「社会学講座」アーカイブ(世界史・2)
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講義一覧
2/24 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(30) 第3章:地中海世界(11)〜ペルシア戦争《1》 2/12 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(29) 第3章:地中海世界(10)〜ギリシアの盟主・アテネの成立とその歩み《続々》 2/3 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(28) 第3章:地中海世界(9)〜ギリシアの盟主・アテネの成立とその歩み《続》 1/29 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(27) 第3章:地中海世界(8)〜ギリシアの盟主・アテネの成立とその歩み 1/20 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(26) 第3章:地中海世界(7)〜軍事都市国家・スパルタの成立《続》 1/14 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(25) 第3章:地中海世界(6)〜軍事都市国家・スパルタの成立 1/5 歴史学(一般教養) 「学校で教えたい世界史」(24) 第3章:地中海世界(5)〜ポリスの形成と発展 ↑2003年分 /↓2002年分 12/15 歴史学(一般教養)
「学校で教えたい世界史」(23) 第3章:地中海世界(4)〜エーゲ文明に生涯を捧げた学者たち《続々》
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2月24日(月) 歴史学(一般教養) |
※過去の講義レジュメ→第1回〜第19回/第20回/第21回/第22回/第23回/第24回/第25回/第26回/第27回/第28回/第29回 進行度合が遅れ気味の上、講義の間隔が開いて申し訳有りません。どう考えても3月一杯で区切りがつけられるとは思えませんが、前々から言っておりますように、この「学校で教えたい世界史」はライフワーク的に今後もジワジワと進めていくつもりですので、業務縮小後もどうぞよろしく。 ──時に紀元前522年、物凄い勢いでオリエント世界を征服していったアケメネス朝ペルシアに新しい王が誕生しました。その名はダレイオス1世。エジプトに没した先王・カンビュセス2世の跡目を巡る戦いを制して、王座に君臨した人物だという事は、既にお話した通りであります。 ところが、ダレイオスの治世も半ばを過ぎた紀元前500年、その“ダレイオスの手足”が突如、暴走を始めます。 アナトリア半島の南部沿岸にミレトスというギリシア植民市がありました。そこは僭主政が採用されており、当時はアリスタゴラスという人物がペルシアの権力を背景にその座を占めておりました。 紀元前500年、進退極まったアリスタゴラスは突如ペルシアに反旗を翻します。アリスタゴラス本人が、果たしてどこまで事の成り行きを考えていたのかは分かりませんが、これが長い長いペルシア戦争の直接のきっかけになったのでありました。 が、奇策が通じるのはあくまでも短期決戦の時だけ。一時、ギリシア反乱軍はアナトリア半島のペルシア都市へ次々と攻め込んでいったのですが、第一波が跳ね返されると、たちまち情勢は逆転してしまいました。 結局、この大反乱は5年で完全に鎮圧されてしまいます。ミレトスなど反乱を起こした植民市は再びペルシアの支配下に置かれる事になりました。ダレイオス1世は暴君ではなかったので、ギリシア人たちが表向きに懲罰的な仕打ちを受ける事は無かったようですが、かと言ってタダで済むわけでは有りません。溜めたツケは、いつかムリヤリにでも返さねばならない羽目になるのです。 