーネ文明では貿易が奮わなくなり、文明滅亡の遠因となってしまったようです。まさに因果応報を巡る…といったところであります。
 ミケーネ文明でも文字が使用されていました。これはクレタ時代の文字と区別するために“線文字B”と呼ばれていて、解読も済まされています。この言語は現在のギリシア語によく似ています。ですから、その後の文明との連続性がかなりある事が分かりますね。

 そんなミケーネ文明の滅亡紀元前1200年頃教科書や参考書では、ドーリア人という、アカイア人と共に後のギリシア人を構成する民族に攻め込まれた…とされていますが、最近の学説では否定されているようです。知ったかぶりして教科書や参考書の内容のままギリシア史を語ると恥をかきますので、どうぞお気をつけ下さい。
 滅亡の原因には諸説あるようですが、滅亡の100年ほど前から内的な原因──例えば貿易の衰退──によって文明そのものが衰え出し、そこへオリエントのヒッタイト王国をも滅ぼした“海の民”に侵略されたために滅亡した…というのが有力な説のようです。
 この後、ギリシア地方はしばらく“暗黒時代”と呼ばれる、文化活動がほどんど見られない時期が続くことになります。この“暗黒時代”のギリシアについて述べられた史料は極めて少なく、残念ながらこの講義でも「わけの分からない時代が数百年続いた」としか申し上げる事が出来ません。

 さて、エーゲ文明に属する諸文明として、かなり異色なものとして挙げられるのが、ほとんどオリエントと言って良いような地域、アナトリア半島西北端に栄えたトロヤ文明です。
 この文明、困った事に、有名な割には考古学的な発見が多くありません。むしろ、この遺跡を発掘した考古学者・シュリーマンの人生活劇の方が語る部分が多いくらいです(次回以降、エーゲ文明の遺跡発掘などに携わった人たちの人生を追いかけます)
 分かっていることは、恐らく紀元前2500年前後に都市が築かれて文明が形成され、それが紀元前1200年頃まで続いたこと。そして滅亡の原因となったのは大規模な戦争で、これはどうやらギリシア神話の1エピソードである“トロヤ戦争”のモデルになったものであるらしい…ということであります。
 神話のトロヤ戦争は、トロヤの王子がギリシアのスパルタから王妃を誘拐した事から始まるギリシア連合軍VSトロヤの大戦争。トロヤの宮殿に大きな木馬を造らせて兵士を潜ませ、油断したところを不意打ちした…という“トロイの木馬”の話が非常に有名です。また、この神話に登場する英雄の中に、古代ローマの建国者ロムルスの祖先と言い伝えられるアエネイスがいます。エーゲ海を跨いで、時代をも跨いだ壮大な神話でありますね。

 ……というわけで、今回はエーゲ文明の姿について概説をしてまいりました。固有名詞が登場しない歴史ゆえ、かなりダルいものだったと思いますが、どうかご容赦下さい。
 この後は、“暗黒時代”を脱したギリシアに、アテネやスパルタなどのポリス(都市国家)が成立し、栄える事になるのですが、これはまた次の機会のお話となります。
 さて次回は、今回お話しましたエーゲ文明の遺跡発掘や文字解読に人生を捧げた人たちのエピソードを幾つか紹介したいと思っています。大きく横道に逸れますが、興味深い話も多くある部分ですので、どうぞお付き合い下さい。(次回へ続く


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