このように、ペルシア戦争とは視点によって、その価値が大きく変わって来る戦争です。アケメネス朝ペルシアの歴史からすれば、たくさんあった戦史の1つに過ぎないかも知れません。しかし、少なくともこのエピソードの主役であるギリシア人たちにとって、これは“天下分け目の大戦争”であった事は間違いありません。彼らは必死に戦い、時には大勢の同朋を失いながら、それでも決して屈服する事は有りませんでした。その時のギリシア人の姿は、勇ましく、美しく、それとおなじくらい痛ましいものでした。 ……さぁ、冗長なプロローグはここらで終わりにしましょう。いよいよ次回からは本格的に古代ギリシア史上に残る“天下分け目の大戦争”についてのお話を始める事にしましょう。 (次回へ続く) |
2月12日(水) 歴史学(一般教養) |
※過去の講義レジュメ→第1回〜第19回/第20回/第21回/第22回/第23回/第24回/第25回/第26回/第27回/第28回 全体の10%行っているかどうかだと言うのに、早くも10回目を数えてしまった「地中海世界」編ですが、今日も古代アテネ社会の変遷についてお話をします。次回からペルシア戦争という、この章におけるヤマ場の1つがやって来るため、“尺あわせ”で短縮気味の講義となりますが、ご了承下さい。 さて、前回は僭主・ペイシストラトスと、その後の息子たちによる政治について講義をしました。ペイシストラトスの子・ヒッピアスが暴政の末に追放され、スパルタまで介入しての大混乱となった…といった辺りまで話が進んでいたかと思います。 クレイステネスは貴族出身の政治家で、ヒッピアス追放後に台頭して来た有力者の1人です。彼は一時、政敵の圧力によって亡命を余儀なくされたりもしましたが、巧みに一般民衆を味方につけて勢力を挽回し、紀元前508年(ヒッピアス追放の14年後)にアテネの実質的政治指導者の地位に就きます。 そんなクレイステネスが行った施策は、大きく分けて2点あります。 まず1点目は部族制の改革です。 と、こうして民主政の基礎を創り上げたクレイステネスは、次にそれを守るための制度を設置します。日本語では「陶片追放」の名で呼ばれている、オストラキスモスの制度です。すなわちこれが、クレイステネスの改革の2点目となります。 しかし、ここまでの内容で「おや?」と思われる方がいらっしゃるかも知れません。こんな疑問を抱かれた方もいらっしゃるでしょう。 そして実際、このオストラキスモスは数十年ではありましたが、その意図するように働き、アテネの民主政を(半ば無理矢理にではありましたが)守り抜く事が出来たのです。 ……というわけで、クレイステネスはアテネの社会システムに大改造を施し、それを軌道に乗せる事に成功しました。この安定した状態が今しばらく続けば、アテネの、いやギリシアの歴史も大分変わったと思われるのですが、現実はそれを許してはくれませんでした。 ──クレイステネスの改革が始まって、まだ10年も経たない紀元前500年。ギリシア本国から地中海・エーゲ海を隔てたアナトリア半島の西端にある植民市・ミレトスから、この地を事実上支配下に置いていたアケメネス朝ペルシアに対する反乱の火の手が上がります。 ギリシアにとって長く、そして辛い戦争が、今まさに始まろうとしていました── (次回へ続く) |
2月3日(月) 歴史学(一般教養) |
※過去の講義レジュメ→第1回〜第19回/第20回/第21回/第22回/第23回/第24回/第25回/第26回/第27回 前回からギリシア一のポリス・アテネの歴史をお送りしていますが、今回は改革者・ソロンの引退後に訪れた混乱を収拾する人物が現れたところからお話を始めましょう。 その混乱するアテネに現れたニュー・ヒーローは名前をペイシストラトスと言い、アテネの中でも最も貧しい人たちが住む山地部出身の人物でありました。 ……と、ここで「あれ、ちょっとおかしいぞ?」と思った方は鋭い。よく講義の内容を覚えてらっしゃいます。 ……では、どうやってペイシストラトスは政権を奪取出来たのでしょうか? このペイシストラトスのように、非合法的手段──つまりクーデターでポリスの政権を奪い、独裁者になった人物を“僭主”と呼びます。僭主政治は、スパルタ率いるペロポネソス同盟の主要ポリス・コリントで紀元前7世紀に発祥した政治形態で、古代ギリシア世界ではたびたび見られるものであります。 ではここで、そのペイシストラトスが挙げた政治上の実績を紹介しておきましょう。 まずは農業の振興。かねてからの混乱で亡命した有力者の土地を一旦国有化し、それを無産市民や小農に再分配することで中小農民を育成しました。特に困窮する貧農には最大限の配慮をし、種子の貸し出しや税率の低減、さらには土地問題を審議するための裁判所出張サービスまでしたそうです。この辺りは“庶民派君主”の面目躍如といったところでありましょうか。 次に商業の奨励。アテネのあるアッティカ地方は、元々それほど農業に向いた土地ではありませんでした。ですので、商業の発展はアテネにとって死活問題であります。勿論、当時のアテネの有力者の多くは大商人だったわけですから、そちらの対策という意味合いもあったでしょう。 そしてペイシストラトスは、更に文化の面でも功績を残しています。パン・アテナイ(アテネ)祭や、ディオニソスの秘儀などの宗教的イベントを大々的に開催し、その祭りの中で全ギリシア規模の文化祭のようなものを催す事で、アテネの国力を周囲にアピールすると共に観光事業まで推進したようです。 ……と、このように、ペイシストラトスの時代にアテネは飛躍的な発展を遂げました。先に紹介した後世の歴史家の筆もそんなに誇張されたものではない事がお分かりになると思います。 このイレギュラーは他のポリスにとっても痛恨事だったようで、当時の全ギリシア情報センター&政治ご意見番と言われるデルフォイ神殿で、「アテネを解放せよ」という神託が下っています。 こうしてまたもや混迷の政情となったアテネですが、ここでまたしても1人の有能な政治家が現れ、アテネを見事に軌道修正させます。度重なるアテネの浮き沈みの激しさには呆れ返るばかりですが、それ以上にその生命力の強さにはただ驚くばかりであります。 では、やや短くなりましたが今回はここまで。次回はアテネ民主政の成立まで話を進めてゆきたいと思います。(次回へ続く) |
1月29日(水) 歴史学(一般教養) |
※過去の講義レジュメ→第1回〜第19回/第20回/第21回/第22回/第23回/第24回/第25回/第26回 前回はスパルタの社会制度が確立されるまでを見届けたところまでをお送りしましたが、スパルタとはひとまず別れを告げまして、今回からは古代ギリシア世界でスパルタと並び称される大型ポリス・アテネの成立と社会制度の変遷をお話してゆきます。 アテネはアッティカ地方──ギリシア中部の東に出っぱった部分に位置したポリス。地理的条件の関係で暗黒時代の混乱があまり見られなかった…という事を第24回にお話しましたが、覚えていらっしゃるでしょうか。 建国当初のアテネに関しては、文献資料が非常に乏しいために詳細は漠然としていますが、他のポリスがそうであったように王政からスタートしたようです。そして、数十年して貴族政(寡頭政)に転換していったのも同じであったとされています。 ……アテネでは、このような社会システムがしばらくの間機能していたわけですが、これが数十年すると、現在の日本と同様に構造的な問題を抱えるようになりました。 ただ、社会の変革がそれだけならば害は少なかったのですが、商業と貨幣経済の発達は平民、特に貧困層に致命傷と言うべき打撃を与えてしまいました。輸出用農作物を確保したい富裕層が、カネにモノを言わせて土地を買い漁ったり、そのために農民への融資の利息を釣り上げるなどしたために、破産する中小農民が続出する惨状となったのであります。 経済と権力の地盤を失いながら、既得権益にしがみついてこれを離さない貴族。 ……紀元前7世紀後半のアテネは、このような歪んだ三極分化の真っ只中にありました。有り体に言って暴発寸前の社会であります。一刻も早い抜本的な改革が必要なのは誰の目を見ても明らかでありました。 ソロンは極めて現状把握感覚に優れた政治家でありました。社会の中で修正しなければならない部分についてはキッチリと修正し、逆に無理に変えてはマズい部分に関しては、現実にあわせて制度の方を改正させてゆく…という手法を採用しました。近現代で言えば保守政党的な改革者といったところでしょうか。 彼がまず手をつけたのは、先ほど述べたところの破産した中小農民が債務奴隷となってしまう問題の解消でした。既に債務奴隷になっていた人々は、借金が棒引きされると共に自由の身へ。また、貸主が新たに借主を債務奴隷にする事を禁じる法律を明文化しました。これにより、債務奴隷を原因とするアテネの国力低下を食い止める事に成功したのでありました。 そしてもう1つソロンが手をつけたのは、先述した歪んだ身分制度・政治制度の改革であります。権力基盤を失ったものの既得権益にすがりつく貴族と、その逆の立場にある平民富裕層の対立が深刻なものになっていたのは既にお話した通りですが、彼はこの問題に真正面から立ち向かって構造改革を進めたのでありました。 この他の分野でもソロンによって改革が進められています。その中には、土地を失った農民の失業対策として新植民市を建設したり他のポリスから商工業者を好条件で誘致するなどの、後の資本主義の導入を思わせるほどレヴェルの高い施策まであり、21世紀の人間としても「よくぞここまで」と唸らされる思いであります。 こうしてソロンによって大改革が施されたアテネはたちまち立ち直りを見せ、大混乱はみるみる内に収束しました。 混沌した社会は新たなリーダーを要求し、生み出します。そしてこの時のアテネにもまた、新たなリーダーが彗星の如く現れるのであります。 |
1月20日(月) 歴史学(一般教養) |
※過去の講義レジュメ→第1回〜第19回/第20回/第21回/第22回/第23回/第24回/第25回 前回から古代ギリシアのポリス(都市国家)の全体像についてお話をしていますが、今回のテーマも、前回に引き続いてスパルタの国家システムについて。前回お話したメッセニアの大反乱(紀元前7世紀後半)が起こってから、スパルタはどのような都市国家に変遷していったのでしょうか。今日はそこにスポットを当ててお話をしてみることにしましょう。 ──奴隷階級・へロットを中心とするメッセニアの反乱を辛うじて鎮圧したスパルタ人たちですが、ここに至って彼らも、自らを取り巻く状況がのっぴきならない所まで来てしまった事をしみじみと痛感するところとなりました。 リュクルゴス体制になって、まず大きく転換されたのが対外政策でありました。 このようなスパルタの学問嫌いについて、こういうエピソードがあります。 そして、リュクルゴス体制で変わったのは対外政策だけではありません。国内の政治システムも大きく様変わりをしました。 ──このように、スパルタ人は古代としては極めて合理的かつ機能的である国家体制・リュクルゴス制を完成させ、膨大な数のへロットたちを屈服させると共に他国との接触を絶ってまででもそれを維持しようとしました。 そんなスパルタ人の人材育成は、産まれた赤ん坊が産声を上げた瞬間から始まります。支配階級たるスパルタ市民の出産には必ず長老や監督官が立会い、産まれたばかりの赤子が成人した後に勇敢で頑健な兵士になれるかどうか、または丈夫な子を産む母親になれるかどうかを判断するのです。 長老たちのお眼鏡に適った子供は、その後7歳まで親元で育てられますが、それからは男子と女子で進む道が異なります。 余談ですが、この軍隊で摂る食事というのが、栄養価だけは十分ながらメチャクチャ酷い味の料理だったそうで、他のポリスの人間にはとても食べられるものではなかったそうです。 一方、男子と違って女子は7歳以後も家庭にとどまって“花嫁修業”に勤しんだそうでありますが、この“花嫁修業”もやはりスパルタ式。丈夫な子を産むために、女子も頑健な体を作るために過酷な肉体トレーニングを積み、男子に混じってスポーツ競技会に参加する事さえしたそうです。 では、スパルタについての話は一旦ここで区切りを入れまして、次回からしばらくの間は、古代ギリシア・ポリス社会のもう一方の雄・アテネの歴史についてやや詳しく紹介することにしましょう。 (次回へ続く) |
1月13日(月・祝) 歴史学(一般教養) |
※過去の講義レジュメ→第1回〜第19回/第20回/第21回/第22回/第23回/第24回 前回は古代ギリシア時代の都市国家・ポリスについて概略を述べてゆきましたが、いよいよ今回からは視点をややミクロなものに切り替え、1つのポリスに的を絞った話をしてゆきます。 さて、スパルタと聞いてまず真っ先に連想されるのは、「スパルタ教育」に象徴される厳格かつ鎖国的な軍国主義システムでありましょう。しかし意外な事に、少なくとも建国当初から紀元前7世紀末までの間は、後に比べてもっと開放的で規律も緩やかなポリスであったようです。このスパルタが文字通りの“スパルタ式”に変わっていった理由については後に追って説明しましょう。 ところで今の説明の中で「市民」という言葉が出てきましたが、都市国家・スパルタに住む人間全てが「市民」とされたわけではありません。スパルタは明確な3身分制を採用しており、3つの身分の中で最上位に属する者しか「市民」である事を許されなかったのであります。 ……と、こうして都市国家・スパルタは、説明したような政治システムと身分制度の下で繁栄を勝ち取り、着々と領土を増やしてゆきました。 では次回は、メッセニア大反乱を受けて、いよいよ厳格な軍国主義国に生まれ変わったスパルタの姿についてお話したいと思います。どうぞよろしく。(次回へ続く) |
1月5日(日) 歴史学(一般教養) |
※過去の講義レジュメ→第1回〜第19回/第20回/第21回/第22回/第23回 前回の講義から約3週間の間隔が開いてしまいました。 ──さて、前回までの3回は半ば番外編のようなサイドストーリーをお送りしていましたので、今回お話する内容は第20回の続きという事になります。1ヶ月以上も前の講義ですので、どうぞ面倒臭がらずに復習して頂きたいと思います。 この“暗黒時代”、先に述べたような事情で詳しい事は全く分かっていません。が、どうやらこの間、ギリシアの内外では複数の民族が激しく衝突・移動し、結果として民族が麻雀で牌を混ぜた後のようにシャッフルされてしまったのは間違いないようであります。 結局、この“暗黒時代”は約400年ほど続きました。ごく一部ではかつての文明時代を思わせる規模の遺跡が見つかっていますが、ほとんどの地域では村落程度の小規模な集団が無数にひしめき合っていたのではないかと言われています。 ──それでは今から、そんな都市国家・ポリスの特徴を皆さんに紹介する事にしましょう。勿論、ポリスの姿はそれぞれに異なりますが、ここでは数多くの特徴の中でも最大公約数的なものを採り上げたいと思います。 まずポリスの中で最も重要かつ象徴的なものとして挙げられるのが、アクロポリスと神殿です。 ややズレた話を戻しましょう。そんなアクロポリスの麓には市民の家屋やアゴラと呼ばれる公共広場が広がっていました。 ──このような各種の施設や建造物を取り囲むようにして城壁が築かれ、その枠内がポリスという事になります。 さて、今“ギリシア人”という言葉が出ましたが、ここでギリシア人について簡単に説明して、今日の講義を締め括りたいと思います。 ……というわけで今回はポリスの成立過程やその姿についてお話をしました。次回からは、そのポリスの中でも代表的な存在であるスパルタやアテネの歴史について、やや詳しくお話をしてゆくことになります。では、また次回に。(次回へ続く) |
12月15日(日) 歴史学(一般教養) |
※過去の講義レジュメ→第1回〜第19回/第20回/第21回/第22回 今回も引き続き、エーゲ文明の解明に人生を捧げた人たちのエピソードを紹介します。 この時に発掘された遺跡・遺物は、5人分(!)の王族の墓と、その墓の主が身に着けていたおびただしい数の黄金の装飾品などなど。現在、発掘された遺物はギリシアの国立博物館に納められていますが、それらを見た誰もが驚嘆の声をあげるほどのシロモノであるそうです。何だか、徳川埋蔵金を発掘すべく9桁後半とも10桁とも言われる大金と果てしない労力を注ぎ込んだTBS関係者と糸井重里氏が、秘孔を突かれた小悪人のように顔を歪めながら羨ましがりそうなお話でありますね。 こうして2度目の成功を収めたシュリーマンは、次なる候補地をクレタ島に見定めて(なんて勘の鋭い!)、発掘予定地の買収まで取り掛かったのでありますが、ここでまたしてもトラブル発生。地主との金銭上の交渉が紛糾し、結局発掘開始には至りませんでした。 結局、シュリーマンが何も為さぬままクレタ島をあとにしてから約10年後、彼が果たすはずであった偉業はイギリスの考古学者・アーサー=エヴァンズによって遂行される事となりました。この講義でも少し紹介した、ミノタウロス神話のモデルであろうと言われるクノッソス宮殿などの大発見がそれであります。 ……こうしてエーゲ文明の遺跡は全て出揃いました。が、1つの文明の全貌を明らかにするためには、遺跡や遺物の発見だけでは不十分です。エジプトやメソポタミアのそれがそうであったように、当時に記されたまま遺されている文献資料を出来るだけ多く見つけ、更にその内容を解読して初めて当時の社会の実態が分かるようになるのです。 ところが1952年、そんな閉塞した状況を、颯爽と現れ出でた1人の天才青年が鮮やかに打ち破って見せました。その青年の名はマイケル=ヴェントリス。エーゲ文明の歴史解明は、彼の登場をもってクライマックスを迎えることになりました。 ヴェントリスのエーゲ語解読にまつわるストーリーは、1936年から始まります。この時、彼はまだ14歳の少年でありました。 それからのヴェントリスは、情熱の全てをこのエーゲ文字解読に捧げて少年・青年期を過ごします。公刊された書物から独学で研究を進め、その過程で仮説を立てては同人誌的な物を刷り上げて本職の言語学者に批評を仰ぐまでしました。ド厚かましい話ではありますが、大体この業界で成功を収める人と言うのはこの種の神経の太さを天然で持ち合わせているような気がします。 戦争とその後の混乱期が終わった1950年、青年となったマイケル=ヴェントリスは遂に研究活動を再開します。 しかし残念ながら、ヴェントリスがその後、更なる成功を収める事は叶いませんでした。何故なら、1956年10月に彼は自動車事故によって34年余の短い生涯に幕を閉じてしまったからなのです。 ……さて、長々とエーゲ文明の実態解明に尽力した人々の話を続けて来ましたが、ここで一区切りとし、再び話を歴史の概説に戻してゆきたいと思います。 |
12月8日(日) 歴史学(一般教養) |
前回からエーゲ文明の遺跡発掘や文字解読に関わった人物のエピソードをお話しています。前回はトロヤ文明の発見者・ハインリヒ=シュリーマンが発掘活動を開始するまでのお話をしましたが、今回はその続きから始めましょう。 1868年、日本では徳川幕府政権の退陣に揺れ動くその頃、シュリーマンの発掘活動が遂に開始されますが、これに先立ち、シュリーマンは念願のギリシア語習得を果たしています。 しかし、そんなシュリーマンも考古学者としては全くの素人です。初仕事となったイタカの島での発掘活動では目ぼしい発見はなく、完全な失敗に終わります。 とはいえ、シュリーマンもこれで引き下がるような生き方はしていません。苦い経験から3年後、いよいよ彼は生涯の目標でもあるトロヤ発掘に乗り出します。 発掘されたトロヤの遺跡は、時代別で9つの階層に及ぶ大きなものでありました。ただ、残念な事にそれらの遺跡は十分な記録が採られる事無く掘り進められてしまい、完全な再現は今では不可能なものとなっています。 ……こうして、シュリーマンは歴史に名を遺す偉大な発見者となる事が出来たのでありました。 が、彼の活躍はここでまだ終わりません。なんと、ここから更に“ダメ押しの一撃”をブチかますことになるのです── やや短いですが、今日はこれまで。次回は、そんなシュリーマンの更なるエピソードのお話と、その他のエーゲ文明に関わった人物について、いくつかの話を述べてゆきたいと思います。(次回へ続く) |
11月27日(水) 歴史学(一般教養) |
いよいよ古代ヨーロッパのエピソードに入ったこの講義、前回は地中海世界の黎明期・エーゲ文明時代の歴史について概説してゆきました。 エーゲ文明時代の遺跡発掘に携わった人の中で、一番の有名人と言えば、これはもう、ドイツ出身の大富豪・ハインリヒ=シュリーマンをおいて他に出ないでありましょう。 しかし、そんなシュリーマン一家に不幸が訪れます。牧師の父親が不祥事を起こし、一家離散の上、村から立ち退かなければならなくなったのです。シュリーマン少年は、唯一の理解者・ミンナとも離れ離れとなり、オランダの雑貨屋へ奉公に出されることになったのです。当然のことですが、彼の「トロヤ遺跡を掘る」という夢も中断を余儀なくされました。 それからのシュリーマンの人生は、まさに波乱万丈としか言い表せない程の起伏に富んだものでありました。 ところで、この商売の成功には裏がありました。彼は多くの国で貿易を成功させるために、独学でヨーロッパだけでも7ヶ国の言語(英語、オランダ語、ロシア語、イタリア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語)を習得していたのです。特に、西ヨーロッパ人の大半が喋れなかったロシア語が堪能であったことが有利に働いたようです。 1864年、一生の裕福な生活が保証されるほどの富を築いたシュリーマンは、42歳にして実業界から身を引いて、己の夢のために余生を捧げる決心をしました。 こんないい所で切ってしまうのは心苦しいのですが、今回はここまで。次回はシュリーマンの遺跡発掘と、その他の功績者たちのエピソードも紹介したいと思います。(次回へ続く) |
11月20日(水) 歴史学(一般教養) |
※過去の講義レジュメ→第1回〜第19回 お待たせしました。今回から歴史学講義を再開します。 さて、今回からは舞台を地中海世界に移し、古代ギリシアやアレキサンダー大王の事績、さらには古代史最大のトピックとも言える古代ローマの歴史についてお送りします。 まず、現在のギリシア及びエーゲ海地方に、農耕・新石器文化を持った人々が定住し始めたのは紀元前7000〜6000年頃だと言われています。ただし、その文化を構成していた人々は、後のギリシア人の直接の祖先ではなかったようであります。 この文化が文明と言える段階まで発展したのが紀元前20世紀でした。オリエント史で言えば、ウル第3王朝の滅亡があった時期やエジプト中王国時代の初期にあたります。 さて、過去の講義でも散々述べました通り、どれだけ栄えた国や文明も滅びる時がやって来ます。クレタ文明にも崩壊の時がやって来ました。 紀元前16〜15世紀頃でしょうか、先にギリシア地方に定住していたアカイア人がクレタ島にも進出し、やがてこの文明の内部に深く根を張っていきました。 クレタに変わってこのエーゲ文明の中心地になったのは、現在のギリシア中南部、アテネから西に100kmほど離れた場所にあったミケーネという都市でした。ゆえに、この地方に栄えた文明をミケーネ文明と呼びます。 そんなミケーネ文明の滅亡は紀元前1200年頃。教科書や参考書では、ドーリア人という、アカイア人と共に後のギリシア人を構成する民族に攻め込まれた…とされていますが、最近の学説では否定されているようです。知ったかぶりして教科書や参考書の内容のままギリシア史を語ると恥をかきますので、どうぞお気をつけ下さい。 さて、エーゲ文明に属する諸文明として、かなり異色なものとして挙げられるのが、ほとんどオリエントと言って良いような地域、アナトリア半島西北端に栄えたトロヤ文明です。 ……というわけで、今回はエーゲ文明の姿について概説をしてまいりました。固有名詞が登場しない歴史ゆえ、かなりダルいものだったと思いますが、どうかご容赦下さい。 |